◆寄稿 川口 寿男
タイタニック号といえばイギリスの豪華客船で、氷山と衝突して沈没、そのとき1,500人も亡くなった事件を想起する。不沈船といわれていた豪華船タイタニック号は、その処女航海で氷山に衝突するという不測の大惨事を起こし、以来、北大西洋の深い海に沈んだままである。その悲劇性と、大惨事の裏のミステリー性、それに、モールス信号でSOS救難信号を発信した船だったこともモールス通信士だった私の心をとらえ、脳裏を離れない理由のようだ。
タイタニック号は、排水52,310トン、全長270メートル、幅29メートル、船底の竜骨から煙突まで53メートルあった。船底は二重で、16の水密室に区切られ、その5室は浸水しても沈没しない、という巨大で安全な構造だった。
タイタニック号が1912年(明治45年)4月10日にイギリスのサザンプトンをニューヨークに向け出航する際には、北大西洋上に氷山や小氷山群があるとの注意報が出されていた。タイタニック号が氷山に衝突した4月14日の午前9時に、また、午後1時40分にもタイタニック号の航路付近に氷山が多い、という電報がブリッジに報告されている。船長や乗船していたタイタニック号所有会社の社長にも報告されていたが、2人ともこの氷山情報を全く気にも留めていないようだったという。その後、他にも重要な氷山の報告がいくつか入電しているが、ブリッジには届けられていない。
タイタニック号から約30キロくらいの近距離にいた汽船から氷山が近くにあることを知らせようとしたが、タイタニック号の無線通信士は乗客の電報をさばくのに陸上の無線局と交信が多忙だとして、急を要する最も重要な情報の受信を拒否している。
その夜は、海は穏やかで星の光が反射して水平線の見分けもつかないほどで、月のない暗い夜は氷山を発見するのは至難の業であったという。おまけに見張りの2人とも出航するときに双眼鏡を忘れていたし、氷山は衝突した右側ではなく、北側になる船の左側にあると信じているようだった。氷山を発見したのは衝突の直前で、かろうじ正面衝突は回避したものの、船はさらに直進を続け、氷山が右舷をかすめ、停止した。14日午後11時40分のことである。衝突の20分後、船内を急ぎ見て回った船長と船の設計主任は、浮いていることができる時間は1時間か、せいぜい1時間半という最悪の状態であることを知った。
船長は救難連絡信号を打電させた。通信士は、その当時使われ始めたばかりの新しいSOS信号も試みた。近距離にいて氷山情報を伝えようとした汽船の通信士は、そのSOS発信の数分前の午前0時15分ごろ1日の勤務を終えて自室に戻り、通信室は通信士不在となっていた。この汽船がSOSを受信さえしていてくれたならば、多くの人命が救助されたであろうことはいうまでもなく、残念なことであった。
タイタニック号は、その汽船に向け午前0時45分ごろから海難信号弾を打ち上げ続け、最後の信号弾は午前1時40分だった。その間、その汽船からタイタニック号にライトを点滅させる方法で確認のモールス信号を再三送ってみたが、反応はなかった。その汽船は結局、信号弾の意味が分からず、SOSも受信できずに、午前2時頃その海域から遠ざかってしまった。タイタニック号は、翌日15日の午前2時18分に沈没した。
SOS救難信号を受信した船は、93キロのところから全速力で救助に向かった。SOS救難信号は、タイタニック号の救助には大きな役割を果たさなかったが、救難信号の有効性は全世界に認識されたのである。
タイタニック号の事件後、救命設備の不備、無線の取扱い・救命艇操作の習熟不十分などのことが指摘された。素人の目から見ても、トップから現場まで氷山情報が軽視されたこと、夜間の見張り体制が十分でなかったこと、氷山が見えるまで全速力で航行するのが慣例だったこと、救難信号の受信体制などが明確でなかったこと、救命ボートの数が、イギリス商務省規定の数より多かったとはいえ乗員2、200人の半分だったこと、救命ボートが定員に達しないまま海に降ろされたことなどが問題だったと思う。
当時は、イギリス・アメリカ間を最も高速で航行した船にブルーリボン賞が与えられており、高速が競われていたことも悲劇を招いた一つの原因ではなかったか、と考えている。
この事故が契機となり、翌1913年(大正2年)、第1回国際海上人命安全会議が開催された。1929年〈昭和4年)には「海上における人命安全のための国際条約」が締結された。この条約により「流氷の監視・通報」、「船舶の構造強化」、「復元性・水密区画・開口部に対する規制」、「救命及び消火設備の充実」、「救難通信(SOS)の24時間聴取の義務づけ」などが定められた。
この条約が締結されるまでにタイタニック号事件から少し長すぎる時間が経過したとは思うのだが、事故から10数年間の無線通信の取扱い数の推移を見ると3倍以上になっており、無線設備を備えた船舶が著しく増えたことを考えると、条約締結の機が熟すには、その程度の期間を要したと私なりに考えている。
救難信号SOSがモールス符号で・・・--ー・・・ということは、ご存じの方も多いであろう。そのモールス通信は、陸上では1844年〈天保15年)にアメリカで実用化され、我が国では1869年(明治2年)に実用化され、電報取扱いを開始した。その開始時期は、鉄道より3年、郵便より1年以上早かった。
しかし、モールス通信の無線での利用となるとかなり遅く、1895年(明治28年にマルコニーニが無線電信実験に成功し、わが国でも翌1896年、ただち軍や逓信省で無線の研究に着手した。1903年(明治36年)になると海軍は五島の福江島大瀬埼に大瀬埼海軍望楼所を建設した。
大瀬埼海軍望楼所は1905年(明治38年)の日露戦争において信濃丸から「敵艦見ユ」との無電をキャッチして、日本海海戦を勝利に導いた歴史を秘めている。その後、1908年5月にわが国最初の無線局である銚子無線電信局が開設された。続いて同年に大瀬埼(長崎無線電信局の前身)・潮岬・角島、落石の無線局が開設され、船舶無線局として開設された10艘と一般通信、救難・緊急通信を開始した。これが、その後の無線通信躍進の始まりであった。
モール通信は、1分間に80字から120字くらいの通信速度で行われた。その通信技術は、職人的要素が強く、上手、下手があり、養成も容易ではなかった。電報の取扱い数は増加し、これに応じて有線でのモールス通信は、昭和20年代の後半から効率的で高速な印刷通信に代えられていった。
船舶相手の無線通信は、依然として設備が簡単で遠方まで届くモールス通信が主力であった。近年になり、通信衛星を利用するなどして徐々に高度な通信方式が導入されていった。救難通信は、平成11年1月末までは、従来のモールス通信のほか、コンピューターと通信衛星を利用した「海上における遭難・安全に関する世界的制度」<GMDSS>による通信方式が混在していた。
これが平成11年2月、GMDSS方式に完全移行し、モールス信号は使用されなくなった。今や無線によるモールス通信は、マニアの利用だけになり、消えゆくのも時間の問題であろう。
最後に、電気通信の歴史を振り返ってみると距離に関係なく瞬時に相手方に情報を送る電気通信の幕開けとなったモールス通信は、1844年(天保15年)アメリカで実用化されてから、1999年(平成11年)わが国のモール通信の終わり(長崎無線電報局)まで、実に155年間にわたって利用された。電話が発明された1876年(明治32年)までの32年間はモールス通信が唯一の電気通信方式であった。
一方、1946年(昭和21年)にコンピューターの原型となったエニアックという計算機が大砲の弾道計算のため作られた。その後、電子計算機ともいわれたコンピューターは短期間の間に著しく性能が向上し、安価かつ小型になり、事業所の必需品となり、家庭でも身近な存在となっている。その過程で利用されたワープロは、その後インターネットを利用できるパソコンに取って代られた。
今やコンピューターやパソコンと通信回線が結ばれ、自動預金システムに代表される数々の大型システムが私どもの日常生活に密接に結びついて利用されている。インターネット、電子メールなども事業用だけでなく、すっかり家庭にも入りこんでいる。図形や文字も通信回線を利用したファクシミリで送ることができる。電話の他に多くの機能を持つ携帯電話の普及も大変なものである。
このように様々な通信手段があり、NTTの収入を見ると、電話が5、携帯が3、データ通信などが2となっている。まさに、話すだけの電話時代を越えてマルチディアが時代とともに定着しつつある。
遊びの分野でも、例えば演歌のカラオケは、センターから、マイクを持っているスナックまで、動く映像も音楽も歌詞も電話などの通信回線で送られてくる時代である。
モールス通信の技術者として職業人の一歩を踏み出した私個人としては、原点のモールス通信がなくなったことは、はりさびしいことである。個人的な感情は別として、年を取るとなかなか新しいことに適応が難しいが、モールス通信から発展した情報通信やコンピューターに振り回されないで、これを有意義に活用して、今の世の中に適応した生き方をしていかなければならないと思い、努力もしているところである。
◆寄稿者紹介
・川口 寿男 長崎県 昭和9年生れ 熊本電気通信学園電信科普通部25年卒
◆付記
本稿は、平成10年ごろ作成されたものを、そのまま掲載させていただきました。そのため、その後の劇的に進化、発展している情報通信の現状とギャップを感じる部分もありますが、そのまま掲載しましたので、ご了承ください(増田)。
タイタニック号といえばイギリスの豪華客船で、氷山と衝突して沈没、そのとき1,500人も亡くなった事件を想起する。不沈船といわれていた豪華船タイタニック号は、その処女航海で氷山に衝突するという不測の大惨事を起こし、以来、北大西洋の深い海に沈んだままである。その悲劇性と、大惨事の裏のミステリー性、それに、モールス信号でSOS救難信号を発信した船だったこともモールス通信士だった私の心をとらえ、脳裏を離れない理由のようだ。
タイタニック号は、排水52,310トン、全長270メートル、幅29メートル、船底の竜骨から煙突まで53メートルあった。船底は二重で、16の水密室に区切られ、その5室は浸水しても沈没しない、という巨大で安全な構造だった。
タイタニック号が1912年(明治45年)4月10日にイギリスのサザンプトンをニューヨークに向け出航する際には、北大西洋上に氷山や小氷山群があるとの注意報が出されていた。タイタニック号が氷山に衝突した4月14日の午前9時に、また、午後1時40分にもタイタニック号の航路付近に氷山が多い、という電報がブリッジに報告されている。船長や乗船していたタイタニック号所有会社の社長にも報告されていたが、2人ともこの氷山情報を全く気にも留めていないようだったという。その後、他にも重要な氷山の報告がいくつか入電しているが、ブリッジには届けられていない。
タイタニック号から約30キロくらいの近距離にいた汽船から氷山が近くにあることを知らせようとしたが、タイタニック号の無線通信士は乗客の電報をさばくのに陸上の無線局と交信が多忙だとして、急を要する最も重要な情報の受信を拒否している。
その夜は、海は穏やかで星の光が反射して水平線の見分けもつかないほどで、月のない暗い夜は氷山を発見するのは至難の業であったという。おまけに見張りの2人とも出航するときに双眼鏡を忘れていたし、氷山は衝突した右側ではなく、北側になる船の左側にあると信じているようだった。氷山を発見したのは衝突の直前で、かろうじ正面衝突は回避したものの、船はさらに直進を続け、氷山が右舷をかすめ、停止した。14日午後11時40分のことである。衝突の20分後、船内を急ぎ見て回った船長と船の設計主任は、浮いていることができる時間は1時間か、せいぜい1時間半という最悪の状態であることを知った。
船長は救難連絡信号を打電させた。通信士は、その当時使われ始めたばかりの新しいSOS信号も試みた。近距離にいて氷山情報を伝えようとした汽船の通信士は、そのSOS発信の数分前の午前0時15分ごろ1日の勤務を終えて自室に戻り、通信室は通信士不在となっていた。この汽船がSOSを受信さえしていてくれたならば、多くの人命が救助されたであろうことはいうまでもなく、残念なことであった。
タイタニック号は、その汽船に向け午前0時45分ごろから海難信号弾を打ち上げ続け、最後の信号弾は午前1時40分だった。その間、その汽船からタイタニック号にライトを点滅させる方法で確認のモールス信号を再三送ってみたが、反応はなかった。その汽船は結局、信号弾の意味が分からず、SOSも受信できずに、午前2時頃その海域から遠ざかってしまった。タイタニック号は、翌日15日の午前2時18分に沈没した。
SOS救難信号を受信した船は、93キロのところから全速力で救助に向かった。SOS救難信号は、タイタニック号の救助には大きな役割を果たさなかったが、救難信号の有効性は全世界に認識されたのである。
タイタニック号の事件後、救命設備の不備、無線の取扱い・救命艇操作の習熟不十分などのことが指摘された。素人の目から見ても、トップから現場まで氷山情報が軽視されたこと、夜間の見張り体制が十分でなかったこと、氷山が見えるまで全速力で航行するのが慣例だったこと、救難信号の受信体制などが明確でなかったこと、救命ボートの数が、イギリス商務省規定の数より多かったとはいえ乗員2、200人の半分だったこと、救命ボートが定員に達しないまま海に降ろされたことなどが問題だったと思う。
当時は、イギリス・アメリカ間を最も高速で航行した船にブルーリボン賞が与えられており、高速が競われていたことも悲劇を招いた一つの原因ではなかったか、と考えている。
この事故が契機となり、翌1913年(大正2年)、第1回国際海上人命安全会議が開催された。1929年〈昭和4年)には「海上における人命安全のための国際条約」が締結された。この条約により「流氷の監視・通報」、「船舶の構造強化」、「復元性・水密区画・開口部に対する規制」、「救命及び消火設備の充実」、「救難通信(SOS)の24時間聴取の義務づけ」などが定められた。
この条約が締結されるまでにタイタニック号事件から少し長すぎる時間が経過したとは思うのだが、事故から10数年間の無線通信の取扱い数の推移を見ると3倍以上になっており、無線設備を備えた船舶が著しく増えたことを考えると、条約締結の機が熟すには、その程度の期間を要したと私なりに考えている。
救難信号SOSがモールス符号で・・・--ー・・・ということは、ご存じの方も多いであろう。そのモールス通信は、陸上では1844年〈天保15年)にアメリカで実用化され、我が国では1869年(明治2年)に実用化され、電報取扱いを開始した。その開始時期は、鉄道より3年、郵便より1年以上早かった。
しかし、モールス通信の無線での利用となるとかなり遅く、1895年(明治28年にマルコニーニが無線電信実験に成功し、わが国でも翌1896年、ただち軍や逓信省で無線の研究に着手した。1903年(明治36年)になると海軍は五島の福江島大瀬埼に大瀬埼海軍望楼所を建設した。
大瀬埼海軍望楼所は1905年(明治38年)の日露戦争において信濃丸から「敵艦見ユ」との無電をキャッチして、日本海海戦を勝利に導いた歴史を秘めている。その後、1908年5月にわが国最初の無線局である銚子無線電信局が開設された。続いて同年に大瀬埼(長崎無線電信局の前身)・潮岬・角島、落石の無線局が開設され、船舶無線局として開設された10艘と一般通信、救難・緊急通信を開始した。これが、その後の無線通信躍進の始まりであった。
モール通信は、1分間に80字から120字くらいの通信速度で行われた。その通信技術は、職人的要素が強く、上手、下手があり、養成も容易ではなかった。電報の取扱い数は増加し、これに応じて有線でのモールス通信は、昭和20年代の後半から効率的で高速な印刷通信に代えられていった。
船舶相手の無線通信は、依然として設備が簡単で遠方まで届くモールス通信が主力であった。近年になり、通信衛星を利用するなどして徐々に高度な通信方式が導入されていった。救難通信は、平成11年1月末までは、従来のモールス通信のほか、コンピューターと通信衛星を利用した「海上における遭難・安全に関する世界的制度」<GMDSS>による通信方式が混在していた。
これが平成11年2月、GMDSS方式に完全移行し、モールス信号は使用されなくなった。今や無線によるモールス通信は、マニアの利用だけになり、消えゆくのも時間の問題であろう。
最後に、電気通信の歴史を振り返ってみると距離に関係なく瞬時に相手方に情報を送る電気通信の幕開けとなったモールス通信は、1844年(天保15年)アメリカで実用化されてから、1999年(平成11年)わが国のモール通信の終わり(長崎無線電報局)まで、実に155年間にわたって利用された。電話が発明された1876年(明治32年)までの32年間はモールス通信が唯一の電気通信方式であった。
一方、1946年(昭和21年)にコンピューターの原型となったエニアックという計算機が大砲の弾道計算のため作られた。その後、電子計算機ともいわれたコンピューターは短期間の間に著しく性能が向上し、安価かつ小型になり、事業所の必需品となり、家庭でも身近な存在となっている。その過程で利用されたワープロは、その後インターネットを利用できるパソコンに取って代られた。
今やコンピューターやパソコンと通信回線が結ばれ、自動預金システムに代表される数々の大型システムが私どもの日常生活に密接に結びついて利用されている。インターネット、電子メールなども事業用だけでなく、すっかり家庭にも入りこんでいる。図形や文字も通信回線を利用したファクシミリで送ることができる。電話の他に多くの機能を持つ携帯電話の普及も大変なものである。
このように様々な通信手段があり、NTTの収入を見ると、電話が5、携帯が3、データ通信などが2となっている。まさに、話すだけの電話時代を越えてマルチディアが時代とともに定着しつつある。
遊びの分野でも、例えば演歌のカラオケは、センターから、マイクを持っているスナックまで、動く映像も音楽も歌詞も電話などの通信回線で送られてくる時代である。
モールス通信の技術者として職業人の一歩を踏み出した私個人としては、原点のモールス通信がなくなったことは、はりさびしいことである。個人的な感情は別として、年を取るとなかなか新しいことに適応が難しいが、モールス通信から発展した情報通信やコンピューターに振り回されないで、これを有意義に活用して、今の世の中に適応した生き方をしていかなければならないと思い、努力もしているところである。
◆寄稿者紹介
・川口 寿男 長崎県 昭和9年生れ 熊本電気通信学園電信科普通部25年卒
◆付記
本稿は、平成10年ごろ作成されたものを、そのまま掲載させていただきました。そのため、その後の劇的に進化、発展している情報通信の現状とギャップを感じる部分もありますが、そのまま掲載しましたので、ご了承ください(増田)。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます