1983年に小澤征爾さんと長女の征良(せいら)さんの初共演が実現したそうです。
2月25日、マタイ受難曲のコンサート。子供の合唱団右から5番目の、少しうしろに下がっている女の子が小澤征良さん(成城学園初等科5年生)です。
征良さん、そしてこのときは出演しませんでしたが、当時8歳の長男・征悦(ゆきよし)さんとマタイを演奏するのが夢だったそうです。半分実現したわけですね。
(『フォーカス』1983年3月11日号)
1983年に小澤征爾さんと長女の征良(せいら)さんの初共演が実現したそうです。
2月25日、マタイ受難曲のコンサート。子供の合唱団右から5番目の、少しうしろに下がっている女の子が小澤征良さん(成城学園初等科5年生)です。
征良さん、そしてこのときは出演しませんでしたが、当時8歳の長男・征悦(ゆきよし)さんとマタイを演奏するのが夢だったそうです。半分実現したわけですね。
(『フォーカス』1983年3月11日号)
スイス生まれのオーボエ奏者・作曲家・指揮者であるハインツ・ホリガー氏(Heinz Holliger, 1939年生まれ)が奥様とともに1970年に初来日しました。
奥様はやはりスイス生まれの有名なハープ奏者、ウルズラ・ホリガーさん(Ursula Holliger, 1937-2014)。きれいなかたですね。昨年1月21日に76歳でお亡くなりになりました。
ホリガーは愛妻家であり、だからこそブラームスとクララのあるまじき関係がショックだったんでしょうね。(クララが焼却したロベルト・シューマン「ロマンス」とホリガー「ロマンセンドレス」)
さて、ホリガーはこの初来日の記者会見で次のように述べたそうです。
「バロック時代におけるオーボエは、ヴァイオリンと同じように重要な楽器でしたが、19世紀に入ると、ほとんど独奏楽器としては使われなくなってしまいました。しかし、この楽器にもう一度光を当てるのが、私の仕事だと思っています。オーボエという楽器は、この200年来ほとんど変わっていません。リードも肝心ですが、呼吸や指使い、唇のコントロールなどで、いかに美しい音を出すかに問題があります。私は、どれという流派に属してはいませんし、私自身これと思った音を出すように努力しています。」
信念に満ちたコメントですね。
「わたしは、オーボエという楽器が、彼の演奏するように演奏されるものだとは夢にも思わなかった。彼は偉大な芸術家であり、信ずべからざる名手だ。」
。。。これはパブロ・カザルスがホリガーを評して言った言葉です。
(参考:『教育音楽』1970年4月号、1975年8月号)
音楽評論家・属啓成(さっか けいせい、1902-1994)著『ライカ行脚 独逸楽聖遺跡』(1938年三省堂発行)を音楽に興味がなさそうな古本屋で500円で買って読んだら、大作曲家のコンサートの写真が掲載されていてビビりました。属氏がウィーンにてライカで自ら撮影したもののようです(?)。すごい人ですね。
1.ラフマニノフ(Sergei Rachmaninov, 1873-1943)
↑ ラフマニノフが演奏中なのになぜか聴衆が写真中央の、着席していない人物たちのほうを見ています。日付等不明。
2.リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss, 1864-1949)
↑ 1937年5月20日、アルプス交響曲を指揮するシュトラウス。ウィーン・フィルとウィーン交響楽団の合同オーケストラ。
3.バルトーク(Bartók Béla, 1881-1945)とドホナーニ(Ernst von Dohnányi, 1877-1960)
↑ リストの協奏曲を弾くピアニスト・バルトーク。ドホナーニの頭がブレちゃってるのが残念。。
1982年、80歳のオイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum, 1902- 1987)はバンベルク交響楽団を率いて何度目かの来日を果たしました。
自分はこのときのブルックナー交響曲第7番をNHKの映像で観たことがあるのですが、めっちゃ優しい音楽にジーンと涙しました。
↑ フォーカス誌1982年10月1日号から、1982年9月15日NHKホールにおける初日公演の画像。曲目はブルックナー8番。
終演後は興奮した若者たちが「ブラボー」を叫びながらステージに駆け上がり握手を求めるハプニング(いかんですなー)もあったそうですが、ヨッフムはいささかの疲れも見せず、十数回のカーテンコールに応えたそうです。元気でしたね!
ヨッフムの健康の秘訣は「よく食べ、よくしゃべり、よく眠る。そして私はいつも音楽を食べているんだ」。
ところでこの公演ではサービス(?)として日本人奏者が多数起用されたそうです。(敬称略。もともと日本人がバンベルク交響楽団にたくさん在籍していたということでしょうけど)
最古参のヴィオラ首席奏者・岡田伸夫が右サイドのトップ、
岡田夫人で元東京クヮルテットの名倉淑子が臨時の第2コンサート・ミストレス(画像右前方)、
その後ろに写っているのは藤田容子、
その他、ホルンの水野信行、
コントラバスの河内秀夫、
第2ヴァイオリンにその夫人である河内喜久子
。。。という具合だったそうです。日本人大活躍だったんですね。
↑ そのときのライブCDを買ってしまいました。
【2014年9月5日の記事に写真とハチャトゥリアンの挨拶文を追加しました。】
アラム・ハチャトゥリアン (Aram Khachaturian, 1903-1978)が1963年に来日し、自作だけによる演奏会が開かれました。
↑ 月刊誌『今日のソ連邦』1963年3月1日号より、東京文化会館のハチャトゥリアンとコーガン。1963年2月9日か。
下記は来日公演日程です。
【2月9日(土)東京文化会館】
ハチャトゥリアン指揮読売日本交響楽団
ヴァイオリン レオニード・コーガン(1924-1982)
(曲目)
交響曲第2番
ヴァイオリン協奏曲
「仮面舞踏会」よりノクターン
「ガイーヌ」よりバラの娘たちの踊り、山岳民族の踊り、ゴパーク、レズギンカ
【2月11日(月)名古屋】
ハチャトゥリアン指揮読売日本交響楽団+久保陽子(Vn.) ←兼岩好江さま、情報ありがとうございました!
【2月20日(水)厚生年金会館】
ハチャトゥリアン指揮読売日本交響楽団
ピアノ レフ・オボーリン(1907-1974)
(曲目)
交響曲第2番
ピアノ協奏曲
「スパルタクス」より数曲
【2月26日(火)京都】
ハチャトゥリアン指揮京都市交響楽団
ヴァイオリン コーガン
【2月27日(水)大阪フェスティバルホール】
ハチャトゥリアン指揮京都市交響楽団
ヴァイオリン コーガン
(「音楽の友」昭和38年2月号より)
コーガンとオボーリンはたまたま来日中だったということですが、豪華な顔合わせですね!
↑ コーガンの日本公演
おまけとして『今日のソ連邦』に掲載されていたハチャトゥリアンからのあいさつ文です。
「日本の友人のみなさんへ」
ふだん音楽のことばで聴衆と話しあっている音楽家たちは、聴衆とふつうの話しことばですこし話しあってみたいと思うことがしばしばあります。いま私は日本の聴衆のみなさんに直接話しかけることができません。というのは、私は日本語を知らないからです。そこで私は『今日のソ連邦』誌の紙面をかりることにしました。
私はここで、私の芸術の友レオニード・コーガン、レフ・オボーリンをも代表して申し上げます。まず私たちは、日本公演に私たちを招待してくださった諸団体――読売新聞、アートフレンド協会、「労音」に感謝したいと思います。それから私たちの聴衆にお礼申し上げたいと思います。かれらのために演奏することは、私たちの心からのよろこびです。日本の聴衆は音楽をじつにりっぱに理解し、感ずることができる聴衆です。日本人の高度に発達した美の感覚については、レオニード・コーガンとレフ・オボーリンはすでに知っていました。かれらは二度目の訪問でしたから。だが、私にとっては――これはこころよい発見でした。
世界のすべての芸術家とおなじく、私たちも新聞の批評や感想を注意ぶかく、いや、熱心に追っています。そして、これらの批評に私たちがよろこびを感じていることを申し上げたいと思います。それは私たちにたいして多くの賛辞がのべられていたからだけでなく、日本の批評家たちが深い音楽的な知識をもって、私たちの演奏を論じてくれていたからです。
私たちはしばしば日本の印象についてたずねられます。もちろん、私たちは十分に日本を見たり、理解する機会がなく、したがって私たちの印象もいくらか表面的にならざるをえません。しかし、私たちの見ることのできたもの、また親しくお会いすることのできた人たちからの印象では、はっきりとこう申し上げることができます――
「日本は、私たちの愛している音楽のように美しい」と。
アラム・ハチャトゥリアン