チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

マリス・ヤンソンスの父アルヴィドも買ったヤマハピアノ(1958)

2014-08-12 20:10:19 | メモ

ロシア系の演奏家が次々にヤマハピアノを買ったという宣伝広告が「音楽芸術」昭和33年9月号裏表紙にありました。
リヒテルが本物のヤマハーだった話は有名ですが、他にもファンがいたんですね。

エミール・ギレリス...G-3型グランド
アルヴィド・ヤンソンス(※)...G-2型グランド
クルト・ザンデルリンク...U1Cアップライト
ロストロポーヴィチ...G-2型グランド

。。。をそれぞれお買い上げです。55年も前なのに日本の技術はすばらしいっす!

↓※アルヴィド・ヤンソンス(Arvid Jansons, 1914-1984)。ラトヴィアの指揮者。マリス・ヤンソンスのお父さん。

 

↓ 「音楽の友」の表紙を飾ったアルヴィド・ヤンソンス

 

↓ ムラヴィンスキーが来日できなくなり、レニングラード・フィルを指揮したヤンソンス。ショスタコーヴィチとチャイコフスキーそれぞれの5番を振った。(1970年7月19日東京文化会館)


陸軍軍楽部管弦楽団(1925 日比谷音楽堂)

2014-08-11 22:28:54 | 日本の音楽家

最近、あんまり音楽とか興味なさそうな古本屋でヘンダースン著、門馬直衛訳『オーケストラ講話』(岡田比榮堂・大正14年発行)を216円税込で買ったんだす! これってもしかして値打ちもん?

でも調べたらこの本、国会図書館で電子化されていて、画面で閲覧できるそうです。ちょっと残念(?)

 

さてこの本に大正14年5月10日日比谷音楽堂での演奏会の写真が載っていました。

↑指揮者は佐藤清吉氏。何の曲を演奏しているんでしょうか?

 

同じ日ですが指揮者は平野主水氏に変わっています。

垂れ幕を見るとこの日は大正天皇の銀婚式のお祝いだったようですね。客席満員!

オーケストラは見るからに統制取れてっぽいですが、もしあればSPレコード等で演奏聴いてみたいです。


初来日のウィーン・フィルが太鼓判を押した八幡製鉄所体育館の音響

2014-08-09 23:12:50 | 来日した演奏家

「音楽之友」昭和31年7月号に、ウィーン・フィル公演の主催者である朝日新聞社の記者による記事が掲載されています。

1956年ウィーン・フィル初来日時の九州公演(4月16日)のときのこと。会場は八幡市の八幡製鉄体育館
八幡製鉄の体育館だけあって収容人数が6,000人とすごく大きいし、当日のプログラムの中にモーツァルトのファゴット協奏曲が入っていることからファゴットのエールベルガー(Karl Öhlberger, 1912-2001)、そして指揮者ヒンデミットも本番前は音響効果をしきりに気にしていたそうです。

ところがいざ本番が始まると、団員たちは不思議そうな顔をお互いに見合わせていたが、休憩になるとあちこちで議論が始まったらしいのです。
リーダー格のトランペット奏者ウォービッシュ(Helmut Wobisch, 1912-1980)がやってきて朝日記者に言いました。
「一つ頼みがある。このホールの正確な設計図面を舞台の音響板を含めて、急遽作って貰えないだろうか。信じられないことだが、素晴らしい音響効果だ。特に音響板の角度、寸法、材料等を詳しく知りたい。宝塚大劇場以上だ。日比谷公会堂よりむろんいい。」

ウィーン・フィルが太鼓判を押したということで舞台裏は大騒ぎになったそうですが、検討された結果、朝日新聞社の鬼塚企画部長の設計で、体育館に2つの条件変更が加えられていることが判明したんだそうです。


1.音響板を大きく引き出し、紙張りに特殊な加工がしてある。
2.客席の床が後ろへ高く臨時に傾斜させてある。

。。。この設計変更は臨時措置であることから、朝日新聞上では報道されなかったそうです。

何となく、朝日の自画自賛のような気もしますが、少なくとも音響が悪くなかったのは本当だったんでしょう。

もう58年も前のことだから体育館はさすがに当時のままでは残っていないでしょうね?

 

追記:この体育館は都市高速5号線の建設に伴い、残念ながら1999年に解体撤去されてしまったそうです。(ネットで情報をくださった方ありがとうございます)


ヒンデミット来日、初来日のウィーン・フィルと共に(1956)

2014-08-08 22:47:49 | 来日した作曲家

パウル・ヒンデミット(Paul Hindemith, 1895-1963)が1956年(昭和31年)4月6日深夜(7日午前1時05分)に羽田空港に到着しました。

(↑帝国ホテルにて。「音楽芸術」昭和31年5月号より)



この時、ウィーン・フィルも記念すべき初来日で、楽員51人という「ハーフ・サイズ」でしたが、4月27日までヒンデミットの指揮のもと日本全国で演奏したようです。ヒンデミットはなんと、17回の演奏会を指揮!そして4月28日に羽田から日本をたちました。(お疲れさまでしたと言いたい。)

↓日比谷公会堂にて。コンサート・マスターはボスコフスキー(Willi Boskovsky, 1909-1991)



↓芸大講堂での講演会(4月27日午前10時より)。各音楽学校生ら約500人が集まり、ユーモアを交えた和やかな講義だったそうです。


講演会の内容は
・賞金制度や商業主義が若い作曲家を如何に害するか
・十二音技法やコンクレート音楽に対する鋭い批判(作曲技法の過大評価を戒めた。作品はむしろ作曲者の精神の反映であるべき)
・ラモーに端を発した和声学やフックス(※)の対位法は現代の作曲にはそのまま用いられないが、音楽理論の根本を究める為に必要である。
・日本の能楽の旋律の自由性とリズムの多様性に讃詞を呈し、西洋と日本の音楽が異質である点を明かし、新しい日本音楽の樹立を要望した。。など

(「音楽芸術」昭和31年6月号及び「音楽之友」7月号より。講演会の内容は坂本良隆による)

 

※  Johann Joseph Fux(1660-1741) フックスの著した対位法の本『Gradus ad Parnassum(パルナス山への階段)』を坂本氏が抄訳しています(絶版)。

IMSLPでオリジナル(ラテン語)、ドイツ語訳、フランス語訳を見ることができます。


↓ヒンデミットのお弟子さんである下總皖一氏(しもうさ かんいち 1898-1962、写真一番右。1932年10月から1934年7月末までベルリン芸術大学でヒンデミットの指導を受けた。隣は夫人)と坂本良隆氏(1898-1968、一番左)。ヒンデミットの左の女性は夫人。



この写真は音楽之友7月号によるとおそらく4月11日夜、新橋駅付近の「松喜」というスキヤキ屋で撮影されたものです。

店がなかなか見つからず、「松喜の2階にあがって、日本間の卓を中にして座ったら、もう十一時になっていた」らしいです。
「ヒンデミット夫妻は器用に箸を持って、サシミをたべたり、スキヤキをつついたり、日本酒を『オオ、サケ』と盃を重ねたりして、われわれは時の経つのを忘れていた。」(下総氏による)

この松喜ってスキヤキ屋、まだ残っていたら行ってみたいです!


それにしても、なんだかヒンデミットってそのヒンヤリした音楽から想像するよりも、かなりイイ人だったのかもしれないです。


大月フジ子(フジ子ヘミング)独奏会(1956)

2014-08-06 21:32:53 | 日本の音楽家

『音楽芸術』昭和32年(1957年)2月号で「大月フジ子」というピアニストの写真に気付きました。フジ子?Wikipediaによるとやはりあの、ヘミングさんでした。



以下、写真と同じ号に載っていた、独奏会を聴いた属啓成(さっかけいせい)氏と丹羽正明氏の対談です。

 このひと月間もずいぶん演奏会があったのですが、私が最初に聴いたのは大月ふじ子さんです。(1956年)11月26日、ヴィデオ・ホール(※)。私はちょうど風邪をひきかけていて、プログラムの三つまで聴いて帰っちゃったのですが、私の印象では何となく統一のないプログラムだった。最初にバッハの「プレリュードとフーガ」を弾いて、それでバッハについてまとまった印象を持てない中にべートーヴェンに入っている。そうしてショパンのソナタ、エチュード、バラード、ワルツとごちゃごちゃ弾いて、ハチャトリアンのトッカータに最後がラヴェルの一曲と、何か全財産はこれだけですというような印象がしたんです。これはロン・ティボー・コンクールに出ているプログラムを全部集めたからだということも聞きましたがね。

丹羽 確かにそれはあらぬか、危げなくちゃんと弾いておりました。終りまで。それに弾き方も、バッハに対する考え、ベートーヴェンに対する音楽的態度が、はっきりしてない為、整った演奏をしても何か心からうたれる感じがしなかった。まあそれに較べればショパンの方が格段と自分のものになっていたように思いました。でもショパンの中でも、全体の構成という点でソナタとかバラードは何か物足りない。そこへいくと練習曲なんかは、メカニックというかテクニックで聴かせたと思う。作品二五の一番などがよかったと思いました。

 この人は、前に聴いた時は割合にきれいな演奏をするなと思ったことがあるのですが、今度は感心しませんでしたね。バッハとベートーヴェンはずいぶん音も荒れているし、それに何となく我流ですね。ショパンがまあ一番纏まっていました。ただこの会、三十分位も遅く開演して一言の断りもなしにお客さんを待たせることはよくないと思いますね。

丹羽 会場の雰囲気から、ヴィデオ・ホールは音楽会に向かないような感じがする。

 しかし日比谷だって音楽会向きとは言えませんから(笑)

丹羽 ただ雰囲気が......

 そう一曲弾いたらその度に幕が閉まっちゃう。田舎の学芸会みたいで、こういうのは雰囲気をこわしてしまいますよね。



。。。ヘミングさん、30分遅刻とか、一曲ごとに幕閉まっちゃうとか、当時から「奇蹟のピアニスト」の片鱗を示されていますが、批評家のお二人はまさか40年後に大ブレイクすることなど夢にも思っていなかったことでしょうね。

※有楽町ビデオ・ホール(ビックカメラの場所にあったそうです)