「早すぎたモールス通信との出会い」
郷里のわが家のすぐ近くに町の郵便局があった。その前を通りかかると、たいてい正面入口の左隣の部屋からトンカラトンカラとリズミカルな音が聞こえた。いつの頃からか、その音は電報を送る機械からでている音という程度のことは知っていたのだが、それ以上のことは知らなかった。
その正体を知ったのは、熊本電気通信学園へ一緒に合格したK君と、誰かの計らいで郵便局を見学させてもらった時のことだった。
いつも表から眺めていた建物のなかは、のんびりと故郷の人々が営む生活のテンポとは違って、生きいきと遠い町とつながって動いている感じがした。窓口の葉書や切手売り場の後ろの大きな金庫、床におかれたいくつかの色あせた麻の郵便袋、磁石式交換機に向い何本ものコードを操る女性交換手。わたしには、どれも初めて見聞きするものばかりの異質の世界だった。
さて、いよいよあの聞きなれた音を発する部屋のドアの前に立った。2人はなかに入るよう促された。
その時期、熊本学園から送られてきた入学案内書には、入学までにできるだけモールス符号を覚えておくようにとの文書とともにモールス符号表が同封されていた。当時は、その暗記を始めていた頃だった。
案内の局員が、通信機をおいた机の前に座った。そして、電鍵に指をそえ手首をかすかに上下に動かしながら言った。
「これがトンで、これがツ―じゃ」
横につっ立っている2人に、それを何回かくり返してくれた。わたしは慌てた。なんとその音は、わたしの耳には一向にトンにもツ―にも聞こえてこなかったのだ。間近かに聞くその音は、ただカチカチ、カチカチと響く金属音だった。どのように耳を澄ませてもトンやツ―とはほど遠い音だった。瞬間、自分自身の能力を疑い、自分は通信には適性がないと思った。その音が、せめて郵便局の前を通る時の、いつものトントンカラカラというリズミカルな音を連想させるものであれば、少しは安心したかもしれない。だが、カチカチと響く金属音は、それとは似ても似つかぬ雑音そのものだった。
太平洋戦争から間のない昭和26年、まだ確たる進路の決まってなかったころ、学校で熊本学園への受験を勧められた。運よく合格が決まり、家族も親戚もみんな喜んでくれていた。
職業に適性が必要なことは、早く子供の頃からからしっかりと認識していた。ときどき父親に小舟で漁に連れて行ってもらっては、陸地が遠くかすかに見える大海原で1日を過す。ひどい船酔いをした。海での仕事は嫌いではなかったものの、そのつど「漁師にはオレは向いちょらん(適性がない)」と思い知らされた。いきおい本能的にというべきか、父親とは将来は別の職業を選択しなくてはならないと自分に言い聞かせていた。それが、入学が決まり、これから学ぶことになる通信の仕事に適性がないと思い込んだのだ。今更わたしにはモールス通信に適性がないので、熊本には行けぬなどとどうして言いだせよう。
このような思いを抱いたまま大分県の南端の港町から熊本へ出発した。気の重い遠い道のりだった。この時のことは、豊肥線の途中にあるK君の親戚の農家に2人で1泊させてもらい大変な歓待を受けたこととともに、今も脳裏に鮮明である。
ところで、あの時郵便局を一緒に見学したK君はどうだったのか。気もそぞろのわたしと違い彼は泰然自若としていた。今にして思うと、物心つくころからあの音を自分なりに知っていると思い込んでいたのに、実際があまりに相違していたこと、それに生来のそそっかしいわが性格が災いして起きたことだったと思われる。
入学した全寮制の学園では、数学や英語などの一般科目もあったが、やはりモールス通信の授業が大きなウェイトを占めていた。授業が終わり寮に帰っても、同期の人たちと夜の消灯時間まで、ときには消灯後も床の中でモールス符号の暗記に努めた。モールス通信には適性がないと、わたしのようにひそかな心配を抱える者は、級友のなかにはひとりとしていないようだった。
熊本学園での1週間が過ぎての初めての日曜日、寮の同室の誰かと熊本城見物にでかけた。清水町の学園から池田のバス停まで歩き、乗ったバスが京橋を過ぎ、街のなかに入ると騒音が大きくなってきた。その時、突然バスの警笛、路面電車の発する音、街にあふれるすべての音という音がブッブー、ブッブー、ガッガッーとモールス符号となって、わが耳にいっせいに飛び込んできた。熊本城を仰ぎ見ながら、これは一体どうなったのかと、われながら不気味だった。
このような状態は、つぎの週の外出時も同じだった。
ところが3週間目、街の騒音は、不思議なくらいピタリと符号としてではなく騒音として耳に聞こえてきた。
あれは、モールス通信に適性がないと心配しながら、文字どおり寝ても覚めてもひとつのことに熱中したあまりに起きた一種のノイローゼだったと思っている。これが完治したのは、いつに担任の加藤先生のおかげであった。
われわれ逓友同窓には自明のことであるが、音響通信と無線通信モールス符号そのものは同じものを使用するが、耳に聞こえる信号音は全く別ものである。無線通信のあのピッピッーという音は、誰の耳にも容易に短音のピッと長音のピーの区別がつく。ところがわが音響通信では、耳元の音響器から聞こえてくる短音のトンは、電鍵を押し下げた時に聞えるカチという音と、押し下げた電鍵の力を抜いた時に聞こえるカチという2つの音から成る。長音のツーも、やっかいなことにやはり同じカチカチと2つの音から成っている。
短音か長音かは、それぞれの2つのカチの間隔が長いか短いかの違いによって決まる。つまり、「カチカチ」か「カチ間隔カチ」かの違いである。初めてこの音を聞く者には、どちらもカチカチ、カチカチとしか聞こえない。この違いが初めからわかる人がいるとすれば、その人は音に関しては天才的な人だと言えよう。
教室では、初めの2、3週間、先生から何度も音響器からでる音を聞かされた。同時に、机上に置かれた電鍵でも各自がくり返し、カチカチと符号を打鍵させられた。わたしには、音響器からでる音より自分が電鍵を叩くとき、電鍵そのものから聞こえてくるコツコツという音と、音に伴って電鍵から体に伝わってくる振動がこの音の仕組みをよく教えてくれたような気がする。多くの級友にしても、初めて音響器からモールス符号を聞いた時は、たぶんわたしと似たような戸惑いを感じたのではないか。
そのようなわたしたちを、モールス通信の世界に難なく旅立たせてくれた当時の訓練方法は、優れたものだったと感嘆せざるを得ない。明治時代に音響通信が始まって以来、実践を重視して練りあげられたカリキュラムと、それに基づく指導法の改善があのような訓練を実現したに違いない。
このような初期訓練によりモールス信号音の仕組みを納得させてもらった時、わたしのモールスノイローゼは消えていったらしい。
学園を卒業して20数年が経ち、熊本市に転勤となり、熊本城が見えた時、頭に浮かんだのは、この時のことだった。あの経験は、別に恥ずかしいこととも思ってはいないのだが、これまで家人以外に話したことはなかった。一度その方面の専門家に尋ねてみたいと思いながら、そのままとなっている。
わがモールス通信との出会いはこのようなものだった。故郷の郵便局での親切な教えを夢忘れることはないにしても、少し早過ぎたモールス通信との出会いだった。
郷里のわが家のすぐ近くに町の郵便局があった。その前を通りかかると、たいてい正面入口の左隣の部屋からトンカラトンカラとリズミカルな音が聞こえた。いつの頃からか、その音は電報を送る機械からでている音という程度のことは知っていたのだが、それ以上のことは知らなかった。
その正体を知ったのは、熊本電気通信学園へ一緒に合格したK君と、誰かの計らいで郵便局を見学させてもらった時のことだった。
いつも表から眺めていた建物のなかは、のんびりと故郷の人々が営む生活のテンポとは違って、生きいきと遠い町とつながって動いている感じがした。窓口の葉書や切手売り場の後ろの大きな金庫、床におかれたいくつかの色あせた麻の郵便袋、磁石式交換機に向い何本ものコードを操る女性交換手。わたしには、どれも初めて見聞きするものばかりの異質の世界だった。
さて、いよいよあの聞きなれた音を発する部屋のドアの前に立った。2人はなかに入るよう促された。
その時期、熊本学園から送られてきた入学案内書には、入学までにできるだけモールス符号を覚えておくようにとの文書とともにモールス符号表が同封されていた。当時は、その暗記を始めていた頃だった。
案内の局員が、通信機をおいた机の前に座った。そして、電鍵に指をそえ手首をかすかに上下に動かしながら言った。
「これがトンで、これがツ―じゃ」
横につっ立っている2人に、それを何回かくり返してくれた。わたしは慌てた。なんとその音は、わたしの耳には一向にトンにもツ―にも聞こえてこなかったのだ。間近かに聞くその音は、ただカチカチ、カチカチと響く金属音だった。どのように耳を澄ませてもトンやツ―とはほど遠い音だった。瞬間、自分自身の能力を疑い、自分は通信には適性がないと思った。その音が、せめて郵便局の前を通る時の、いつものトントンカラカラというリズミカルな音を連想させるものであれば、少しは安心したかもしれない。だが、カチカチと響く金属音は、それとは似ても似つかぬ雑音そのものだった。
太平洋戦争から間のない昭和26年、まだ確たる進路の決まってなかったころ、学校で熊本学園への受験を勧められた。運よく合格が決まり、家族も親戚もみんな喜んでくれていた。
職業に適性が必要なことは、早く子供の頃からからしっかりと認識していた。ときどき父親に小舟で漁に連れて行ってもらっては、陸地が遠くかすかに見える大海原で1日を過す。ひどい船酔いをした。海での仕事は嫌いではなかったものの、そのつど「漁師にはオレは向いちょらん(適性がない)」と思い知らされた。いきおい本能的にというべきか、父親とは将来は別の職業を選択しなくてはならないと自分に言い聞かせていた。それが、入学が決まり、これから学ぶことになる通信の仕事に適性がないと思い込んだのだ。今更わたしにはモールス通信に適性がないので、熊本には行けぬなどとどうして言いだせよう。
このような思いを抱いたまま大分県の南端の港町から熊本へ出発した。気の重い遠い道のりだった。この時のことは、豊肥線の途中にあるK君の親戚の農家に2人で1泊させてもらい大変な歓待を受けたこととともに、今も脳裏に鮮明である。
ところで、あの時郵便局を一緒に見学したK君はどうだったのか。気もそぞろのわたしと違い彼は泰然自若としていた。今にして思うと、物心つくころからあの音を自分なりに知っていると思い込んでいたのに、実際があまりに相違していたこと、それに生来のそそっかしいわが性格が災いして起きたことだったと思われる。
入学した全寮制の学園では、数学や英語などの一般科目もあったが、やはりモールス通信の授業が大きなウェイトを占めていた。授業が終わり寮に帰っても、同期の人たちと夜の消灯時間まで、ときには消灯後も床の中でモールス符号の暗記に努めた。モールス通信には適性がないと、わたしのようにひそかな心配を抱える者は、級友のなかにはひとりとしていないようだった。
熊本学園での1週間が過ぎての初めての日曜日、寮の同室の誰かと熊本城見物にでかけた。清水町の学園から池田のバス停まで歩き、乗ったバスが京橋を過ぎ、街のなかに入ると騒音が大きくなってきた。その時、突然バスの警笛、路面電車の発する音、街にあふれるすべての音という音がブッブー、ブッブー、ガッガッーとモールス符号となって、わが耳にいっせいに飛び込んできた。熊本城を仰ぎ見ながら、これは一体どうなったのかと、われながら不気味だった。
このような状態は、つぎの週の外出時も同じだった。
ところが3週間目、街の騒音は、不思議なくらいピタリと符号としてではなく騒音として耳に聞こえてきた。
あれは、モールス通信に適性がないと心配しながら、文字どおり寝ても覚めてもひとつのことに熱中したあまりに起きた一種のノイローゼだったと思っている。これが完治したのは、いつに担任の加藤先生のおかげであった。
われわれ逓友同窓には自明のことであるが、音響通信と無線通信モールス符号そのものは同じものを使用するが、耳に聞こえる信号音は全く別ものである。無線通信のあのピッピッーという音は、誰の耳にも容易に短音のピッと長音のピーの区別がつく。ところがわが音響通信では、耳元の音響器から聞こえてくる短音のトンは、電鍵を押し下げた時に聞えるカチという音と、押し下げた電鍵の力を抜いた時に聞こえるカチという2つの音から成る。長音のツーも、やっかいなことにやはり同じカチカチと2つの音から成っている。
短音か長音かは、それぞれの2つのカチの間隔が長いか短いかの違いによって決まる。つまり、「カチカチ」か「カチ間隔カチ」かの違いである。初めてこの音を聞く者には、どちらもカチカチ、カチカチとしか聞こえない。この違いが初めからわかる人がいるとすれば、その人は音に関しては天才的な人だと言えよう。
教室では、初めの2、3週間、先生から何度も音響器からでる音を聞かされた。同時に、机上に置かれた電鍵でも各自がくり返し、カチカチと符号を打鍵させられた。わたしには、音響器からでる音より自分が電鍵を叩くとき、電鍵そのものから聞こえてくるコツコツという音と、音に伴って電鍵から体に伝わってくる振動がこの音の仕組みをよく教えてくれたような気がする。多くの級友にしても、初めて音響器からモールス符号を聞いた時は、たぶんわたしと似たような戸惑いを感じたのではないか。
そのようなわたしたちを、モールス通信の世界に難なく旅立たせてくれた当時の訓練方法は、優れたものだったと感嘆せざるを得ない。明治時代に音響通信が始まって以来、実践を重視して練りあげられたカリキュラムと、それに基づく指導法の改善があのような訓練を実現したに違いない。
このような初期訓練によりモールス信号音の仕組みを納得させてもらった時、わたしのモールスノイローゼは消えていったらしい。
学園を卒業して20数年が経ち、熊本市に転勤となり、熊本城が見えた時、頭に浮かんだのは、この時のことだった。あの経験は、別に恥ずかしいこととも思ってはいないのだが、これまで家人以外に話したことはなかった。一度その方面の専門家に尋ねてみたいと思いながら、そのままとなっている。
わがモールス通信との出会いはこのようなものだった。故郷の郵便局での親切な教えを夢忘れることはないにしても、少し早過ぎたモールス通信との出会いだった。
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