モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

長崎逓信講習所記念碑建立と電報昔話

2016年06月21日 | 寄稿

◆寄稿 川口 寿男

今は、電報といえばお祝いや、お悔やみの電報を思い浮かべられるであろう。
しかし、私が長崎電報局でモールス通信の仕事に就いた昭和25年ごろは、「ハハキトク」や「チチシス」というような家庭からの電報もまだ多かったが、発信電報の内容としては、急を要する商品発注、商品発送、あるいは送金などの商業用電報が9割を占めていた。その後、電話が普及してくると、商業電報の比重は低くなり、現在は、慶弔電報が大部分である。

昭和25年末に年賀電報取扱いが再開されると、一般の年賀電報に加えて、長崎無線電報局を経由し南氷洋の捕鯨船団から全国向けに大量の年賀電報が発信され、元旦に配達できるようにと夜も寝る暇もなく通信に追われた年末の頃が思い出される。

今は、どの家にも電話があり、携帯電話も固定電話以上に普及しているが、電話が発明されたのは1876年で、1844年に実用化されたモールス符号による通信よりも遅かった。

そこで欧米では先ず電報通信網が急速に広まり、わが国でも明治維新以後、電報通信網を設置する動きが始まっている。明治2年(1869年)、東京~横浜間でモールス方式による通信が開始され、また海外からは、デンマークの大北電信会社がヨーロッパから上海を経由して長崎まで海底線を敷設し、明治4年(1871年)10月に長崎で海外電報の取扱いが始まっている。そして同年の11月にはウラジオストック~長崎間の海底線も完成し、長崎を中心にヨーロッパ、アメリカ間の海外通信を開始している。

海外と日本国内通信の窓口が長崎となったことにより、長崎~東京間の電信線の建設が急速に進められた。電信線建設に当って、世間の抵抗があったり、電信線の下を扇子をかざして通ったとか、東京の子供に送る荷物を電信線にぶら下げた、というような珍談は昭和60年に連載された長崎新聞の「モシモシ世相」に詳しい。

明治6年(1873年)、長崎でわが国最初の国内電報取扱いが開始された。この業務は、現在の全日空ホテル・グラバーヒルで開始されている。そして、同ホテル入口右手に、「国際電報発祥の地」「長崎電信創業の地」の記念碑が建てられている。

明治維新後、産業の近代化、軍事化が進む中で電報通信網は整備されてなかったが、大正時代になると、電報通信網が精力的に整備され、電報取扱局も急増し、併せて電報数も増加した。当時は、電報通信の正確性、迅速性が強く要望され、技術レベルが高い通信技術者の増強が急務となった。

この要望に対応し、逓信省は通信技術者を現場養成から、通信技術を体系的に養成する専門機関での育成に変更した。このことにより大正10年全国に逓信講習所を開設し、長崎には現在、麹屋町公園になっている地に長崎県・佐賀県を受け持つ長崎逓信講習所を開設した。そして同所は、昭和23年、熊本逓信講習所に統合されるまでの間、約3千名の通信技術者を送り出した。

電報通信の大まかな技術的推移を見ると、当初は高度な技術を要するモールス方式であった。次いで第2次世界大戦後の昭和20年以降、通信方式はモールス方式から高速な印刷電信方式に切り替えられ、昭和30年代にはそれまでの主流であったモールス方式は、主要有線通信回線では使用されなくなったので、モールス通信技術者の養成は昭和28年ごろまでに終了した。

モールス通信の無線は、1895年(明治28年)にマルコニーが無線電信実験に成功し、わが国でもただちに翌明治29年(1896)無線電信研究に着手。明治36年(1903)海軍が五島の福江島に建設した大瀬崎海軍望楼所(現在は灯台)では、明治38年(1905)の日露戦争のとき、信濃丸から「テキカンミユ」との無電をキャッチし、日本海海戦を有利に導いたという歴史を秘めている。

最近の映画でも有名なタイタニック号といえば、1912年(明治45年)に氷山と衝突して沈没し、1500名が亡くなった船であるが、この船が無線でモールス信号のSOSを発信した第一号の船であった。更に、これを契機に翌1913年(大正2)に国際会議が開催され、1929年(昭和4)に国際条約で救難信号はSOS(モールス符号で…---…)となった。

船舶から発信される電報は、日本では全て銚子と長崎無線電報局でモールス通信により受信し、国内全ての電報通信網に送り込まれた。しかし最近では、無線通信だけで使用されていたモールス通信は、平成11年(1999年)国際条約に基づき、世界中をカバーする衛星通信方式に全面的に移行したので、公共通信の役目を終えた(九州においては、諫早市の長崎無線電報局での業務が最後となった)。

脱線するが、私が長崎無線電報局回線で受信しているとき「チンタツサセコイ」という電報が同じ船から何通も来た。先輩にその意味を訊ねたところ、「青島(チンタオ)を発つから佐世保(サセボ)に来い」、という意味だという。電文の基本料金は10字までだったので、基本料金以内で上手に内容を省略した電文だった。

最後に、九州内の逓信講習所や熊本電気通信学園の卒業者により、昭和26年に熊本電気通信学園(九州内の通信技術者育成を集約した組織)内に九州逓友同窓会が設立されたが、間もなく通信技術者の養成が終わり、会員の減少、高齢化等により解散された。
そして、この会の解散を機に、先人の業績を記念して「長崎逓信講習所之跡」の碑を平成15年、西日本電信電話株式会社長崎支店と九州逓友同窓会長崎支部一同の連名で前記麹屋町公園内に建立した。
この記念碑建立については、長崎市や地元の方々のご理解とご協力を得たことについて、紙上をお借りしてお礼を申し上げたい。


◆寄稿者紹介
 川口 寿男 長崎県 昭和9年生れ 熊本電気通信学園電信科普通部昭25年卒

 出典:長崎逓信講習所之跡の記念碑建立と電報昔話(平成15年) 

・この寄稿は、川口氏が九州逓友長崎支部長の平成15年当時、長崎逓信講習所の跡地に記念碑を建設された後に発表されたものを、氏のご承諾を得て転載させていただきました(増田)。


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