広小路歯科 院長の雑記帳  (豊橋の歯科医院)

休診日:木、日、祝日
診療時間:9時~12時 2時~7時
*土曜は5時まで

歯科界平成反省会 その6

2019-04-30 08:49:59 | 歯科界平成反省会シリーズ
平成最後の診療日です。
さすがに10連休は怖いので、今日と明日は開けています。
温故知新の精神で平成を振り返るシリーズ第6弾です。

・アマルガム充填

今は保険点数からも無くなりましたが、ほんの数年前までは掲載されていました。
僕の医院でもアマルガムの原材料を処分したのは数年前です。
近年は出番が少なくなった処置でしたが大変お世話になりました。
アマルガムとは銀スズ合金粉末と水銀を混ぜて粘土状にしたものを詰めると硬化するという不思議な不思議な現象を利用した充填処置です。
水銀と聞いてびっくりされる方も多いと思いますが水銀中毒を起こす有機水銀ではなく無機水銀を用います。
それでも近年色々な製品から水銀は使用されなくなり、それに伴って処理施設も国内に2か所ほどになってしまったようです。
考えてみれば、血圧計、体温計、水銀灯、水銀電池、水銀スイッチなどなど有りましたが他の物に代わってしまいましたね。
脱水銀が平成の間に進んできました。
すこし話を治療の方に戻します。
このアマルガム充填処置、予後はテクニックに左右されますが、処置自体が楽ちんだったのです。
取れない様に内開きにむし歯を削って押し込めば出来上がり。
今、主流のレジン充填の様にプライマーを塗って乾燥して光照射してという前処置も不要なのです。
ですから僕は泣いて動いちゃう子供の充填処置によく使いました。
とにかく手早く詰めることができたのです。
このアマルガムは硬化時膨張といって硬化する時に少し膨らむ性質を持っています。
普通の化学反応で固まるものは硬化時に収縮してしまうのです。
ですからミクロの世界で隙間ができにくいというメリットが有るのです。
そんな訳で僕は高齢者のクラウン(冠)の辺縁から内部にむし歯ができているケースにも好んで使っていました。
詰め込んでおけば固まってくれます。
光照射も要らないので金属冠の中でも硬化してくれるのです。
24時間後に完全硬化したアマルガムは研磨するとちゃんと銀合金の輝きを放ってくれます。
でも、しばらくすると表面が酸化していぶし銀になってしまいます。
そんなこんなで日本中の歯科医院で行われていたアマルガム充填処置ですが、廃棄の問題から早めの処分の通知が来たので日本中の歯科医院がこの数年に処分したと思います。
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歯科界平成反省会 その5

2019-04-15 15:01:05 | 歯科界平成反省会シリーズ
この30年間の歯科界を振り返りつつ温故知新の精神で臨むシリーズ第5弾です。

・8020

8020運動、まさにこれは平成元年に始まった運動で「80歳になっても20本以上自分の歯を保とう」というものです。
元々の発祥は愛知県、それが厚生省と日本歯科医師会が推奨して全国の運動となりました。
成人の歯の数は28本(智歯含まず)ですが、20本あればほとんどの物を食べるのに困らないというのが20の理由です。
運動開始当初の達成率は7%程度でした。
それが、2017年に厚生労働省が発表した歯科疾患実態調査(2016年調査)では、達成率が51.2%となりました。
80歳になられても過半数の人が20本以上の歯を維持してるんです。
この平成時代の30年間で「8020達成者が珍しい」ではなくて「8020が普通」になりました。
各地域の歯科医師会や自治体は8020達成者表彰の予算が年々増えて嬉しい悲鳴を上げています。
中には記念品贈呈を取りやめにしたところもあるくらいです。


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歯科界平成反省会 その4

2019-04-03 11:06:40 | 歯科界平成反省会シリーズ
4月ですが寒いです。
いつもの年だと関東のニュースと同じ時期に桜が咲きますが、豊橋は完全に一週間は遅れています。

・患者の薬が判らない

薬剤情報提供料の算定の施行が2000年だそうです。
それまでは患者さんに聞いても持病の薬がなかなか判明しませんでした。
ご存知の様に、いわゆる飲み合せの問題があるので患者さんが飲んでいる薬を知る必要があるのです。
「血圧の薬を飲んどる」「血液をサラサラにする薬を飲んどる」「抗生剤だか何かをもらって飲んどる」とまあ当時患者さんから得られる情報はこんな感じでした。
主治医に対診をとって(手紙を介して尋ねるなど)確認すればいいのでしょうが、なかなか「じゃあ、もう一度これを市民病院の先生に持って行って何の薬か確認してから来てね!」なんて実際言えません。
平成の内にその問題も薬剤情報提供書やお薬手帳で解決してきました。

・今日の治療薬

ちょっと以前までお薬手帳を持ってくる人は居ませんでした。
持病の薬で何を飲んでるかを尋ねると気の利いた患者さんは処方されてる薬の実物を持参して見せてくれました。
今では錠剤のパッケージなどに「タリオン」「アレルギー治療薬」などとプリントされていますし錠剤そのものに薬剤名がプリントされています。
でも、ほんのちょっと前まではパッケージにそのようなプリントは無く、薬剤にも謎の刻印が有るだけでした。
これを調べるのが「今日(こんにち)の治療薬」という辞書みたいな本。
これだけでは判りにくいので「医者からもらった薬がわかる本」という図鑑のような本。
この2冊を駆使して錠剤の謎の刻印から薬剤を調べるのです。
例えば錠剤に△123と刻印があれば、それらの本で△がどの製薬会社か調べます。
そして製薬会社が判ったら索引で123が何かを調べて薬剤名を知ります。
今度は薬剤名から辞書みたいな「今日の治療薬」で該当ページを探して一般名が判り、薬理的なことが判明するのです。
まるで捕まえた蝶々の名前を姿かたちから図鑑で探すような手間でした。
今ではお薬手帳を見るだけで済みますし、薬剤のパッケージにプリントされてる薬剤名でインターネット検索するだけです。
同じ平成時代でもずいぶん進化しました。
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歯科界平成反省会 その3

2019-04-01 09:40:19 | 歯科界平成反省会シリーズ
4月1日、新しい元号が発表になりましたね。

・無免許歯科医師

これは以前にも書いた話だけど、僕が卒業した当時の国家試験は3月に行われており、発表が四月の中旬でした。
就職するための面接の時に院長から「いつから出勤しますか?」と尋ねられたので「では4月の第1週の月曜日で・・・」と初出勤日が決まりました。
最初の仕事は先輩歯科医師のアシスタントをしたり簡単な歯石除去や充填処置でした。
合格発表前なので無免許状態です。
こんなことは普通に行われてましたし厚生省も解っていただろうと思います。
その後、しばらくして試験も発表も一月ほど前倒しになり、3月中には結果が判る日程になりました。
平成の初期の頃はコンプライアンスもへったくれもなく、いい意味でルーズでした。

・発表もアナログ

歯科医師国家試験の発表は今ではネットで確認できるそうです。
ウインドウズ95が発売された1995年が平成7年です。
大学の研究室にはパソコンはありましたが、マニアックな人以外はパソコンなぞ持っていない時代です。
インターネットもモデムを介して電話回線で始まった頃ではないでしょうか。
ですから、国家試験の発表もアナログでした。
確か官庁街の厚生省の出先機関の庁舎で合格者の受験番号が掲示されたのではないかと思います。
なぜ、人生の一大イベントの歯科医師国家試験合格発表の記憶が曖昧なのかと言うと、見に行っていないからなのです。
前にも書いた通り、無免許状態で仕事をしていたので見に行けませんでした。
大学の医局に残った同期生が見に行くというので自分の受援番号を伝え、結果を仕事場の医院に電話してもらうようにしていました。
診療中にその同期生から電話が入り「受かってたよ!」と教えてもらいました。
その直後に院長に「合格しました」と報告して「おめでとう!」と言ってもらいました。
不合格なら退職しなくてはなりません。
なかなかスリリングな合格発表でした。

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歯科界平成反省会 その2

2019-03-27 09:08:42 | 歯科界平成反省会シリーズ
・講義はスライド

歯学部の講義ではスライドを多用します。今ではパソコンのパワーポイントで造った画像をプロジェクタで投影するのが当たり前ですが、僕が学生の頃はリバーサルフィルムで撮影したスライドをスライドプロジェクタのドラムマガジンに入れて投影していました。
スライドプロジェクタは2機使うのが普通でしたね。
教授が講義をしながら「はい」とか「次」とボソッと言うのを聞き逃さず講義室後方の映写室で入局したての新人医局員がボタンを押してコマを進めていました。
タイミングをミスったりボタンを押し間違えてコマを多く進めたりすると教授が不機嫌になります。

・就職後もスライド

就職先の院長も勉強熱心な人で、その医院が主催して研修会をよくやっていました。
インプラントのオペの助手にも就きました。
術中写真の撮影係もよく任されました。
今ではデジカメで撮影しますので撮影時に画像を液晶画面で確認できますが、当時はリバーサルフィルム(ポジフィルム)を入れた接写レンズとリングストロボの付いた一眼レフカメラで撮影するのです。
無駄に何枚もパシャパシャ撮る訳にもいかないので、ミスが無いように一枚一枚それこそ息を止めてシャッターを切るのです。
写真屋さんに現像に出して1週間、大事なシーンがピンボケで使い物にならないと院長が残念がり、撮影者は恐縮するのです。

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歯科界平成反省会 その1

2019-03-26 10:02:36 | 歯科界平成反省会シリーズ
あと数日で新元号が発表になり、それから一月もすれば新しい時代が始まります。
歯科臨床医視線で平成を振り返りながら新しい時代へつなげていきたいと思います。

・我が歯科医人生、平成と共にあり。

私が歯学部に入学したのが昭和63年(1988)で、1年生の1月に平成元年を迎えました。
卒業して歯科医師国家試験に受かったのが平成6年、まさに私のこれまでの歯科医人生は平成と共にありました。

・当時はまだまだ昭和テイスト

当時はまだまだ全てが昭和テイストでした。
良い意味でルーズ。
18歳の新入生に新歓コンパで酒を飲ませてたんですからね。
今こんなことをしたら、やった部は活動停止、係わった学生は停学、担当教授は始末書ものです。
タバコだって男子はほぼ全員吸っていました。
学生実習用の技工室でも咥えタバコで技工作業ができました。

・学部内は体育会系の上下関係

昭和を引きずってる学部内は体育会系の上下関係でしたね。
年齢よりも入学年度がヒエラルキーの根拠だったと思います。
1年生は人間以下、2,3,4年生も雑魚扱い、5年生でやっと人間扱いされて、6年生は神様でした。
まあ、扱いだけでなく1,2,3,4年生ぐらいから見たら臨床実習やってる6年生は神様でしたね。
兎にも角にも学年(特に入学年度)が一つでも違えば逆らえない階級社会でした。

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