モールス音響通信

明治の初めから100年間、わが国の通信インフラであったモールス音響通信(有線・無線)の記録

関東大震災と東京中央電信局(2/2)

2016年09月02日 | モールス通信
◆9月2日~9月30日

あくる2日、避難した紅葉館の林中にて夜を明かした翌日、応急手段を策定し、臨時事務の分掌(通信現業、庶務、伝令、兵站、警衛、衛生等の8部)と部長、副部長を決め、陣容を整えた。3日には、復旧計画の実施に関し、具体方法の協議を完了。麻布飯倉の中電女子吏員宿舎を臨時本部兼避難所に充て、今後中電のとるべき方針を発表した。同時に寝る家のなくなった者、食事のできない局員を収容した。4日には東京中央郵便局の小包室を借り業務を再開することした。
その後、14日、15日には丸の内永楽ビルディング4階を借り受け移転。ここで、通信の復興、罹災従事員の救護等、災害の善後策に取り組む態勢ができた。

なにしろ大世帯が、ほとんど無一物となって焼け出されたので、衣食住のことをはじめ、業務用物品の配給その他について、役職員が一致して連日連夜ほとんど寝食を忘れて奮闘した。

従業員救護として、炊出しの実施、傷病者の医療にあたるなどしたが、痛ましいことに、自宅等で15名の職員が死亡、30名余が行方不明となった。
震災後間もなく、大阪中央電信局等全国の局所から、激励や慰問が寄せられた。

<<電信業務の復興>>
国の神経機能である通信の停止は一刻も許されず、東京と他の地方を結ぶために必死の努力が払われた。この結果、通信回線は次のように急速に復旧していった。

3日、復旧計画の実施に関し、具体方法の協議打合せ完了。
4日、東京郵便局の一部を借り、不通となった300余の回線のうち、大阪、名古屋、仙台3線を千住に収容、災害関係の緊急官局報通信の途を開く。
受付配達事務は、逓信省応急委員会通信部が管理し、電信課長三宅書記官がその処理に当たり、中電局長がこれに協力する。仮事務所は、260余人の吏傭人夫が回線復旧、通信再建に忙殺された。
5日、出勤者がだんだん増えてきたので、応急服務の基本を定めた。
大阪直通2回線、陸軍省へ1回線作成。災害関係の緊急官局報の受付開始。
6日、罹災市民から罹災電報受付開始。1通30字以内に制限、頼信紙は随意の用紙で可とする。中には、新聞紙片、たばこ包紙、ハンカチ等もあったようだ。早朝から頼信者殺到、軍隊が列の整理を手伝い23万通を円滑に受付けた。
新聞電報は1通300字以内、1社1日2回と制限し受付開始。無料取扱いとする。
受付電報の一部は、飛行機、鉄道を利用し、その他は直通または千住より機上送受した。
7日、名古屋、長崎へ2回線復活、亀戸より千葉1回線作成。
8日、神戸へ直通1回線、気象台へ電話1回線作成、福島、宇都宮、盤城無線、札幌、水戸の5回線を千住に収容、横浜線を高輪電話局へ引込み連絡する。
9日、新潟へ直通1回線作成。
11日、京都へ直通1回線作成。
12日、既設の京都線を撤去し、金沢へ直通線を設く。
14日、丸の内永楽ビルディング4階を借受け、通信部を移転。
15日、同上ビルにすべての部署を引っ越した。
17日、千住、亀戸、高輪収容の各回線を切換え、すべて直通とする。別に仙台2番、長野、高崎、海軍省の回線を新設。
30日、収容回線は合計42回線となり、ようやく電報の各種取扱制限も緩和できる見込みがつき、電信事業の復活も望めるところまで来た。

このような経過を経て、10月末65回線、11月末75回線、12月末の開通回線は、計234回線に達した。その後、東京中央電信局は、大正14年4月、大震災の前年に着工していた白亜の殿堂と呼ばれた新新局が大手町に完成。この新局舎に移転した東京中電は、再び太平洋戦争から戦後の発展期において、わが国の電信網の中枢としての役割を担ってゆくことになったのである。


◆出典; 
東京中央電報局沿革史  東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和33年12月)
続東京中央電報局沿革史 東京中央電報局編 発行電気通信協会(昭和45年10月)





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