小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

全国共同制作オペラ『ラ・ボエーム』(9/23)

2024-09-25 15:37:49 | オペラ
2024年度全国共同制作オペラ『ラ・ボエーム』を東京芸術劇場で鑑賞。このシリーズの名作『フィガロの結婚』(野田版)でも指揮をされていた井上道義さんが甘美で壮大なプッチーニを振った。今年いっぱいで指揮者を引退される道義先生の最後のオペラで、オーケストラは読響。大好きなボエームが、改めて「超」名作であることに驚き、先日からムーティ『アッティラ』ミョンフン『マクベス』とヴェルディの偉大さに触れる機会が続いていただけに、それとはまったく別のプッチーニの崇高さというものに圧倒された。

1幕のボヘミアンたちの屋根裏での大騒ぎは楽しく、ロドルフォ工藤和真さん、マルチェッロ池内響さん、コッリーネ・スタニスラフ・ヴォロビョフさん、ショナール高橋洋介さんが1830年代のパリの若者たちを演じ、池内マルチェッロは画家の藤田嗣治と同じ風貌をしている。ヘアメイクの効果とはいえ写真のフジタとそっくり過ぎて、ついつい目で追ってしまう。家賃を取り立てに来る大家ベノアは晴雅彦さんで、大きなワイン瓶のオブジェとともに若い衆と喧々諤々やる様子が楽しい。オーケストラは次から次へとやってくるシークエンスを畳み込むように積み重ね、ストラヴィンスキーの『ペトルーシュカ』を思い出した。プッチーニはストラヴィンスキーより24歳年上だからその感覚は奇妙なのだが、オーケストラは明らかにイタリアオペラの枠をはみ出して、ワーグナーやチャイコフスキーに比肩する壮大さを表している。二階のかなり後ろの席だったのでピットのすべてが見えたが、詰め詰めに並んだ管楽器が壮観だった。

ミミのルザン・マンタシャンはアルメニア出身で、今年に入って英国ロイヤルオペラやウィーン国立歌劇場でデビューを飾った新星ソプラノ。はっとしたのは、ロドルフォから蠟燭の火をもらって部屋を出て行こうとし、踵を返してくるときのミミがとても上品だったことで、オーケストラも「優しくて繊細なミミ」をサポートしていた。ここで妙に「ケモノっぽくなるミミ」を何人も見てきて、「鍵をなくした」というのも口実なので確かにうそをついているのだが、過剰にメスっぽくなっては観る側も興ざめになる。
ミミはプッチーニのオペラの中で最も美しい女性で、それは作曲家のノスタルジーの中にいるヒロインで、遠い憧れであり喪失であり、ダンテのベアトリーチェのような理想化された存在なのではないか。プッチーニはミラノ音楽院で学んでいた貧乏学生だった頃の自分を思い出してボエームを書いたという。ミミは寒い部屋の中にともる蠟燭の灯のような女性で、守ってあげたくても守ってあげられない風前の灯火のような儚い存在なのだ。

ロドルフォの「冷たい手を」は引き延ばされたようなスローテンポで、先程まで男同士の馬鹿騒ぎをしていた若者が別人みたいになり、心はすっかり夢の世界に入り込んでいる。歌手にとってはハードなテンポかと思われたが、工藤和真さんは勇敢に歌い切り、ハイCも見事だった。続く「私の名はミミ」もソプラノはゆっくりゆっくり歌う。道義先生にとってこのシーンはこうなのか…と胸が熱くなった。愛の思い出のすべてがオーケストラの夢幻のサウンドになり、二人が静かに袖に消えていく二重唱は、眠りの中へと溶け込んでいくような感じがした。

全国共同制作オペラは毎回アウトローな(?)演出家を起用する伝統があり「奇抜なことをやってこそ」という懐の深さがかなりスリリングな域にまで達していたプロダクションも観せてもらったが、2018年の『ドン・ジョヴァンニ』の演出も手掛けた森山開次さんは、ダンサーや道化を使いながらも逸脱的なことはやらず、結果的に指揮者がリードするプッチーニとなった。ストーリー作りは完全に指揮者が行い、登場人物の性格も指揮者が作っていた。一幕の屋根裏部屋から二幕のカフェモミュスへの場面転換は道化が面白おかしいジェスチャーをし、その背後でカフェの舞台が作られていくというもので、意図的なのかも知れないが、かなり長く感じられた。セッティングが終わると、クリスマスの楽しいシーンが始まる。
今回道義先生は字幕も担当しているが「ムゼッタのワルツ」はかなりぶっ飛んでいて、大笑い。その後も「えっ?」というような字幕がたくさん出てきた。イローナ・レヴォルスカヤが妖艶でコケティッシュなムゼッタを好演。ムゼッタと藤田似のマルチェッロは妙に絵になるカップルで、藤田がパリではモテモテでモデルの西洋女性の柔肌をオリジナルの顔料で表現し、作品が高く売れていたことなども思い出した。世田谷ジュニア合唱団は全員黒猫のコスチュームを着て、元気いっぱい。まだ小さい方もいて、カーテンコールでマリンバのように背丈の順に並ぶ様子も可愛らしかった。

3幕の音楽の美しさは衝撃的だった。ほとんど宗教音楽の美で、隠者のような装束の女声コーラスがレクイエムのような歌を歌い、オーケストラも聖なる響きを奏で、ここではマスカーニを思い出した。マスカーニはプッチーニより少しだけ早く出世したが、音楽が一番素晴らしいのは『カヴァレリア・ルスティカーナ』で、ボエームの3幕はカヴァレリア…を彷彿とさせる。貧しさゆえに別れを決意し、それでも春までは一緒にいようと歌うカップルの重唱が、ミサ曲のようなのだ。ムゼッタのけたたましい声とマルチェッロの罵声がその静けさを切り裂くが、そうでもしないとオペラにならないのだろう。3幕の最初と最後の「ズッ、チャッ」という二音も異化効果っぽい。

ミミが息絶える4幕は伏線となっていたライトモティーフが溢れ出し、客席の涙腺も大いに緩むが、「プッチーニは泣かせるから通俗的」なのではなく、音楽的には3幕の聖なる余韻が4幕につながっている。小さな恋愛物語のようで、「海よりも深くて果てしない(ミミ)」宇宙的な愛のオペラで、ミミは完璧な聖女となって天に召されていく。原作のミミは狡猾なところもあるというが、プッチーニの音楽には描かれていない。現代的な意識をもつ歌手の中には「ミミは死ぬから好きじゃない」という人もいて、それはそれで納得がいく。極度に理想化された女性を女自身はどう歌ったらいいのか、ということなのだろう。死相が現れている女性に「朝焼けのようにきれいだ」と言うのは、愛を美化しているからで、現実ではない。そんなことを問うのはナンセンスだ。指揮者とオーケストラがプッチーニの憧れと郷愁を炙り出し、女性という至上の存在を浮き上がらせた。「道義先生にとって、女性とは女神のような存在だったのだ」と同時に納得し、ここまでオペラで女神を表せるマエストロは凄い、と腰が抜けた。読響も本当に素晴らしい。世界中のどの歌劇場オーケストラより凄いと確信した。

ボエームはセピア色の恋で、過ぎ去りし日の一枚の写真のような恋。若い頃の記憶は最近の出来事より鮮明なのは何故だろうといつも不思議に思う。20年前や30年前のことが、昨日のように思い出される。そうした時間感覚の不思議を味わわせてくれるプッチーニという人についても考えてしまった。時間をつかさどるクロノス神は山羊座の守護神で、プッチーニも道義先生もそういえば山羊座…オペラの幕引きを迎えたマエストロの背中を見て「それじゃあもう本当に、終わりなんだね」とというロドルフォの歌詞が重なった。
全国共同制作オペラ『ラ・ボエーム』はこの後全国6か所を回る。



東京二期会『コジ・ファン・トゥッテ』(9/5)

2024-09-07 06:46:54 | オペラ
9/5に初日が開けた二期会の『コジ・ファン・トゥッテ』がすごい人気。シャンゼリゼ劇場、カーン劇場、パシフィック・オペラ・ヴィクトリアとの共同制作で、既にシャンゼリゼ劇場では初演が行われ、世界で最も忙しい演出家のひとりであるロラン・ペリーが8月から二期会の歌手たちに稽古をつけていた。フィオルディリージとドラベッラ、グリエルモとフェランドは現実の歌手として登場し、実際に1950年代にベルリンに存在したというレコーディング・スタジオを模したというセットで劇が始まった。

ロラン・ペリーという演出家は簡単にヒューマニズムなどと言わないクールな策士で、薄氷を踏みながら次々と新しいアイデアを創り出している演劇人というイメージ。今回は最高過ぎた。レコーディングスタジオの舞台は完璧で(チームを組んでいるシャンタル・トマが今回も冴えた装置デザイン)、そこにレトロな色彩感のブルーとグリーンの服を着たフィオルディリージ(種谷典子さん)とドラベッラ(藤井麻美さん)がソファに座りながら何やら発声練習や顔の筋肉ほぐしをしている。歌手の日常を観察している演出家の面白い芝居づけ。グリエルモ(宮下嘉彦さん)とフェランド(糸賀修平さん)も歌手という設定。50代くらいの男性として描かれるドン・アルフォンソ(河野鉄平さん)は百戦錬磨の音楽プロデューサーといった雰囲気。

あらすじでは、グリエルモとフェランドは女性たちの変わらぬ愛を試すために戦場へと出向くが、この現代劇の設定では一体どういうことになるのかとドキドキしていたら、男たちは普通に荷物をまとめてスタジオを出ていき、変装して戻って来る。演出のアイデアとしては力業というか、大変人を食っているが、「アルバニアの貴族」に変装した二人は白塗り化粧に黒装束の宮廷服で、モーツァルトの時代の御大臣みたいな姿なのだ。音楽も彼らの自己紹介の件は、時代を逆行したような古めかしいムードになる。こんな奇妙な男たちを女性たちは愛するとは思えないが、ペリーの魔法で劇はどんどん妖しい方向へ向かっていく。

若いキャストが集まった初日ははじけるような声の応戦で、ドラベッラ藤井さんの実力は既に知っていたが、フィオルディリージ種谷さんは正直ノーマークだったので、こんな凄い若手が二期会にいたのかと驚いた。高音が輝かしく、透明感があり、どんなに芝居が激昂しても声の上品さが失われない。誘惑に負けんとする長女が歌う14番のアリアでは、歌う場所を変えるたびに上からマイクが垂れ下がってくるという面白い仕掛けがあったが、歌手の真剣な表現は、この年頃の女性にとって「愛するということ」が生物学的にどれほど重要で自分の命を左右するということかを伝えてきた。後半でも長丁場のロンドでフィオルディリージは嵐のような心の動揺を歌うが、舞台上ではあらゆるドアに鍵がかかっていて、物理的にも感情的にも逃げ場がないという設定だった。

こうした追い詰められた女性の悲劇的相貌は、演出のもうひとつの視点からいうと「歌手の芸の肥やし」であり、絶体絶命のデズデモーナやトスカのように歌い手にリアリティを与えるのだが、女の心理から言うと「男たちの悪戯のために女をこんな状態に追い込むなんて!」と怒りも湧いてくる。一方で、男の視点からこのフィオルディリージの熱唱を聴くと、どんな濡れ場よりも妖艶で官能的なのだ。種谷さんは本気で自分を追い詰めた演技をしており、稽古場でのインタビューでも「フィオルディリージと私は頑固なところが似ている」と語っていたが、一種の憑依的ともいえる境地に達していた。

ドラベッラ藤井麻美さんはコントラスト的に「陽気な次女」としてコメディエンヌとしての魅力を発揮しまくり、チャーミングな演技と無限に湧き出る泉のような美声で1幕11番のアリアなど聴かせどころを歌った。ものすごく芯のある方で、声も豊かで安定感があるが、演劇的な柔軟性も素晴らしく、役によって全く違う顔を見せてくれる。種谷さんとの姉妹役は新境地で、スズキのような渋い役だけでなくきゃぴきゃぴした藤井さんもとても可愛くてセクシーだと思った。

演技は非常に細かく作られており、日本キャストとの再演で新たにたくさんのアイデアが生まれたという。ロラン・ペリーが鬼才なのは、「自分がどのような者か」ということを知り尽くしていて、オリジナルの統辞法を絶対に譲らないから。デセイやミンコフスキと組んでたくさん上演したオッフェンバックのオペレッタは、ボックスセットを持っているがフランス語の台詞がメインなのでなかなか全部見れていない。彼の根っこにあるのはフランス的なユーモアと美意識と人間観で、二日目キャストのドン・アルフォンソ黒田博さんが過去に主役を演じた『ファルスタッフ』でもそのポリシーを貫いていた。オペラは書かれた時代精神に支配されながらも、ダブルミーニングとして「普遍的人間性」を表現する。フランスには「自分はゲイでカトリック信者である」ということを演出上のアイデンティティにしているオリヴィエ・ピィのような人もいるが、ペリーもそれくらい自分自身の文体を貫くということに命をかけている。

日本のキャストとの長い稽古で、演出家の中にも新しい切り札がたくさん生まれたのではないだろうか。ドン・アルフォンソ河野鉄平さんは身のこなしが軽やかで、まるで自分の国の言葉を話すかのようにイタリア語のレチタティーヴォをこなす。デスピーナ九嶋香奈枝さんにはよくある可愛いデスピーナを演じさせず、労働階級のスタジオの清掃係のような姿で登場する。この二人は、他のオペラには絶対に似た者がいないモーツァルトとダ・ポンテの創造物で、あらゆる奇妙さを引き受けつつ、現代的なリアリティを表現していた。ゲネプロでは二日目のキャストも見学したが、七澤結さんのデスピーナはゾンビのようなメイクで、演技もさらに振り切れていてびっくりした。

恋人たちを試そうとするグリエルモとフェルランドの悪辣さと、裏切られたと知ったときの激昂の表現は、ほとんどヴェリズモ・オペラのような激しさで、声楽的にはモーツァルトの端正さを保ちつつも、感情表現は破壊的といっていいほどだった。宮下さんと糸賀さんは変装メイクをすると双子の兄弟のようで、死んだふりの演技も面白い。張り詰めた独唱も、このオペラの最大の美質である重唱も真摯に歌われていた。

オーケストラは新日本フィルとクリスティアン・アルミンクで、粋なリユニオン・プロジェクトになったわけだが、ゲネ初日ではピットの音に生気がなくて焦った。本番は全く違う活き活きとした音楽で、テンポはハーモニーを味わうようにゆったりとして、声楽家たちを包み込むような優しい風のようなアンサンブルも快かった。日を重ねて充実していっていると思う。合唱は二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部の合同で、二期会を新国で聴くのもフレッシュだったが、合唱の響きにも瑞々しい若さが感じられた。

コジはモーツァルトの最晩年のオペラだが、こんな凄いものを書き続けていたから早死にしてしまったのだろう。あまりに優れているし、膨大な細部が美しく、歌もオーケストラも次から次へと奇跡が起こる。このオペラでしか出会えない美しい旋律やハーモニーがありすぎて、巨大な才能を現実化するために身体をどれだけ酷使していたのだろうかと寒い気持ちにもなった。使いまわしなどなく、ほんの一瞬出会っては消えていくいくつもの美しい旋律が心に残る。そしてそれはすべてモーツァルトの宇宙で、太陽系のすべての天体が音楽家の中にあるのだと伝えてきた。歌手と演出の素晴らしさと、作品の真価を知ることの出来る稀に見る名演。













































新国立劇場『トスカ』(7/10)

2024-07-12 12:28:03 | オペラ
新国立劇場『トスカ』の二日目を鑑賞。アントネッロ・マダウ=ディアツの豪華な演出は2000年から新国で上演され、今回が9回目。個人的には5回目の鑑賞になるが、4年ぶりの新国トスカはゼッフィレッリ版より格段に豪華に感じられ、あらゆる瞬間が完璧な絵のようだった。若くて美しいジョイス・エル=コーリーのトスカ、勇敢で押しの強いテオドール・イリンカイのカヴァラドッシなど歌手陣も良かったが、この公演で最も心を揺さぶられたのはピットのオーケストラの美麗さだった。1952年生まれの巨匠マウリツィオ・ベニーニと東京フィルの強力な協調体制が、オペラを最高のものに仕上げていた。

今年はプッチーニ没後100年で、先月から二本の『蝶々夫人』のライブビューイング(ロイヤル・オペラ・ハウスとMET)、パッパーノ最後の任期となるロイヤル・オペラ・ハウス『トゥーランドット』など、立て続けにプッチーニ・オペラを観る機会があった。重層的でドラマティックなオーケストラ、ヴェリズモ的な歌手たちの演技にオペラの最高の完成形を見る思いで、こんなものを書いてしまう作曲家の脳はどのようになっているのか甚だ謎だった。

『トスカ』は1900年1月の初演で、プッチーニは1858年12月生まれだから、実際のところ40歳でこのオペラを書いている。その4年前には『ラ・ボエーム』、4年後には『蝶々夫人』を書いていて、『トゥーランドット』はその20年後…と記者会見で説明してくれたパッパーノの言葉を思い出した。指揮者は指揮台の上でスコアに敬意を評しつつ、心のどこかで「40歳でこれを書いた…!」と驚きを隠せないはずだ。
マエストロ・ベニーニと東フィルは何度目の共演だろう。冒頭の恐怖のモティーフから、雄弁で心理的な音が飛び出した。ピットの床を高めに設定しているのか、指揮者のやっていることがすべて見えるのが嬉しい。こういう見方をしていいものか分からないが、3時間の公演で、ほぼピットとマエストロに釘付けになってしまい、素晴らしいことが行われている舞台のまぶしさよりも、暗闇で行われていることに心を奪われていた。

堂守の志村文彦さんの、片足を引きずるような演技が今回も本当によく出来ていて、堂守が教会でぶつくさとつぶやく場面からピットは宝石箱の輝きで、セットの階段までもがオケの音によって造形されている感覚があった。リコルディの安い版のスコアを持っているので後から見てみたが、かろうじておたまじゃくしを追えるだけで、このびっしりと書き込まれた縦の線を指揮者が「音楽」にしていくのは素人の自分にとっては奇跡としか言いようがない。歌手たちは最高のオーケストラに包まれて、幸福な気分で歌っているように見えた。テンポも自然で、呼吸するような感じ。一幕でトスカとカヴァラドッシが無邪気に(!)で歌うデュエットでは、管楽器パートから小鳥や色とりどりの花を思わせる音が飛び出し、こんなにカラフルで陶酔的なオーケストラをプッチーニは書いていたのだ…と驚かされた。初めて聴くような世界だった。

スカルピアは健康上の理由で降板したニカラズ・ラグヴィラーヴァの代わりに青山貴さんが登板。悪役メイクで豪華な「テ・デウム」を歌い、2幕でのトスカ拷問も役になり切っていた。黒光りする迫力のバリトンで、青山さんの恵まれた声質が悪役でも生きていた。トスカ役のエル=コーリーは肉食系の濃い演技で相手役にぶつかってくるが、スカルピアは不動の威厳でエゴを通していく。精神の力を感じる修羅場だった。

ライトモティーフの組み立て方が、ワーグナーより洗練されている…というか、もっと無意識の次元に食い込んでいて、出来事・状況・心理といった全体の成り行きが、登場人物の輪郭を超えて交通している。アンジェロッテイ、堂守、スカルピアは全くの別人だが、あるモティーフを共有していて、マイナーになったりメジャーになったりしながら魔法のしりとりのように組み立てられていて、それは「夢の論理」とも呼びたい無意識層のロジックによって完成している。激越な表現となるカヴァラドッシの拷問、トスカの殺人のシーンはマエストロも炎のようになって指揮棒を震わせていた。最初から最後まで「一生懸命」な指揮で、心を込めてオケを導いているのがわかった。ベニーニは人生の中で何度「トスカ」を振ったのだろう。彼の人生のすべてが指揮棒に託されていた。

そのことを、オペラに関して百戦錬磨の東京フィルはすべて理解して、オーケストラの経験値を総動員して応えていた。日常的に劇場の響きを知り尽くしている強味を活かして、「この劇場で上演されるトスカ」の最高の響きを目指していたと思う。ピットの中で、お互いの音がどう聴こえているのかは分からないが、劇場全体に広がる調和は奇跡的で、今まで聴いたどのプッチーニよりも心に響いた。
ラストまで緊張の糸は切れず、歌手たちも事故なく過酷な役を歌い切った。「プッチーニとは何者か」という問いの答えが少しずつ頭の中ではっきりしてきて、それはありきたりのようだが「音楽で心理を表現するすごい天才」ということに尽きた。『蝶々夫人』も『トスカ』も残酷物語であるどころか、こんなに清潔な作品はない。音楽には美しかなく、寄木細工のようなオーケストラは一秒も退屈な音を鳴らさない。喝采の中、舞台に上がったベニーニが、チェロや管楽器を演奏するジェスチャーをして、ピットの奏者に敬意を評していた姿も素晴らしかった。歌手だけでなく、作曲家が書いたすべての音譜をすべての細胞で聴いた心地がした異次元の名演。











英国ロイヤル・オペラ『トゥーランドット』(6/23)

2024-06-26 22:52:37 | オペラ
音楽監督アントニオ・パッパーノの22年にわたる任期のラスト・シーズンとなったメモリアルな引っ越し公演。意外にも来日公演でパッパーノがプッチーニを振るのは初めてだという。演出はアンドレイ・セルバンによる1984年からロイヤル・オペラで親しまれてきた年季の入ったもので、幽霊が出そうな木造の紫禁城、処刑された王子たちを思わせるグロテスクな巨大仮面、京劇風のダンスや大掛かりな山車など、面白いものがたくさん出てきた。

直前でトゥーランドット役のソンドラ・ラドヴァノフスキーの急病による降板が発表され、これは劇場も招聘元も肝をつぶしかけたと思う。脇役ではなくタイトルロールが来られなくなってしまった。どんなときも冷静でなくてはいけないのが音楽監督である。プッチーニ・オペラの恐怖に満ちたイントロを勢いよく鳴らす指揮者は多いが、ピットに入ったパッパーノが奏でたのはもっと意義深い音だった。ドラマティックでありながら、皆が安全に舞台をこなせるように、慎重さも交じり合った重層的な音だった。ゲスト指揮者ではない、22年間劇場を率いてきた指揮者の出す音だと思った。任期の間中劇場の安全を祈り、スタッフ全員に愛情を注いできたリーダーの精神を思った。

ギャラリー状の装置に並ぶ合唱が、地声を強調した独特の発声で、トゥーランドットの処刑の恐怖に干上がる民のパニックがよく表れていた。ロイヤル・オペラ合唱団は変幻自在で、『リゴレット』ではまた違うキャラクターの声を聴かせてくれたが、『トゥーランドット』はエキゾチックな東欧の民族音楽のような合唱で、劇の内容に合っていた。マサバネ・セシリア・ラングワナシャのリューのアリア「お聞きください王子様」に大喝采が巻き起こる。カラフのブライアン・ジェイドも美声で、立ち姿も勇敢な王子そのもの。ティムールのジョン・レリエは映画俳優のような長身のバスで、演技もいいので最後までオペラグラスで追ってしまった。ピン・パン・ポンは高圧的な宦官として描かれることもあるが、この演出では面白い道化で、ダンサーなみの身体表現をしながら器用に歌っていた。

2幕のトゥーランドット登場は息を飲んだ。代役のマイダ・フンデリングが、超絶的な声で「この宮殿で…」を歌い始めたとき、物語のすべてを組み伏せるのは「声」なのだと痛感した。トゥーランドットは千年前に蛮族に殺された先祖のロウ・リン姫の呪いに憑依されていて、「求婚者になぞなぞを仕掛けて処刑する」彼女の残虐性は、ある種の「霊障」によるもので、姫は高貴であると同時に祟りの象徴なのだ。リューが可哀想だから、最後にトゥーランドットを自害させるという演出も見てきたが、それではカラフの勇敢さが台無しになってしまう。
トゥーランドットはダイヤモンドのように攻撃的なマルチカラーの色彩を、超音波のソプラノで表す。それはリューにはない超越的なもので、カラフはそれに魅了されると同時に、恐怖と退廃に満ちた北京全体を救おうとする。三つの問いも、フンデリングの歌唱は緊張感を緩めることなく、それに応えるジェイドも勇敢。天界から降りてきた黄金の玉座の皇帝アルトゥムの前で繰り広げられる男女の声の応戦は、声楽のオリンピックのようでもあった。

問いに答えて勝利したカラフの前で、どんどん弱くなっていくトゥーランドットの演技もよく、力の入れどころを最大限に見せたあとは、滑り台を落ちていくように「人間の女」になっていく。リューの「氷のような姫君の心も」では皆が泣きたくなるが、カラフの愛が「活きる」のはトゥーランドットを氷解させてこそなのだ。
3幕の「誰も寝てはならぬ」で聴衆を陶然とさせ、さらに愛と命を危険な秤にかけていくカラフは、後ろ姿まで勇士そのもので、「カラフは勝利に向かって最後まで駆け抜けていく」と語っていた記者会見でのブライアン・ジェイドの言葉を思い出した。

プッチーニが書いたはのは「リューの死」までで、そこからエンディングまではアルファーノによる補筆だが、その断絶感をオケからありありと聴かせられたことにもはっとした。補筆部分に納得せず、アルファーノの書いた譜面から100 小節をカットし、プッチーニのスケッチにより近づけるよう書き直させたというトスカニーニに感謝である。そうした作業の後でも、プッチーニの現代性とアルファーノの通俗性は歴然としており、プッチーニは最後のオペラで先の先まで行っていたことが理解できた。

カーテンコールに登場したNHK児童合唱団は30名近くいたと思う。みんなこの上演のために一生懸命練習をしてきたのだと思うと有難くて胸が熱くなった。「トゥーランドットは歌い損」のジンクスを破って、リューに負けない大きな喝采を姫が受けていたことにも安堵(?)した。
パッパーノはロンドン交響楽団のポストが決まっているが、今後は歌劇場のシェフになることはないという。40代前半から64歳の現在まで、音楽家としての人生をロイヤル・オペラに捧げ、劇場の平和を願って、ブレクジットやコロナ禍も乗り越えて皆を守ってきた。22年の任務を終えるタイミングで実現したこの引っ越し公演は、やはりとんでもなく感動的なものだった。奇跡的なオペラ公演に熱狂し、総立ちになった観客の姿が目に焼き付いた。






新国立劇場『コジ・ファン・トゥッテ』(5/30)

2024-06-04 00:23:33 | オペラ
新国『コジ・ファン・トゥッテ』の初日を鑑賞。ダミアーノ・ミキエレット演出の「サマーキャンプ」コジの再演は11年ぶりだというが、この面白い演出を観てからそんなに時間が経っていたことに驚いた。2011年の初演と2013年の再演では、18世紀ナポリを現代に置き換えたエキセントリックな発想にただただビックリしたが、今回これが本質的に優れていることを改めて実感した。

モーツァルトの音楽が、テントやキャンピングカーやバーベキューグリルに全く邪魔されないどころか、逆に活き活きと輝いている。ミキエレットは2014年の二期会『イドメネオ』の上演のとき来日しているが、気鋭の若手演出家という印象で、コジもイドメネオもあまりに斬新なのでちょっと悪ノリしているのではないかと思ったが、そう見せかけておきつつオペラの心臓部をいきなり鷲掴みにしている。「そうか、あの人は天才だったのか」と冷や汗をかいた。

今回の再演のキャストが最高だった。フィオルディリージのセレーナ・ガンベローニもドラベッラのダニエラ・ピーニ(2011年の初演時にもドラベッラを演じた)も、大変立派な歌手で、カジュアルなタンクトップとショートパンツの衣装を着てもらうのが申し訳ないほど神々しい歌声。フェルランドのホエル・プリエトも根性の座った(!)美声のテノール歌手で、見栄えもよい。グリエルモは当初キャスティングされていた歌手が芸術的理由から降板とのことで、大西宇宙さんが演じたが、朗々たるバリトンとサービス精神旺盛な演技で見事な当たり役だった。登場の瞬間からホールを埋め尽くす迫力満点の声で、水遊びの場面で上半身をむき出しにするシーンでは、「つけ胸毛」まで付けていた。本気のグリエルモに嬉し涙が出た。

ドン・アルフォンソはサマーキャンプの仕切り役で、ミキエレットは万国共通の「夏のアルバイトで学生を啓蒙する説教おやじ」をイメージしたのだと思うが、今回は新しいキャラクターだった。この役を演じたフィリッポ・モラーチェはナイーヴな雰囲気を醸し出し、自分がけしかけた若者たちの動きを物陰からつねに覗いていて、自分はデスピーナから迫られると恋愛恐怖症の内気な男性のように怖気づいて逃げてしまう。「本物の愛なんて存在しない」という実験が成功することで、愛が怖くて踏み込めない自分を肯定したいのだ。こういう設定を、過去二回の上演ではちゃんと読み取ることが出来なかった。

デスピーナはお色気たっぷりの機知に富んだ女性で、15歳より年上の設定に見える。九嶋香奈枝さんが八面六臂の大活躍で、コケティッシュでコミカルで見事なデスピーナだった。にせの医者や公証人に変装する場面も最高で、毒を注ぐように姉妹に浮気をけしかける様子も魅力的なのだ。1幕の終わりではドン・アルフォンソとカップルになり(!)ここからドン・アルフォンソは癒されていき、2幕では男女カップル交換の実験には半分興味を失っているように見えた。

歌手たちはこの演出でたくさんのことをやらねばならず、木がたくさん茂っている岩山状態の装置はかなり高速で回転し、そこに登ったり降りたり、ジャストなタイミングで歌い終えて地面に戻ってこなくてはならない。変装したフェルランドとグリエルモの熱演は、他のどの演出にもないほどのヒートぶりで、ロックなバイク野郎に扮した二人は必死に自分の標的を陥落させようとする。愛の悪ふざけに苦しむフィオルディリージに、本来のカップルの片割れであるグリエルモがそっと毛布(?)をかけてやる場面にぐっときた。
コジはそれぞれのソロ、二重唱、四重唱が本当に美しく、モーツァルトは神の旋律を書いたと思わせる。歌手たちの扮装がロココから遠ざかれば遠ざかるほど、音楽の聖なる響きが際立っていく。今回のミキエレット演出がこんなふうに素晴らしく見えたのは、4人が完璧なモーツァルト歌手として真剣に歌ってくれたからだ。

音楽は聖堂で鳴っているようで、目に見えるのは俗っぽいサマーキャンプというギャップ。合唱も現代の若者たちの格好をしていて、一人一人の演技も細かい。恋人たちが戦争から帰ってきて、浮気の結婚がばれ、男たちの悪戯も明るみになるが、一度傷ついた心は簡単に癒されない。恋人たちはよそよそしく離れ、デスピーナも呆れてドン・アルフォンソは孤立する。前回は、二組のカップルがダメになったのを見て、ドン・アルフォンソが「やったぜ!」と喜ぶラストだったが、今回は全く違っていて、誰も幸福にならない結末だった。歌手たちは嫉妬に苦しみ、ヴェリズモオペラのようなアリアを歌い、最後はその愚かさに「笑えない」というゴールに辿り着く。
長いオペラがあっという間で、凄い密度だった。飯森範親さんの指揮は気品とドラマ性を兼ね備え、東京フィルも一瞬たりとも緩まない見事な演奏。演出家とオーケストラ、モーツァルト歌手たちへの尊敬が止まらない「神演」だった。