◆ 寄稿 A.S
①小学校低学年の昭和12、3年ごろ、当時住んでいた満州南端に位置する旅順市(帝政ロシアから「永久租借地」として日本が統治)で、時々母親に連れられ旅順新市街郵便局に行きました。振返ると、小生にとっては、この時見聞きしたことが“トンツー”を生業とした契機だったような気がします。
郵便局の公衆だまりからカウンター越しに、目にし耳にしたのは、電鍵を通して発する音響器の響き、目にもとまらぬ素速さでタイプライターを両指先を使って印字してゆく光景でした。子ども心に感心しながら、しばし見とれたものでした。
それが、わが生涯を託する職業になるとは考えもしなかった“音響通信”との出会いでした。当時、遠隔の地に勤務していた父は、久しぶりにわが家へ帰るときは、いつも電報を届けてくれました。電報がくると、母や兄は、玄関先で手渡された青色のカタカナで印字され電報を見せてくれ、小生が郵便局で感心しながら眺めた光景は、電報の送受信操作であり、これによって電報は作られ、郵便よりずっと速く家に届くことを説明してくれました。そのおかげで、電報の仕組みがよく理解できたと思ったものです。
②昭和17年、第2次大戦がまだ“皇軍優位”のころ、父と長兄は満州に残り、母と子供だけが日本に帰りました。父と長兄は、ソ連軍に抑留されてシベリアで働かされ、帰国したのは、兄が昭和24年、父が25年のことでした。
満州から引き揚げて住んだ所は、東京・豊島区池袋でした。昭和19年、小学校を卒業、新大久保の海城中学に入学、翌年には敗戦を迎えました。当時は、戦災や戦後の物不足、なかんずく食糧不足のひどい時代で、父と長兄不在のわが家の生活は困窮していました。
そのようなとき、通信士を戦場に取られて手薄になっていた当時の逓信省が、戦後の通信施設の運営を急ぎ復旧する必要から、電報事業の給費生として逓信講習所電信科生を新聞広告で募集しているのを知りました。さっそく、昭和21年、中学2年を14歳で中退し、応募しました。
入所試験は小学校高等科卒の学力ということで、簡単な適性検査と身体検査がありました。試験には無事合格しましたが、応募者の人数はけっこう多く、なかには戦地や国内の軍組織からの復員者も多数いたようでした。
戦時中、小生も人並みに憧れを持っていた少年航空兵や通信兵への望みを、このとき逓信省の通信士へ切り替えたわけです。すでに「モールス符号」だけは、自力で“戦意高揚の少年向け雑誌”などでマスターしていましたが・・・。
③昭和21年7月、東京逓信講習所に入学。入学してから途中で同所の吉祥寺分室、国立分室に通学したりして、電信の通信技術およびその他の法規や地理などを学びました。また、ここでは、仲間となった予科練や陸軍航空兵などからの入学者たちに揉まれ、15歳で社会人としての“いろいろな意味での”厳しさも指導されました。
遠距離通学の上に、食糧不足で日々の食糧確保も難しく、貰った手当は、池袋、新宿のヤミ市で、2、3日のうちに費やしてしまう、人生のなかでも忘れ得ぬ“苦行時代”でした。
講習所へ通学する池袋からの交通機関、山手線、中央線のラッシュ時の混雑ぶりは、いまでは想像できないほどの大変なもので、たびたび遅刻を余儀なくされたものでした。しかし講習所の担任の先生は、小生の同情的生活環境を知ってか、厳しく叱ることもせず、温かく接してくれました。上江田安正先生です。
講習所での最重要科目だったトンツーによる通信技術の育成過程については、電鍵の叩き方に2種類の操作技法、「押下式」と「反動式」がありました。身体能力のゆえか、小生には2種類の技法の理解と、右腕に操作技法を習得させのに時間がかかりました。音響器による聞き取りは次第に慣れできるようになりましたが、電鍵による送信には、おおいに惑わされました。
それでも、卒業試験を無事に通ることができホッとしました。配属先は、東京中央電信局(のち東京中央電報局)でした。ここで、2か月ほど同局訓練部門で実地訓練があり、講習所における“促成による訓練の甘さ”が如実に現れ、「仕事の厳しさ」を肌身に悟ることになったのでした。このとき小生は、「もう辞めてしまおうか」との思いで、一番ご法度な“無断欠勤”を何回か犯してしまいます。人生、第1回目の挫折でした。
この後の小生の通信との係わりにつきましては、機会があれば、いつかまた続きを語らせていただきたいと思っています。
◆寄稿者紹介
A.S 埼玉県 昭和7年生れ
東京逓信講習所普通部電信科 昭和22年7月卒
①小学校低学年の昭和12、3年ごろ、当時住んでいた満州南端に位置する旅順市(帝政ロシアから「永久租借地」として日本が統治)で、時々母親に連れられ旅順新市街郵便局に行きました。振返ると、小生にとっては、この時見聞きしたことが“トンツー”を生業とした契機だったような気がします。
郵便局の公衆だまりからカウンター越しに、目にし耳にしたのは、電鍵を通して発する音響器の響き、目にもとまらぬ素速さでタイプライターを両指先を使って印字してゆく光景でした。子ども心に感心しながら、しばし見とれたものでした。
それが、わが生涯を託する職業になるとは考えもしなかった“音響通信”との出会いでした。当時、遠隔の地に勤務していた父は、久しぶりにわが家へ帰るときは、いつも電報を届けてくれました。電報がくると、母や兄は、玄関先で手渡された青色のカタカナで印字され電報を見せてくれ、小生が郵便局で感心しながら眺めた光景は、電報の送受信操作であり、これによって電報は作られ、郵便よりずっと速く家に届くことを説明してくれました。そのおかげで、電報の仕組みがよく理解できたと思ったものです。
②昭和17年、第2次大戦がまだ“皇軍優位”のころ、父と長兄は満州に残り、母と子供だけが日本に帰りました。父と長兄は、ソ連軍に抑留されてシベリアで働かされ、帰国したのは、兄が昭和24年、父が25年のことでした。
満州から引き揚げて住んだ所は、東京・豊島区池袋でした。昭和19年、小学校を卒業、新大久保の海城中学に入学、翌年には敗戦を迎えました。当時は、戦災や戦後の物不足、なかんずく食糧不足のひどい時代で、父と長兄不在のわが家の生活は困窮していました。
そのようなとき、通信士を戦場に取られて手薄になっていた当時の逓信省が、戦後の通信施設の運営を急ぎ復旧する必要から、電報事業の給費生として逓信講習所電信科生を新聞広告で募集しているのを知りました。さっそく、昭和21年、中学2年を14歳で中退し、応募しました。
入所試験は小学校高等科卒の学力ということで、簡単な適性検査と身体検査がありました。試験には無事合格しましたが、応募者の人数はけっこう多く、なかには戦地や国内の軍組織からの復員者も多数いたようでした。
戦時中、小生も人並みに憧れを持っていた少年航空兵や通信兵への望みを、このとき逓信省の通信士へ切り替えたわけです。すでに「モールス符号」だけは、自力で“戦意高揚の少年向け雑誌”などでマスターしていましたが・・・。
③昭和21年7月、東京逓信講習所に入学。入学してから途中で同所の吉祥寺分室、国立分室に通学したりして、電信の通信技術およびその他の法規や地理などを学びました。また、ここでは、仲間となった予科練や陸軍航空兵などからの入学者たちに揉まれ、15歳で社会人としての“いろいろな意味での”厳しさも指導されました。
遠距離通学の上に、食糧不足で日々の食糧確保も難しく、貰った手当は、池袋、新宿のヤミ市で、2、3日のうちに費やしてしまう、人生のなかでも忘れ得ぬ“苦行時代”でした。
講習所へ通学する池袋からの交通機関、山手線、中央線のラッシュ時の混雑ぶりは、いまでは想像できないほどの大変なもので、たびたび遅刻を余儀なくされたものでした。しかし講習所の担任の先生は、小生の同情的生活環境を知ってか、厳しく叱ることもせず、温かく接してくれました。上江田安正先生です。
講習所での最重要科目だったトンツーによる通信技術の育成過程については、電鍵の叩き方に2種類の操作技法、「押下式」と「反動式」がありました。身体能力のゆえか、小生には2種類の技法の理解と、右腕に操作技法を習得させのに時間がかかりました。音響器による聞き取りは次第に慣れできるようになりましたが、電鍵による送信には、おおいに惑わされました。
それでも、卒業試験を無事に通ることができホッとしました。配属先は、東京中央電信局(のち東京中央電報局)でした。ここで、2か月ほど同局訓練部門で実地訓練があり、講習所における“促成による訓練の甘さ”が如実に現れ、「仕事の厳しさ」を肌身に悟ることになったのでした。このとき小生は、「もう辞めてしまおうか」との思いで、一番ご法度な“無断欠勤”を何回か犯してしまいます。人生、第1回目の挫折でした。
この後の小生の通信との係わりにつきましては、機会があれば、いつかまた続きを語らせていただきたいと思っています。
◆寄稿者紹介
A.S 埼玉県 昭和7年生れ
東京逓信講習所普通部電信科 昭和22年7月卒
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