◆寄稿 赤羽 弘道
名古屋逓信講習所時代
<はじめに>
私が尋常科2年生の昭和6年((1931)満州事変勃発、昭和7年満州国が誕生。日本は不況と人口問題を解決するため活路を大陸に求め、満蒙開拓のための移民が国策として始められた。昭和12年、高等科2年のときには、日中戦争に突入し、故郷の長野県の村からも多くの兵士が、赤紙を受けて出征した。
このような時代の昭和13年3月、私は、高等科の卒業がせまり、身の振り方について思いあぐねていた。そのようなとき、担任の先生が、官費で勉強できる名古屋逓信講習の受験を奨めてくれ、郷里の川島郵便局長を介して辰野郵便局長に、私の推薦を頼んでくれた。辰野局には電信機が設置されていて、合格すれば、卒業後の一定期間、そこに勤務するという条件であった。
試験は、2月上旬、岡谷郵便局で2日間行われた。初日は国語と算術の一次試験で、午後発表があり受験者は5分の1にしぼられ、翌日、地理、作文、適性検査の二次試験があった。3月末日、合格通知があり、3月31日に体格検査のため講習所に出頭せよという。後でわかったことであるが、岡谷では約100名が受験して5名が合格していた。学校の担任の先生や両親は大変喜んでくれた。
昭和13年(1938)4月1日、名古屋逓信講習所普通科(61期)に入学した。講習所は、名古屋駅から名鉄電車で、東南方向へ約20分の愛知県鳴海町(現在名古屋市緑区鳴海町)にあった。
新入生は70名で、多くはこの年小学校を卒業した者であるが、約2割は中学中退者や、前年小学校を卒業し再度受験した者などで、年齢は1、2歳上であった。入学者は、愛知・長野・岐阜・三重の4県から来ていた。
制服は、愛知県指定の中等学校の制服で、冬は木綿の紺、夏は霜降りであった。靴は牛革、襟章は電信を意味するTだった。
訓練期間は1年間。授業科目は、モールス通信術、専門科目、普通学科で、軍事教練も正規の科目となっていた。普通学科の国語、英語は中学3年レベル、専門学科は、厚さ10センチもある法規集が貸与された。そこには、電信法、電報規則、電報取扱規程などが収録されていて、卒業までにこれをマスターし、電報の取扱いに習熟することが目標とされていた。
授業で最も重点がおかれていたのは、モールス通信術であった。
入学の翌日からモールス符号の暗記が始まった。表に符号、裏にカナ文字が書かれたカードが渡され、イロハ48文字と数字・記号を合わせ約70のモールス符号がひと綴になっていた。食事のときもトイレの中でも、歩くときも寝ているときも必死に取り組み、1週間ですっかり暗記してしまった。
電鍵が1人に1台ずつ貸与された。
教官は、教壇の上から電鍵を叩いて音響機を鳴らし、生徒は一斉にこれを聞いて文字を受信した。
音響機から聞こえてくる音は、短点はガチャ、長音はガーチャと聞こえた。トンツーは、「トンテッカ」とも聞こえた。無線通信ではピーピーというブザー音を出したが、音響通信は歯切れがよく、高速度の通信に適していたので、国内の郵便局間の通信にはこの方式が採用されていた。
手書きの受信が一定のレベルに上がると、次はタイプライターで受信する訓練が始まった。和文タイプと欧文タイプがあったが、モールス符号と同じように、欧文タイプのキーの配列は万国共通であり、そのため後々ずいぶんと役にたった。
校庭を囲んで寮があった。全寮制で、本寮に収容しきれないものは民家を借上りあげた分寮に入っていた。分寮は、校舎から10分ほどの稲荷神社社務室をそっくり借上げたもので、私もそこに入った。約40人がいて、一室に4人、58期生が室長で、59期、60期、61期と各期から1人ずつ入っていた。舎監のほか、寮長、副寮長が決められていたが、寮生活は生徒の自治に任されていたいた。
日課はこと細かに定められ、最上級生の管理のもとに厳しく守られていた。起床6時、6時30分点呼と体操、7時に登校して本寮食堂で朝食、8時から4時まで授業、夕食後寮に戻る。門限6時50分、7時から9時まで自習、9時15分点呼、9時30分就寝、10時消灯と決まっていた。
部屋の掃除、整理整頓、同僚や上級生との付き合い、自習の仕方、こうしたことにも慣れ、寮生活は楽しいものになっていった。寮の食事は今までに比べると天地の隔たりがあり、ご馳走づくめであった。
3ヵ月ごとに寮の入れ替えが行われ、7月に私は本寮に入った。
異郷の風物はすべてが珍しく、日曜日はいつも外出した。
遠足で犬山城を見学し、新舞子の海で潮干狩りをしたり、夏休みに入ると、知多半島の野間で、全校生徒の水泳講習会が開催されたりした。
1年はあっという間に過ぎ、昭和14年3月、卒業式を迎えた。私は、推薦局の辰野郵便局に配属となった。
◆寄稿者紹介等
名古屋逓信講習所時代
<はじめに>
赤羽弘道氏の自分史「記憶の残像~つつましく傘寿を生きる~」(平成20年11月発行)から、著者のご承諾をいただき、電信関係の記述を抜粋しご紹介します。抜粋に当たっては、一部、要約・省略させていただいたことをお断りします。これから数回、掲載予定です。(増田)
私が尋常科2年生の昭和6年((1931)満州事変勃発、昭和7年満州国が誕生。日本は不況と人口問題を解決するため活路を大陸に求め、満蒙開拓のための移民が国策として始められた。昭和12年、高等科2年のときには、日中戦争に突入し、故郷の長野県の村からも多くの兵士が、赤紙を受けて出征した。
このような時代の昭和13年3月、私は、高等科の卒業がせまり、身の振り方について思いあぐねていた。そのようなとき、担任の先生が、官費で勉強できる名古屋逓信講習の受験を奨めてくれ、郷里の川島郵便局長を介して辰野郵便局長に、私の推薦を頼んでくれた。辰野局には電信機が設置されていて、合格すれば、卒業後の一定期間、そこに勤務するという条件であった。
試験は、2月上旬、岡谷郵便局で2日間行われた。初日は国語と算術の一次試験で、午後発表があり受験者は5分の1にしぼられ、翌日、地理、作文、適性検査の二次試験があった。3月末日、合格通知があり、3月31日に体格検査のため講習所に出頭せよという。後でわかったことであるが、岡谷では約100名が受験して5名が合格していた。学校の担任の先生や両親は大変喜んでくれた。
昭和13年(1938)4月1日、名古屋逓信講習所普通科(61期)に入学した。講習所は、名古屋駅から名鉄電車で、東南方向へ約20分の愛知県鳴海町(現在名古屋市緑区鳴海町)にあった。
新入生は70名で、多くはこの年小学校を卒業した者であるが、約2割は中学中退者や、前年小学校を卒業し再度受験した者などで、年齢は1、2歳上であった。入学者は、愛知・長野・岐阜・三重の4県から来ていた。
制服は、愛知県指定の中等学校の制服で、冬は木綿の紺、夏は霜降りであった。靴は牛革、襟章は電信を意味するTだった。
訓練期間は1年間。授業科目は、モールス通信術、専門科目、普通学科で、軍事教練も正規の科目となっていた。普通学科の国語、英語は中学3年レベル、専門学科は、厚さ10センチもある法規集が貸与された。そこには、電信法、電報規則、電報取扱規程などが収録されていて、卒業までにこれをマスターし、電報の取扱いに習熟することが目標とされていた。
授業で最も重点がおかれていたのは、モールス通信術であった。
入学の翌日からモールス符号の暗記が始まった。表に符号、裏にカナ文字が書かれたカードが渡され、イロハ48文字と数字・記号を合わせ約70のモールス符号がひと綴になっていた。食事のときもトイレの中でも、歩くときも寝ているときも必死に取り組み、1週間ですっかり暗記してしまった。
電鍵が1人に1台ずつ貸与された。
教官は、教壇の上から電鍵を叩いて音響機を鳴らし、生徒は一斉にこれを聞いて文字を受信した。
音響機から聞こえてくる音は、短点はガチャ、長音はガーチャと聞こえた。トンツーは、「トンテッカ」とも聞こえた。無線通信ではピーピーというブザー音を出したが、音響通信は歯切れがよく、高速度の通信に適していたので、国内の郵便局間の通信にはこの方式が採用されていた。
手書きの受信が一定のレベルに上がると、次はタイプライターで受信する訓練が始まった。和文タイプと欧文タイプがあったが、モールス符号と同じように、欧文タイプのキーの配列は万国共通であり、そのため後々ずいぶんと役にたった。
校庭を囲んで寮があった。全寮制で、本寮に収容しきれないものは民家を借上りあげた分寮に入っていた。分寮は、校舎から10分ほどの稲荷神社社務室をそっくり借上げたもので、私もそこに入った。約40人がいて、一室に4人、58期生が室長で、59期、60期、61期と各期から1人ずつ入っていた。舎監のほか、寮長、副寮長が決められていたが、寮生活は生徒の自治に任されていたいた。
日課はこと細かに定められ、最上級生の管理のもとに厳しく守られていた。起床6時、6時30分点呼と体操、7時に登校して本寮食堂で朝食、8時から4時まで授業、夕食後寮に戻る。門限6時50分、7時から9時まで自習、9時15分点呼、9時30分就寝、10時消灯と決まっていた。
部屋の掃除、整理整頓、同僚や上級生との付き合い、自習の仕方、こうしたことにも慣れ、寮生活は楽しいものになっていった。寮の食事は今までに比べると天地の隔たりがあり、ご馳走づくめであった。
3ヵ月ごとに寮の入れ替えが行われ、7月に私は本寮に入った。
異郷の風物はすべてが珍しく、日曜日はいつも外出した。
遠足で犬山城を見学し、新舞子の海で潮干狩りをしたり、夏休みに入ると、知多半島の野間で、全校生徒の水泳講習会が開催されたりした。
1年はあっという間に過ぎ、昭和14年3月、卒業式を迎えた。私は、推薦局の辰野郵便局に配属となった。
◆寄稿者紹介等
・出典:赤羽弘道氏「記憶の残像~つつましく傘寿を生きる~」(平成20年11月出版・小倉編集工房)
出典は、赤羽氏が傘寿を機にまとめられた自分史ですが、私の友人高田光雄氏が、このブログの参考にと貸してくれたものです。
友人は、かつて赤羽氏の部下として勤務した関係から、この本を寄贈されたそうです。
私も電電公社時代の著者は、よく存じあげている先輩のお一人でしたので、友人の好意を謝し、早速読ませていただきました。
読んで驚いたのは、お若いころの郵便局でのモールス音響通信のことなど、貴重な電信事業に関する思い出が克明に記録されていることでした。
早速、著者ご本人に、電信関係部分をブログへ紹介させていただきたいと、電話でお願いをしましたところ、心よくご承諾いただき、たいへん感謝しております。
※著者の経歴:出典は、赤羽氏が傘寿を機にまとめられた自分史ですが、私の友人高田光雄氏が、このブログの参考にと貸してくれたものです。
友人は、かつて赤羽氏の部下として勤務した関係から、この本を寄贈されたそうです。
私も電電公社時代の著者は、よく存じあげている先輩のお一人でしたので、友人の好意を謝し、早速読ませていただきました。
読んで驚いたのは、お若いころの郵便局でのモールス音響通信のことなど、貴重な電信事業に関する思い出が克明に記録されていることでした。
早速、著者ご本人に、電信関係部分をブログへ紹介させていただきたいと、電話でお願いをしましたところ、心よくご承諾いただき、たいへん感謝しております。
・大正12年(1923)長野県生れ、名古屋逓信講習所普通科・昭和14年卒、その後特定郵便局でモールス音響通信に従事。
名古屋逓信講習所高等科・昭和17年卒、通信院官吏練習所(電信)・昭和18年繰上げ卒、中国大陸へ通信隊として学徒出陣。
・昭和21年、戦地中国大陸から復員して逓信省に復職。以来、逓信省、電気通信省、電電公社の本省、本社に在職され、40歳台の初めまで戦後の電信事業の復興・発展・改革に取組まれた大先輩です。
・昭和55年(56歳)電電公社を退職、引き続き第二の職場でも多くの要職を平成4年(69歳)まで歴任されました。
その後、お住まいの埼玉県の人口3万人ほどの町で、自治会、連合町会、老人クラブの会長などを務められながら、趣味の油絵、俳句、詩吟のほか家庭菜園など老後の生活を楽しまれ、平成9年には春の叙勲、勲4等瑞宝章を、平成11年には電電退職者の会(電友会)から地域振興に貢献したとしてボランティア活動賞を受賞されています。現在、90歳を越すご高齢、奥様ともども、お元気でお暮らしとうけたまわっています。
名古屋逓信講習所高等科・昭和17年卒、通信院官吏練習所(電信)・昭和18年繰上げ卒、中国大陸へ通信隊として学徒出陣。
・昭和21年、戦地中国大陸から復員して逓信省に復職。以来、逓信省、電気通信省、電電公社の本省、本社に在職され、40歳台の初めまで戦後の電信事業の復興・発展・改革に取組まれた大先輩です。
・昭和55年(56歳)電電公社を退職、引き続き第二の職場でも多くの要職を平成4年(69歳)まで歴任されました。
その後、お住まいの埼玉県の人口3万人ほどの町で、自治会、連合町会、老人クラブの会長などを務められながら、趣味の油絵、俳句、詩吟のほか家庭菜園など老後の生活を楽しまれ、平成9年には春の叙勲、勲4等瑞宝章を、平成11年には電電退職者の会(電友会)から地域振興に貢献したとしてボランティア活動賞を受賞されています。現在、90歳を越すご高齢、奥様ともども、お元気でお暮らしとうけたまわっています。
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