モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

世紀の遺物

2016年04月01日 | 寄稿
◆寄稿 椎名 敬一

私は、昭和24年(1949)、港区麻布の東京電気通信学園の普通部電信科に入学、9ヵ月の通信の訓練を受け、翌年2月に卒業しました。さらに東京中央電報局で、2ヵ月間、通信の訓練を受けた後、世田谷等々力電報局に配属され(参考1参照)、モールス音響通信に従事しました。
 
当時はまだ音響通信が華やかな時代で、学園入学前にモールス符号を全部暗記させられ、在学中は毎朝テストがあり、文字どおりトンツーの特訓に明け暮れる毎日でした。

クラスの担任は、当時トンツー日本一と言われ、東京中央電報局から転勤してきたばかりの若いIT先生でした。私たちの卒業までの通信の達成速度は、1分間85字でしたから、先生はその高速通信技術を教室で披露するようなことは、一度もありませんでした。

しかし私は、何かの機会に一度だけ先生が別室で電鍵を叩いているのを聞いたことがあるのです。あの時の流麗な、きれいな音響のひびきが今でも頭の中に残っています。
それは実に美しく、人が叩いているのに「人間技ではないのでは?」と瞬時にそう感じたことを今も覚えています。きっとこれが、当時よく言われていた1分間150字くらいの通信速度ではなかったかと思っています。ああいう技能を神業と呼ぶのだろうと思います。
ただ残念なことに、あの時、先生にその速度を聞いておかなかったことです。

学園で、もう一人、今も脳裏に焼きついて忘れることのできない先生がいます。第一印象が非常に強烈で、その授業もユニークだった電信地理の担当だったIN先生です。

先生が、初めて教室に姿を現した日、教壇に上がるや、開口一番、
「君達は毎日、自分が何をして生きていんのか、本当に考えたことがあるのか」と大声を張り上げました。
「大体だな、モールス通信などという代物は、19世紀つまり前世紀のものなのだ。したがって、わしは、こいつを『世紀の遺物』と呼んでいる。」

さらに教卓の電鍵に触れながら(勿論、通信経験のない先生に、ちゃんとそれを叩くことはできないはずだったが。)こう続けたのでした。
「こんなものを金科玉条(ここで黒板に大きく「金科玉条」と書き、フリガナをつけ、その意味を説明した。)とあがめ奉って大切にしている無能な我々教官どもも悪いが、君達の真剣に打ち込んでいる姿を見ていると、わしは情けなくて涙がでてくるのだ。」

「世紀の遺物的な人間は、学園の我々教官だけで沢山だ。これからの新しい時代に生きる君達は、常に何が大切なのかよく判断し、深く考えて行動できなくてはいかん。」

少なくともそれは、我々訓練生にとっては予期しない言葉でした。

当時の私は、先生の言葉を何日か考え、こう受け止めることにしました。
1.電信事業の今の仕事に安住するな。
2.過去のものに捕らわれるな。
3.自ら考えて努力せよ。


学園卒業後の配属局では、4年あまり音響通信に従事しましたが、当時はまだ音響通信の全盛時代でした。都内には、日本橋、浅草などの気送管局(参考2)もあり、世田谷など一部の大局には、印刷通信が入っていました。
  
当時のモールス音響通信の技能検定の通信速度は、和文1級=1分間85字、同特級=110字、欧文=75字で、電信競技会等もあり、夢中で技能を磨いたものです。
通信速度を上げたいため、悪いこととは知りながらブル(短点の連続音)送信や「ヘボカワレ」などよくやったもので、若気の至りとはいえ、当時の相手方には申し訳ないことをしました。

宿直の明け方に必ず来る長文の欧文電報(国際電報Letter Telegram)を受信したこと、宿直が多い中、無理をして夜間高校に通ったことなど、共に懐かしい記憶として残っています。

学園入学前、不器用な私は、トンツーなどできるだろうか、と大変不安でした。でも、途中退学されることもなく、無事卒業でき、気送管局に回されることもなく、音響通信に従事できたこと、そして職場で多くの素晴らしい先輩や仲間たちにお世話になったことなど、今でもとても幸せに思っています。

音響通信を経験された皆様の文章を拝見し、昔のことを改めて、種々回想しています。今、モールス音響通信は、IN先生が入学早々の我々に喝破したとおり、文字どおり『世紀の遺物』となりました。そして、すっかり世の中の人々に忘れ去られてしまったのが、とても残念に思われます。
それでも、私は、モールス通信は、人間の考えたすばらしい文化だと信じています。

《参考》
(1)東京中電から世田谷等々力電報局へ
私が学園卒業後に行った東京中央電報局の入り口には、MP(米軍の憲兵)が立っていたのを覚えています。
通信訓練課で2ヵ月間、モールス音響通信の訓練を受けた私は、そのまま中央電報局で通信の仕事を続けられると張りきっており、鍛えられた素晴らしい腕前で、これから大活躍をと意気込んでいました。ところが、実際は、中央電報局から追い出されてしまいました。
戦後間もない当時、局内には結核患者が多く、局内の医務室で検査結果を見た医師の所見により、理由の如何を問わず、中央電報局から追い出される運命となる者がいました。私もその一人で、等々力電報局に転勤させられました。これで命拾いをしたのか、よくわかりませんが、私以外に何人も同じような人がいたようでした。


(2)気送管局について
私が記憶している当時の東京の気送管局は、次のようなものでした。
東京中央電報局と浅草等の気送管局との間は、道路の地下に埋設された気送管(エアーシューター)で繋がれており、この気送管を使って電報を直接送り届けていました。
気送管局は、丸の内、京橋、日本橋、室町、浅草、下谷、本所、深川でした。

②気送管通信では、電報をまとめて専用の筒の中に入れ、その筒を圧縮空気の流れている地下の気送管に入れて送ります。
浅草は、東京中央電報局から最遠気送管局でしたが、その送達所要時間は、確か20分だったと聞いています。

③気送管局と都内および近郊の各電報局は、東京中央電報局との直通回線(本線)のほか、電信自動交換線(通称「交換線」と呼ばれた)に加入していました。         
交換線加入局は、ダイヤルで相手局を呼び出し、モールス音響通信に切り替えて、直接トンツーで電報を送ることができました。つまり、交換線加入局は、東京中央電報局を経由することなく、直接、交換線加入局と電報の送受をすることができました。
*交換線加入電報局・・・都内各局(東京中電、国際電報局を含む)、武蔵野、立川、大宮、横浜、川崎など

要するに、東京都内の電報局には、どこにもモールス音響通信のオペレータが配置されていましたが、気送管局では苦労して習得した通信技術を発揮する機会が少ないので、学園卒業時、通信技術に自信を持つ若者の中には、気送管局は敬遠したい気持ちの者がいました。


◆寄稿者紹介
  椎名 敬一 千葉県 昭和8年(1933)生れ
  東京電気通信学園普通部電信科 昭和25年(1950)卒


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