音楽監督アントニオ・パッパーノの22年にわたる任期のラスト・シーズンとなったメモリアルな引っ越し公演。意外にも来日公演でパッパーノがプッチーニを振るのは初めてだという。演出はアンドレイ・セルバンによる1984年からロイヤル・オペラで親しまれてきた年季の入ったもので、幽霊が出そうな木造の紫禁城、処刑された王子たちを思わせるグロテスクな巨大仮面、京劇風のダンスや大掛かりな山車など、面白いものがたくさん出てきた。
直前でトゥーランドット役のソンドラ・ラドヴァノフスキーの急病による降板が発表され、これは劇場も招聘元も肝をつぶしかけたと思う。脇役ではなくタイトルロールが来られなくなってしまった。どんなときも冷静でなくてはいけないのが音楽監督である。プッチーニ・オペラの恐怖に満ちたイントロを勢いよく鳴らす指揮者は多いが、ピットに入ったパッパーノが奏でたのはもっと意義深い音だった。ドラマティックでありながら、皆が安全に舞台をこなせるように、慎重さも交じり合った重層的な音だった。ゲスト指揮者ではない、22年間劇場を率いてきた指揮者の出す音だと思った。任期の間中劇場の安全を祈り、スタッフ全員に愛情を注いできたリーダーの精神を思った。
ギャラリー状の装置に並ぶ合唱が、地声を強調した独特の発声で、トゥーランドットの処刑の恐怖に干上がる民のパニックがよく表れていた。ロイヤル・オペラ合唱団は変幻自在で、『リゴレット』ではまた違うキャラクターの声を聴かせてくれたが、『トゥーランドット』はエキゾチックな東欧の民族音楽のような合唱で、劇の内容に合っていた。マサバネ・セシリア・ラングワナシャのリューのアリア「お聞きください王子様」に大喝采が巻き起こる。カラフのブライアン・ジェイドも美声で、立ち姿も勇敢な王子そのもの。ティムールのジョン・レリエは映画俳優のような長身のバスで、演技もいいので最後までオペラグラスで追ってしまった。ピン・パン・ポンは高圧的な宦官として描かれることもあるが、この演出では面白い道化で、ダンサーなみの身体表現をしながら器用に歌っていた。
2幕のトゥーランドット登場は息を飲んだ。代役のマイダ・フンデリングが、超絶的な声で「この宮殿で…」を歌い始めたとき、物語のすべてを組み伏せるのは「声」なのだと痛感した。トゥーランドットは千年前に蛮族に殺された先祖のロウ・リン姫の呪いに憑依されていて、「求婚者になぞなぞを仕掛けて処刑する」彼女の残虐性は、ある種の「霊障」によるもので、姫は高貴であると同時に祟りの象徴なのだ。リューが可哀想だから、最後にトゥーランドットを自害させるという演出も見てきたが、それではカラフの勇敢さが台無しになってしまう。
トゥーランドットはダイヤモンドのように攻撃的なマルチカラーの色彩を、超音波のソプラノで表す。それはリューにはない超越的なもので、カラフはそれに魅了されると同時に、恐怖と退廃に満ちた北京全体を救おうとする。三つの問いも、フンデリングの歌唱は緊張感を緩めることなく、それに応えるジェイドも勇敢。天界から降りてきた黄金の玉座の皇帝アルトゥムの前で繰り広げられる男女の声の応戦は、声楽のオリンピックのようでもあった。
問いに答えて勝利したカラフの前で、どんどん弱くなっていくトゥーランドットの演技もよく、力の入れどころを最大限に見せたあとは、滑り台を落ちていくように「人間の女」になっていく。リューの「氷のような姫君の心も」では皆が泣きたくなるが、カラフの愛が「活きる」のはトゥーランドットを氷解させてこそなのだ。
3幕の「誰も寝てはならぬ」で聴衆を陶然とさせ、さらに愛と命を危険な秤にかけていくカラフは、後ろ姿まで勇士そのもので、「カラフは勝利に向かって最後まで駆け抜けていく」と語っていた記者会見でのブライアン・ジェイドの言葉を思い出した。
プッチーニが書いたはのは「リューの死」までで、そこからエンディングまではアルファーノによる補筆だが、その断絶感をオケからありありと聴かせられたことにもはっとした。補筆部分に納得せず、アルファーノの書いた譜面から100 小節をカットし、プッチーニのスケッチにより近づけるよう書き直させたというトスカニーニに感謝である。そうした作業の後でも、プッチーニの現代性とアルファーノの通俗性は歴然としており、プッチーニは最後のオペラで先の先まで行っていたことが理解できた。
カーテンコールに登場したNHK児童合唱団は30名近くいたと思う。みんなこの上演のために一生懸命練習をしてきたのだと思うと有難くて胸が熱くなった。「トゥーランドットは歌い損」のジンクスを破って、リューに負けない大きな喝采を姫が受けていたことにも安堵(?)した。
パッパーノはロンドン交響楽団のポストが決まっているが、今後は歌劇場のシェフになることはないという。40代前半から64歳の現在まで、音楽家としての人生をロイヤル・オペラに捧げ、劇場の平和を願って、ブレクジットやコロナ禍も乗り越えて皆を守ってきた。22年の任務を終えるタイミングで実現したこの引っ越し公演は、やはりとんでもなく感動的なものだった。奇跡的なオペラ公演に熱狂し、総立ちになった観客の姿が目に焼き付いた。
直前でトゥーランドット役のソンドラ・ラドヴァノフスキーの急病による降板が発表され、これは劇場も招聘元も肝をつぶしかけたと思う。脇役ではなくタイトルロールが来られなくなってしまった。どんなときも冷静でなくてはいけないのが音楽監督である。プッチーニ・オペラの恐怖に満ちたイントロを勢いよく鳴らす指揮者は多いが、ピットに入ったパッパーノが奏でたのはもっと意義深い音だった。ドラマティックでありながら、皆が安全に舞台をこなせるように、慎重さも交じり合った重層的な音だった。ゲスト指揮者ではない、22年間劇場を率いてきた指揮者の出す音だと思った。任期の間中劇場の安全を祈り、スタッフ全員に愛情を注いできたリーダーの精神を思った。
ギャラリー状の装置に並ぶ合唱が、地声を強調した独特の発声で、トゥーランドットの処刑の恐怖に干上がる民のパニックがよく表れていた。ロイヤル・オペラ合唱団は変幻自在で、『リゴレット』ではまた違うキャラクターの声を聴かせてくれたが、『トゥーランドット』はエキゾチックな東欧の民族音楽のような合唱で、劇の内容に合っていた。マサバネ・セシリア・ラングワナシャのリューのアリア「お聞きください王子様」に大喝采が巻き起こる。カラフのブライアン・ジェイドも美声で、立ち姿も勇敢な王子そのもの。ティムールのジョン・レリエは映画俳優のような長身のバスで、演技もいいので最後までオペラグラスで追ってしまった。ピン・パン・ポンは高圧的な宦官として描かれることもあるが、この演出では面白い道化で、ダンサーなみの身体表現をしながら器用に歌っていた。
2幕のトゥーランドット登場は息を飲んだ。代役のマイダ・フンデリングが、超絶的な声で「この宮殿で…」を歌い始めたとき、物語のすべてを組み伏せるのは「声」なのだと痛感した。トゥーランドットは千年前に蛮族に殺された先祖のロウ・リン姫の呪いに憑依されていて、「求婚者になぞなぞを仕掛けて処刑する」彼女の残虐性は、ある種の「霊障」によるもので、姫は高貴であると同時に祟りの象徴なのだ。リューが可哀想だから、最後にトゥーランドットを自害させるという演出も見てきたが、それではカラフの勇敢さが台無しになってしまう。
トゥーランドットはダイヤモンドのように攻撃的なマルチカラーの色彩を、超音波のソプラノで表す。それはリューにはない超越的なもので、カラフはそれに魅了されると同時に、恐怖と退廃に満ちた北京全体を救おうとする。三つの問いも、フンデリングの歌唱は緊張感を緩めることなく、それに応えるジェイドも勇敢。天界から降りてきた黄金の玉座の皇帝アルトゥムの前で繰り広げられる男女の声の応戦は、声楽のオリンピックのようでもあった。
問いに答えて勝利したカラフの前で、どんどん弱くなっていくトゥーランドットの演技もよく、力の入れどころを最大限に見せたあとは、滑り台を落ちていくように「人間の女」になっていく。リューの「氷のような姫君の心も」では皆が泣きたくなるが、カラフの愛が「活きる」のはトゥーランドットを氷解させてこそなのだ。
3幕の「誰も寝てはならぬ」で聴衆を陶然とさせ、さらに愛と命を危険な秤にかけていくカラフは、後ろ姿まで勇士そのもので、「カラフは勝利に向かって最後まで駆け抜けていく」と語っていた記者会見でのブライアン・ジェイドの言葉を思い出した。
プッチーニが書いたはのは「リューの死」までで、そこからエンディングまではアルファーノによる補筆だが、その断絶感をオケからありありと聴かせられたことにもはっとした。補筆部分に納得せず、アルファーノの書いた譜面から100 小節をカットし、プッチーニのスケッチにより近づけるよう書き直させたというトスカニーニに感謝である。そうした作業の後でも、プッチーニの現代性とアルファーノの通俗性は歴然としており、プッチーニは最後のオペラで先の先まで行っていたことが理解できた。
カーテンコールに登場したNHK児童合唱団は30名近くいたと思う。みんなこの上演のために一生懸命練習をしてきたのだと思うと有難くて胸が熱くなった。「トゥーランドットは歌い損」のジンクスを破って、リューに負けない大きな喝采を姫が受けていたことにも安堵(?)した。
パッパーノはロンドン交響楽団のポストが決まっているが、今後は歌劇場のシェフになることはないという。40代前半から64歳の現在まで、音楽家としての人生をロイヤル・オペラに捧げ、劇場の平和を願って、ブレクジットやコロナ禍も乗り越えて皆を守ってきた。22年の任務を終えるタイミングで実現したこの引っ越し公演は、やはりとんでもなく感動的なものだった。奇跡的なオペラ公演に熱狂し、総立ちになった観客の姿が目に焼き付いた。