◆寄稿 桑原守二
幸田文氏の中央電気通信学園に保存された古い記録
文藝春秋12月号に明治の文豪、幸田露伴の曾孫にあたる随筆家の青木奈緒氏の一文があった。同氏の祖母である作家の幸田文氏(露伴の次女)が父につ いての思い出を語った話であるが、表題の「ツートントンの娘」というのが目を引いたのである。幸田露伴は18歳のとき北海道の余市に電信技師として赴任し たが、これを生涯忘れず、文氏に「ツートントンの娘である」と言って聞かせたらしい。我々の年代はモールス符号の長音を「ツー」、短音を「ト」と言うが、 露伴は「ト」を「トン」と言ったのであろう。
■文藝春秋 2013年12月号より抜粋
先日、思いがけない経緯でNTTの方からCDを一枚頂いた。私にとっての祖母、幸田文の講演を録音したもので、昭和四十五年五月、旧電電公社中央電気通信学園にてと記されている。(中略)
講演は、「ひびき」と題され、祖母は自分のことを「ツートントンの娘だと思ってます」と言う。ツートントンは父である幸田露伴が十八歳で電信技士として北海道の余市に赴任したことを意味しており、その後、文筆で名を成した露伴も駆け出しのころは身ひとつで、人と人とを最小限の音でつなげる電信の仕事に携わっていた。露伴は生涯、出発点となった余市を忘れず、祖母にもツートントンの娘であると言って聞かせた。
露伴が余市の電信施設所に勤務したことについては司馬遼太郎の著書に紹介されていて、筆者はすでに承知していた。同書によると、露伴の父が懇意の旧 幕臣から「旧幕臣の子弟なら学問をしてもだめだ。何でもいいから実業を身につけさせよ」と言われて、露伴を芝の汐留にあった電信修技校に給費生として入れ た。露伴は同校終了後、あしかけ3年、余市で勤務したらしい。
筆者は特に青木奈緒氏が『NTTの方から「昭和45年5月、旧電電公社中央電気通信学園にて」と記された幸田文の講演記録のCDを頂いた』と述べておられるのが興味深かった。
電電公社は民営化の直前、真藤総裁から「過去の因習を断て」と命令され、古い文書類を廃棄させられたことがある。本社、通信局、通信部、電話局の各機関が 競って「ごみ」を捨てた。「ごみxxトンという重さが機関長の業績のように見られるひどい状態であった。このとき、後世に残すべき貴重な文献も散逸してしまったが、しかし文氏の講演記録は、中央学園で使用する教材であることから「焚書坑儒」を免れたものであるに違いない。
■司馬遼太郎 「街道をゆく」(29)秋田県散歩p166
ただ、幸田露伴は,平吉や漱石のように,大学予備門には進まなかった。柳田泉著の「幸田露伴」(中央公論社・昭和17年刊)によると,懇意の幕臣で稲葉某という人が,露伴の父に,
― 旧幕臣の子弟なら,学問などしてもだめだ。
といった。明治十年代は,薩長の世だった。
― なんでもいいから,実業を身につけさせよ。
そういったっことから,露伴は芝の汐留にあった電信修技校に給費生として入った。終了後,あしかけ三年,北海道の余市の電信分局につとめた。
露伴は明治文壇にあっては卓越した教養人で,学問も深かかった。ただ国立大学で教えるには形式上の学歴がなかった。
追記
上記の話を何人かにしたところ、「当時中央学園で教官をしていて、幸田文の話を直接お聞きする機会があった」とか、「数年後に本社広報部に務めたところ、多くの部員は幸田露伴が電信をやったことを知っていた」と伺った。
また、余市の記録が何か残っていないかを調べたところ、北海道に住む友人(こぶし会会員)がこぶし会に問い合わせてくれ、同会事務局長が昭和39年10月23発行の「北海道の電信電話史」を送って下さった。その23ページに幸田露伴についての記述がある。
なお、同書は北海道電気通信局の発行で、編集委員長に川田大介、編集委員に佐野芳男、廻健三、春山厳さんなど懐かしい先輩方の名前が並んでいる。
■幸田露伴と電信(北海道の電信電話史」P23
◆寄稿者紹介
・桑原守二 関東電友会本部・名誉顧問
・出典:中央電気通信学園に保存された古い記録(関東電友会本部HP・平25年11月投稿文)
本稿は、千木良関東電友会本部事務局長のご協力をいただき、寄稿者の承諾を得て本ブログに
掲載させていただきました。お礼申しあげます。
幸田文氏の中央電気通信学園に保存された古い記録
文藝春秋12月号に明治の文豪、幸田露伴の曾孫にあたる随筆家の青木奈緒氏の一文があった。同氏の祖母である作家の幸田文氏(露伴の次女)が父につ いての思い出を語った話であるが、表題の「ツートントンの娘」というのが目を引いたのである。幸田露伴は18歳のとき北海道の余市に電信技師として赴任し たが、これを生涯忘れず、文氏に「ツートントンの娘である」と言って聞かせたらしい。我々の年代はモールス符号の長音を「ツー」、短音を「ト」と言うが、 露伴は「ト」を「トン」と言ったのであろう。
■文藝春秋 2013年12月号より抜粋
先日、思いがけない経緯でNTTの方からCDを一枚頂いた。私にとっての祖母、幸田文の講演を録音したもので、昭和四十五年五月、旧電電公社中央電気通信学園にてと記されている。(中略)
講演は、「ひびき」と題され、祖母は自分のことを「ツートントンの娘だと思ってます」と言う。ツートントンは父である幸田露伴が十八歳で電信技士として北海道の余市に赴任したことを意味しており、その後、文筆で名を成した露伴も駆け出しのころは身ひとつで、人と人とを最小限の音でつなげる電信の仕事に携わっていた。露伴は生涯、出発点となった余市を忘れず、祖母にもツートントンの娘であると言って聞かせた。
露伴が余市の電信施設所に勤務したことについては司馬遼太郎の著書に紹介されていて、筆者はすでに承知していた。同書によると、露伴の父が懇意の旧 幕臣から「旧幕臣の子弟なら学問をしてもだめだ。何でもいいから実業を身につけさせよ」と言われて、露伴を芝の汐留にあった電信修技校に給費生として入れ た。露伴は同校終了後、あしかけ3年、余市で勤務したらしい。
筆者は特に青木奈緒氏が『NTTの方から「昭和45年5月、旧電電公社中央電気通信学園にて」と記された幸田文の講演記録のCDを頂いた』と述べておられるのが興味深かった。
電電公社は民営化の直前、真藤総裁から「過去の因習を断て」と命令され、古い文書類を廃棄させられたことがある。本社、通信局、通信部、電話局の各機関が 競って「ごみ」を捨てた。「ごみxxトンという重さが機関長の業績のように見られるひどい状態であった。このとき、後世に残すべき貴重な文献も散逸してしまったが、しかし文氏の講演記録は、中央学園で使用する教材であることから「焚書坑儒」を免れたものであるに違いない。
■司馬遼太郎 「街道をゆく」(29)秋田県散歩p166
ただ、幸田露伴は,平吉や漱石のように,大学予備門には進まなかった。柳田泉著の「幸田露伴」(中央公論社・昭和17年刊)によると,懇意の幕臣で稲葉某という人が,露伴の父に,
― 旧幕臣の子弟なら,学問などしてもだめだ。
といった。明治十年代は,薩長の世だった。
― なんでもいいから,実業を身につけさせよ。
そういったっことから,露伴は芝の汐留にあった電信修技校に給費生として入った。終了後,あしかけ三年,北海道の余市の電信分局につとめた。
露伴は明治文壇にあっては卓越した教養人で,学問も深かかった。ただ国立大学で教えるには形式上の学歴がなかった。
追記
上記の話を何人かにしたところ、「当時中央学園で教官をしていて、幸田文の話を直接お聞きする機会があった」とか、「数年後に本社広報部に務めたところ、多くの部員は幸田露伴が電信をやったことを知っていた」と伺った。
また、余市の記録が何か残っていないかを調べたところ、北海道に住む友人(こぶし会会員)がこぶし会に問い合わせてくれ、同会事務局長が昭和39年10月23発行の「北海道の電信電話史」を送って下さった。その23ページに幸田露伴についての記述がある。
なお、同書は北海道電気通信局の発行で、編集委員長に川田大介、編集委員に佐野芳男、廻健三、春山厳さんなど懐かしい先輩方の名前が並んでいる。
■幸田露伴と電信(北海道の電信電話史」P23
かつてはにしん漁の千石場所とうたわれた余市に,文豪幸田露伴が電信技手として若き日のひとときをすごしたことがある。
早くから文学に情熱をたぎらせたと思われる露伴が,なぜ電信屋を志したかは知るよしもないが,ともかく明治16年,17歳の露伴は,電信修技校の広告を見て入学,翌年卒業して1年間を東京中電で実地練習し,18年に10等技手として余市に赴任した。月給は12円。巡査の初任給が6円,戸長が15円のころとしては悪くない。沢町の荒物雑貨商新井田重吉方に下宿し,さつまがすりに兵児帯姿で通勤したという。
当時10歳くらいであった下宿の娘の記憶に残っているのは「寺の坊主と電信技手は早く10時(住持)になればよい」という歌をよくうたい,本で懐をふくらませている彼の姿だという。
露伴の在住はわずか2年をもって終わった。この間,2度も辞表を出したが,給費で卒業した彼には5年間の義務年限があるため許されず,ついに20年8月25日,余市を脱出したのである。ところが,小樽から船で函館へ着くと函館電信局の上司につかまり,懲戒免職となった。「明治20年 官を棄て出京す。仍ち免官せられる」というのはこのことである。
いま,余市には「塩鮭のあ幾と風ふく寒さかな」という露伴の句碑がたち,先年は娘幸田文女史がこの地をおとずれた。露伴の筆になる電文も残っているという。
早くから文学に情熱をたぎらせたと思われる露伴が,なぜ電信屋を志したかは知るよしもないが,ともかく明治16年,17歳の露伴は,電信修技校の広告を見て入学,翌年卒業して1年間を東京中電で実地練習し,18年に10等技手として余市に赴任した。月給は12円。巡査の初任給が6円,戸長が15円のころとしては悪くない。沢町の荒物雑貨商新井田重吉方に下宿し,さつまがすりに兵児帯姿で通勤したという。
当時10歳くらいであった下宿の娘の記憶に残っているのは「寺の坊主と電信技手は早く10時(住持)になればよい」という歌をよくうたい,本で懐をふくらませている彼の姿だという。
露伴の在住はわずか2年をもって終わった。この間,2度も辞表を出したが,給費で卒業した彼には5年間の義務年限があるため許されず,ついに20年8月25日,余市を脱出したのである。ところが,小樽から船で函館へ着くと函館電信局の上司につかまり,懲戒免職となった。「明治20年 官を棄て出京す。仍ち免官せられる」というのはこのことである。
いま,余市には「塩鮭のあ幾と風ふく寒さかな」という露伴の句碑がたち,先年は娘幸田文女史がこの地をおとずれた。露伴の筆になる電文も残っているという。
◆寄稿者紹介
・桑原守二 関東電友会本部・名誉顧問
・出典:中央電気通信学園に保存された古い記録(関東電友会本部HP・平25年11月投稿文)
本稿は、千木良関東電友会本部事務局長のご協力をいただき、寄稿者の承諾を得て本ブログに
掲載させていただきました。お礼申しあげます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます