モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

モールス音響通信の思いで(3)

2015年12月25日 | モールス通信
「モールス通信に従事して」

熊本学園入学直後のモールスノイローゼともいえる症状から抜けだしてからの学園生活は、楽しいものだった。ただ入学後1、2カ月の間には、わずかだったが退学者がいた。モールス通信に適性がなく退学させられた、という噂がまことしやかにささやかれた。そのような噂は、あの郵便局で受けたトラウマをまだ完全には克服していなかったわたしをいたく緊張させた。

別棟の校舎への行き帰りに前を通る舎監室には、豊後日田の儒学者・広瀬淡窓の墨痕鮮やかな漢詩(休道)が掲げられていた。
 
休道他郷多苦辛 同袍有友自相親
柴扉暁出霜如雪 君汲川流我拾薪

道(い)うを休(や)めよ他郷苦辛多しと 同袍友有り自ら相親しむ 
柴扉(さいひ)暁に出づれば霜雪の如し 君は川流を汲め我は薪を拾わん


戦後間もない食料難の時代、九州各地から集まったわれわれが寝食を共にした寮は、この漢詩に由来し、「相親寮」と呼ばれた。
多士済々の先先方のこと、級友たち、寮生活、京都への修学旅行など思い出は尽きない。ただ寮には多くの女性徒も棟を別にし一緒に生活したのだが厳しい、舎監の目が怖く遠くから打ち眺めていた思いでしかない。

入学した年の12月、8カ月あまりの学園訓練は終わった。卒業直前、習得した技能の検定試験があった。わたしの1分間の送受信技能は75字位に認定されたと記憶している。同級生のなかには、もっと上のレベルに認定された者も多くいたが、わたし自身、モールス符号とのショッキングな出会いと入学直後の経験を思い、この自分の成績に満足した。

卒業後の配属先は別府電報局で、同期5人が一緒だった。通信室には習ったことのない印刷電信機がおかれていて、内心ほっとした。一方、通信の成績が芳しくなかったためにモールス通信のない局に配属されたに違いないと、少し悔しい気持ちもあった。

仕事はもっぱら別府市内の特定郵便局と旅館相手の電話での電報送受信だった。この仕事で今でも印象に残っているのは、ある郵便局に電話の声が明るく発音明晰な女性がいたことだ。言葉使いの荒い港町に育ったわたしには、このとき聞いたきれいな音声で、耳からウロコが落ちる思いがした。いつか当の本人に会ってみたいと思いなが実現しなかった。

余談だが、これまでの人生で忘れられない声との出会いがもう一度ある。わたしは電報局で夜勤をしながら昼間の高校に通学した。教室に朗読が抜群に上手な女生徒がいた。国語の教師はよく彼女を指名し、朗読させていた。その朗読を聞きながら、この人は将来きっと声の方面で大成するに違いないと思っていた。
昭和から平成へと時代がかわってからNHKの深夜便をよく聴いた時期があった。今から10年ほど前のことで、ある曜日の担当アナウンサーをあの高校時代の彼女でないかとなんとなく感じた。

わたしは転勤のため高校を中退したので、同級生だった彼女の名前も忘れ、その後の進路も知らなかった。その後、彼女が放送を担当する夜、何回か注意して耳を傾けた。大分の知人に確かめてみるとやはりあの彼女だった。このときばかりは、音響通信できたえた(?)わが耳もまんざらではないと、われながら感心した。彼女は深夜便のアンカーのほか、NHKFMの音楽番組「朝のバロック」を長期間担当した名アナウンサーだったので思いあたる人も多いのではないか。ただ、わたしの優秀な耳も、当時の健康診断では左側が四千KZに異常ありとでた。その後の聴力は落ちるばかりとなった。

別府では鶴泉寮というラクテンチのすぐ下にあった温泉付の独身寮に住んだ。初めての職場、寮での生活、戦後のまだ混沌としていた別府市街。ここにも思い出が山ほどあるが先を急ぎたい。

別府で1年経った時、大分電報局へ転勤辞令がでた。大分へ転勤と聞き、心配の種はモールス通信のことだった。大分電報局へ出勤した最初の日、庶務課の人に連れられて2階の通信室に入った。部屋のドアーを開け、1歩足をふみ入れたとたん、部屋全体にグワーンという騒音が立ち込めていた。音響器、タイプライターなどからでる人声をかき消す騒音にたじたじとなった。これからここでやっていけるのだろうか、とひるむ気持ちで広い通信室を眺めやったことが蘇ってくる。

しかし、その騒音にも職場にもすぐに慣れて居心地がよくなった。K君はじめ熊本学園での同期生が多くいたことや、おおらかで、新米に対して等しく親切だった先輩たちのおかげであった。

住いは新川海岸にあった独身寮で、電報局に近かった。そこのK君の狭い部屋に一緒に住ませてもらった。以来、迷惑をかけた彼には頭があがらない。

これまで、この思いでに書いたk君とは、同郷の大分電報局でも同僚だった友人で、今も「ケイさん」と呼ばせてもらっている中川啓輔さんである、彼には、この思いでを書きながらメールで随分多くのことを的確に教えてもらい感謝している。

大分での初めての仕事は、通信室の中での運信といって、ベルトコンベアに乗って1カ所に集まってくる電報を分類し、宛先別に定められている通信席に配送する作業だった。これなら通信が不得手でもできる仕事であるが、通信室では肩身がせまかった。

育成のためだったか、モールス通信席につかせてもらったのは、転勤してあまり日が経っていない時期だった。訓練で技術を習得してから初めての実践で、運信のヒマに人の座っていない通信席で、時々電鍵を叩いて練習はしていたものの、実際に通信ができるのか自信はなかった。

通信席に座ると、音響器から響いてくる音は、学園で学んだ懐かしい、リズムカルな音だった。何度か相手の送信をさえぎり、再送信を頼み、夢中でタイプライターを打った。1通の電報を受信完了できたときは嬉しかった。送信もゆっくりではあったが、思ったより簡単にできた。1年間も電鍵を握らなかったのに通信がスムーズにできたのは意外だった。

初めはとんでもないミスもした。宛先の門司を下関と間違えたことがあった。「想像受信」とかいう新米がしでかす誤りのパターンの1つで、この時ばかりは温厚な上司の主任に大目玉をくった。

初めは、1年間の空白もあり心もとなかったわたしの通信技能は、3年近くの間に1分間80程度には上達した。それまで上達する間には、電信マンの通過儀礼ともいえるブル(怒りを示す連続信号音で、ブルブルとそれを送信する)もヘボカワレ(ヘボのお前相手に通信はできない。上手な人に替われの意)も経験した。学園入学前に故郷の郵便局を見学した時、電鍵を叩きモールス符号を聞かせてくれた人とも何回か通信をした。

通信に慣れてくるにつれ面白く思ったのは、音響器から響いてくる信号音の調子で、遠くにいる送信者の感情がわかるようになってきたことだ。見えない相手の機嫌が今日は良いなとか、少し元気がないというようなことを微妙に感じとることができた。

その頃のモールス通信の技能検定は、1分間85字の標準通信速度を基準に実施されていた。検定により1、2、3級に判定され、級に応じた資格手当が支給されていた。なお、1級の上に特級があったと記憶していたのだが、これは正式にはなかったことを今回知った。

当時は、まだモールス通信全盛期で、電電公社の受付けた電報通数(モールス音響通信対象外の電報を含む)は年間9千万(ピークは38年度の9千4百万)、で、電信室は1年365日、3交替勤務体制で運営されていた。活気があり、人数も多く、なかには1級の通信速度をはるかに越えて通信ができる名人と呼ばれる人が何人もいた。

名人たちは県外との主要回線を担当していた。垣間見た名人たちの仕事ぶりは、わたしの記憶のなかでは、1分間100字以上の高速で送信されてくる電文をゆったりとタイプしてゆく。1通の受信を終えると、タイプライターのレバーをくるっと回す。すると電報用紙がヒラヒラと羽を持った生き物のように通信席の前のベルトコンベアに飛び込んでゆく。間髪を入れずつぎの電文のタイブが始まる。その間、1瞬の間断なく耳もとの音響器は鳴りつづける。相手の送信終了まで中断なく受信はつづき、1回たりと聞き返したりはしない。

このような通信は、受信とその電文タイプの間に相当な時間差が存在しなくてはできない技だ。その時間差は、電報1通分以上は優にあったと記憶している。

相手の技能次第では、いつでもこのような通信をしていた名人たちの華麗としか言いようのない仕事ぶりを、それとなく眺めながら、わたしは故郷で子供のころ、いつも固唾をのんで観ていた祭礼で舞う神楽を思いだしていた。大太鼓の音とともに、激しくダイナミックに、時にはゆったりと舞われる神楽を最後に観たのは昭和30年代初めだった。ずいぶん昔のことだ。あの神楽は、新しい世代に承継され、今も舞い続けられているだろうか。





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