小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

英国ロイヤル・オペラ『トゥーランドット』(6/23)

2024-06-26 22:52:37 | オペラ
音楽監督アントニオ・パッパーノの22年にわたる任期のラスト・シーズンとなったメモリアルな引っ越し公演。意外にも来日公演でパッパーノがプッチーニを振るのは初めてだという。演出はアンドレイ・セルバンによる1984年からロイヤル・オペラで親しまれてきた年季の入ったもので、幽霊が出そうな木造の紫禁城、処刑された王子たちを思わせるグロテスクな巨大仮面、京劇風のダンスや大掛かりな山車など、面白いものがたくさん出てきた。

直前でトゥーランドット役のソンドラ・ラドヴァノフスキーの急病による降板が発表され、これは劇場も招聘元も肝をつぶしかけたと思う。脇役ではなくタイトルロールが来られなくなってしまった。どんなときも冷静でなくてはいけないのが音楽監督である。プッチーニ・オペラの恐怖に満ちたイントロを勢いよく鳴らす指揮者は多いが、ピットに入ったパッパーノが奏でたのはもっと意義深い音だった。ドラマティックでありながら、皆が安全に舞台をこなせるように、慎重さも交じり合った重層的な音だった。ゲスト指揮者ではない、22年間劇場を率いてきた指揮者の出す音だと思った。任期の間中劇場の安全を祈り、スタッフ全員に愛情を注いできたリーダーの精神を思った。

ギャラリー状の装置に並ぶ合唱が、地声を強調した独特の発声で、トゥーランドットの処刑の恐怖に干上がる民のパニックがよく表れていた。ロイヤル・オペラ合唱団は変幻自在で、『リゴレット』ではまた違うキャラクターの声を聴かせてくれたが、『トゥーランドット』はエキゾチックな東欧の民族音楽のような合唱で、劇の内容に合っていた。マサバネ・セシリア・ラングワナシャのリューのアリア「お聞きください王子様」に大喝采が巻き起こる。カラフのブライアン・ジェイドも美声で、立ち姿も勇敢な王子そのもの。ティムールのジョン・レリエは映画俳優のような長身のバスで、演技もいいので最後までオペラグラスで追ってしまった。ピン・パン・ポンは高圧的な宦官として描かれることもあるが、この演出では面白い道化で、ダンサーなみの身体表現をしながら器用に歌っていた。

2幕のトゥーランドット登場は息を飲んだ。代役のマイダ・フンデリングが、超絶的な声で「この宮殿で…」を歌い始めたとき、物語のすべてを組み伏せるのは「声」なのだと痛感した。トゥーランドットは千年前に蛮族に殺された先祖のロウ・リン姫の呪いに憑依されていて、「求婚者になぞなぞを仕掛けて処刑する」彼女の残虐性は、ある種の「霊障」によるもので、姫は高貴であると同時に祟りの象徴なのだ。リューが可哀想だから、最後にトゥーランドットを自害させるという演出も見てきたが、それではカラフの勇敢さが台無しになってしまう。
トゥーランドットはダイヤモンドのように攻撃的なマルチカラーの色彩を、超音波のソプラノで表す。それはリューにはない超越的なもので、カラフはそれに魅了されると同時に、恐怖と退廃に満ちた北京全体を救おうとする。三つの問いも、フンデリングの歌唱は緊張感を緩めることなく、それに応えるジェイドも勇敢。天界から降りてきた黄金の玉座の皇帝アルトゥムの前で繰り広げられる男女の声の応戦は、声楽のオリンピックのようでもあった。

問いに答えて勝利したカラフの前で、どんどん弱くなっていくトゥーランドットの演技もよく、力の入れどころを最大限に見せたあとは、滑り台を落ちていくように「人間の女」になっていく。リューの「氷のような姫君の心も」では皆が泣きたくなるが、カラフの愛が「活きる」のはトゥーランドットを氷解させてこそなのだ。
3幕の「誰も寝てはならぬ」で聴衆を陶然とさせ、さらに愛と命を危険な秤にかけていくカラフは、後ろ姿まで勇士そのもので、「カラフは勝利に向かって最後まで駆け抜けていく」と語っていた記者会見でのブライアン・ジェイドの言葉を思い出した。

プッチーニが書いたはのは「リューの死」までで、そこからエンディングまではアルファーノによる補筆だが、その断絶感をオケからありありと聴かせられたことにもはっとした。補筆部分に納得せず、アルファーノの書いた譜面から100 小節をカットし、プッチーニのスケッチにより近づけるよう書き直させたというトスカニーニに感謝である。そうした作業の後でも、プッチーニの現代性とアルファーノの通俗性は歴然としており、プッチーニは最後のオペラで先の先まで行っていたことが理解できた。

カーテンコールに登場したNHK児童合唱団は30名近くいたと思う。みんなこの上演のために一生懸命練習をしてきたのだと思うと有難くて胸が熱くなった。「トゥーランドットは歌い損」のジンクスを破って、リューに負けない大きな喝采を姫が受けていたことにも安堵(?)した。
パッパーノはロンドン交響楽団のポストが決まっているが、今後は歌劇場のシェフになることはないという。40代前半から64歳の現在まで、音楽家としての人生をロイヤル・オペラに捧げ、劇場の平和を願って、ブレクジットやコロナ禍も乗り越えて皆を守ってきた。22年の任務を終えるタイミングで実現したこの引っ越し公演は、やはりとんでもなく感動的なものだった。奇跡的なオペラ公演に熱狂し、総立ちになった観客の姿が目に焼き付いた。






新国立劇場『コジ・ファン・トゥッテ』(5/30)

2024-06-04 00:23:33 | オペラ
新国『コジ・ファン・トゥッテ』の初日を鑑賞。ダミアーノ・ミキエレット演出の「サマーキャンプ」コジの再演は11年ぶりだというが、この面白い演出を観てからそんなに時間が経っていたことに驚いた。2011年の初演と2013年の再演では、18世紀ナポリを現代に置き換えたエキセントリックな発想にただただビックリしたが、今回これが本質的に優れていることを改めて実感した。

モーツァルトの音楽が、テントやキャンピングカーやバーベキューグリルに全く邪魔されないどころか、逆に活き活きと輝いている。ミキエレットは2014年の二期会『イドメネオ』の上演のとき来日しているが、気鋭の若手演出家という印象で、コジもイドメネオもあまりに斬新なのでちょっと悪ノリしているのではないかと思ったが、そう見せかけておきつつオペラの心臓部をいきなり鷲掴みにしている。「そうか、あの人は天才だったのか」と冷や汗をかいた。

今回の再演のキャストが最高だった。フィオルディリージのセレーナ・ガンベローニもドラベッラのダニエラ・ピーニ(2011年の初演時にもドラベッラを演じた)も、大変立派な歌手で、カジュアルなタンクトップとショートパンツの衣装を着てもらうのが申し訳ないほど神々しい歌声。フェルランドのホエル・プリエトも根性の座った(!)美声のテノール歌手で、見栄えもよい。グリエルモは当初キャスティングされていた歌手が芸術的理由から降板とのことで、大西宇宙さんが演じたが、朗々たるバリトンとサービス精神旺盛な演技で見事な当たり役だった。登場の瞬間からホールを埋め尽くす迫力満点の声で、水遊びの場面で上半身をむき出しにするシーンでは、「つけ胸毛」まで付けていた。本気のグリエルモに嬉し涙が出た。

ドン・アルフォンソはサマーキャンプの仕切り役で、ミキエレットは万国共通の「夏のアルバイトで学生を啓蒙する説教おやじ」をイメージしたのだと思うが、今回は新しいキャラクターだった。この役を演じたフィリッポ・モラーチェはナイーヴな雰囲気を醸し出し、自分がけしかけた若者たちの動きを物陰からつねに覗いていて、自分はデスピーナから迫られると恋愛恐怖症の内気な男性のように怖気づいて逃げてしまう。「本物の愛なんて存在しない」という実験が成功することで、愛が怖くて踏み込めない自分を肯定したいのだ。こういう設定を、過去二回の上演ではちゃんと読み取ることが出来なかった。

デスピーナはお色気たっぷりの機知に富んだ女性で、15歳より年上の設定に見える。九嶋香奈枝さんが八面六臂の大活躍で、コケティッシュでコミカルで見事なデスピーナだった。にせの医者や公証人に変装する場面も最高で、毒を注ぐように姉妹に浮気をけしかける様子も魅力的なのだ。1幕の終わりではドン・アルフォンソとカップルになり(!)ここからドン・アルフォンソは癒されていき、2幕では男女カップル交換の実験には半分興味を失っているように見えた。

歌手たちはこの演出でたくさんのことをやらねばならず、木がたくさん茂っている岩山状態の装置はかなり高速で回転し、そこに登ったり降りたり、ジャストなタイミングで歌い終えて地面に戻ってこなくてはならない。変装したフェルランドとグリエルモの熱演は、他のどの演出にもないほどのヒートぶりで、ロックなバイク野郎に扮した二人は必死に自分の標的を陥落させようとする。愛の悪ふざけに苦しむフィオルディリージに、本来のカップルの片割れであるグリエルモがそっと毛布(?)をかけてやる場面にぐっときた。
コジはそれぞれのソロ、二重唱、四重唱が本当に美しく、モーツァルトは神の旋律を書いたと思わせる。歌手たちの扮装がロココから遠ざかれば遠ざかるほど、音楽の聖なる響きが際立っていく。今回のミキエレット演出がこんなふうに素晴らしく見えたのは、4人が完璧なモーツァルト歌手として真剣に歌ってくれたからだ。

音楽は聖堂で鳴っているようで、目に見えるのは俗っぽいサマーキャンプというギャップ。合唱も現代の若者たちの格好をしていて、一人一人の演技も細かい。恋人たちが戦争から帰ってきて、浮気の結婚がばれ、男たちの悪戯も明るみになるが、一度傷ついた心は簡単に癒されない。恋人たちはよそよそしく離れ、デスピーナも呆れてドン・アルフォンソは孤立する。前回は、二組のカップルがダメになったのを見て、ドン・アルフォンソが「やったぜ!」と喜ぶラストだったが、今回は全く違っていて、誰も幸福にならない結末だった。歌手たちは嫉妬に苦しみ、ヴェリズモオペラのようなアリアを歌い、最後はその愚かさに「笑えない」というゴールに辿り着く。
長いオペラがあっという間で、凄い密度だった。飯森範親さんの指揮は気品とドラマ性を兼ね備え、東京フィルも一瞬たりとも緩まない見事な演奏。演出家とオーケストラ、モーツァルト歌手たちへの尊敬が止まらない「神演」だった。




東京・春・音楽祭『ラ・ボエーム』(演奏会形式)

2024-04-15 23:04:49 | オペラ
3月に始まった音楽祭も後半に入った4月中旬、東京春祭の演奏会形式『ラ・ボエーム』を鑑賞(4/14)。外は前の週から一転して初夏のような陽気で、ホールの中では寒いクリスマスのラブストーリーが演じられた。指揮は「プッチーニを最も親しい作曲家と感じる」と語るピエール・ジョルジョ・モランディ、オーケストラは東京交響楽団、合唱は東京オペラシンガーズと東京少年少女合唱隊。

冒頭から喧々諤々をはじめるロドルフォとマルチェッロは、テノールのステファン・ポップとバリトンのマルコ・カリア。体格のいいステファン・ポップは音楽が始まる前からわくわくとした微笑みを隠せず、その含みは、これから大好きな役を演じられる嬉しさと、「観客全員を驚かせてやるんだ」という自信だったと思う。初っ端から凄い声で、輝かしい美声を楽々とねぶり回している。オペラ好きのお客さんなら、いっぺんに大ファンになってしまったかも。すべては生まれつきの才能で、最初からスタートラインが違う才能の持ち主なのだと思った。画家役のマルコ・カリアも負けずにど真ん中のいい声を客席に向けてくる。コッリーネ役のバス、ボクダン・タロシュもショナール役のリヴュー・ホレンダーも勢いがいい。ベテランの風貌の4人の歌手が、元気いっぱいに若者を演じている様子がなんだかとても嬉しかった。
 その大騒ぎに、雷神のように怖い声を轟かせて大家のベノアが乱入してくる。バス・バリトンの畠山茂さんが、外国人歌手勢に負けない凄味のある歌を聴かせ、5人の歌手たちは面白げにからかったりからかわれたりする。ポップと畠山さんのからみが特に秀逸だった。

イタリアの若手ソプラノ、セレーネ・ザネッティがミミを歌い、役作りのために顔色を悪く見せるメイクをしていたが、物凄く精緻に役を作る歌手で「私の名はミミ」は絶品だった。演劇的に深く入り込んでいて、全く怖気づかず、高音域にいくにつれて複雑な色彩感を増していく。「美術品か宝飾品のような声だ」と咄嗟に思った。オパールや白蝶貝のようにゆらめいて、伸びやかなメロディの中にいくつもの聴かせどころを作っていく。非常に分析的に「声の美」を創り上げていて、知的であり純粋であり、プッチーニがミミという貧しい女性の中に見ていた聖母の姿が見えてくるようだった。

ロドルフォはミミが現れて嬉しくて嬉しくて仕方ない。ステファン・ポップは演技派で、少しやりすぎなくらいミミにのめりこんでいた。ミミのアリアの前にはロドルフォの『冷たい手を』があり、ここでのハイCは勢いよく噴出する温泉水か原油のようで…つまり無限大の豊かさを感じさせた。ミミとロドルフォがこんなに素晴らしいと、もう一幕で泣けてくる。一幕最後はデュエット半ばで舞台から去っていく二人だが、さっきまで聖母のようだったミミが「愛よ!」の重唱の高音では、獣っぽいほどムンムンした若い女性の刹那の声になっていたのに驚かされた。

二幕では東京オペラシンガーズと東京少年少女合唱隊が大活躍。少年少女たちは楽器や手袋のカラフルなアップリケを衣装に縫いつけていて、全員が難しいイタリア語を楽しそうに歌い上げ、手袋のついた服を着た一番小さな少年が大活躍をした。
ムゼッタはエチオピア生まれのイタリア人ソプラノ、マリアム・バッティスティッリが演じ、「ムゼッタのワルツ」を鮮やかに歌った。ムゼッタのパトロン役アルチンドロは、何と元ウィーン国立歌劇場総裁のイオアン・ホレンダーで、ホレンダー氏のみ譜面を必要としていたが、何とも贅沢な画面だった。

短い3幕では、ミミのパートが改めて難しい旋律を歌うことを思い知らされた。病魔に冒されて、ロドルフォともうまくいかなくなったミミの精神状態は、独特の譫妄的で寄る辺ないメロディーによって表される。プッチーニが世俗的な作曲家というのは全く嘘で、歌手にもオケにも最大限難しいことをさせる。ザネッティの実力の高さと、涙にむせぶロドルフォ=ポップの演技力に感心した。
4幕では、屋根裏部屋の若者4人が悪ふざけをして踊ったり格闘したりする。この場面は演出的にも大変よく作られていて、「演奏会形式」というものから完全に飛び出していた。
ロドルフォはミミを想い、マルチェッロはムゼッタを想い、それぞれ詩を書き画布に向かう。若い芸術家の愛は、恋人がインスピレーションの源だが、女の方は貧しさに負けずに生きるためにリアリストにならざるを得ない。
ミミが息絶える場面では、ミミとロドルフォの愛だけが正直で、よく語られる「ミミが子爵に見せる娼婦としての媚態」というのは全く思い浮かばなかった。

マエストロ・モランディの指揮姿は終始色々なことを語りかけてきて、指揮者の人生を見ているようで、それに応える東響のサウンドも機知に富んでいた。繊細でエレガントで、コンマスのニキティン氏の奏でる美音に何度も目が覚める思いがいた。この音楽祭、ワーグナーではN響が活躍し、この前日のブルックナー「ミサ曲第3番」では都響が名演を聴かせ、プッチーニは東響、読響の『エレクトラ』はこれから。まったく夢のような音楽祭で、特に今年は20周年記念ということもあり、演奏会形式オペラの充実度が並外れていた。
春祭が続けてきた演奏会形式オペラの「頂点」ともいえる名演で、温かいマエストロの心、真剣な東響、オペラシンガーズと少年少女合唱隊、贅沢なキャスティングの歌手たちが奇跡的なプッチーニを聴かせてくれた。ピンクの素敵な花束を渡され、息子さんのリヴュー・ホレンダー(ショナール役)とともにカーテンコールに登場したイオアン・ホレンダー氏が、なんとも言えない表情をしていた。実行委員長の鈴木幸一さんは、スタートした当時この音楽祭で舞台装置まで作りこむ計画をしていたというが、そのリスクを指摘し、演奏会形式で開催することをアドバイスしたのが、ホレンダー氏だったという。

声そのもの有難味というのも、オペラを取材しはじめた頃にはまだピンと来なかったが(演出に興味が集中していた)、客席にいて「命の源」を貰うようなものだとつくづく思った。春の音楽祭は幸せの上塗りの催しで、こちらからは永遠に何もお返しができないのに惜しみなく最高のものを聴かせてくれる。

ステファン・ポップはパヴァロッティの再来と呼ばれているらしく、「パヴァロッティは偉大すぎるだろう」という反論もあるそうだが、パヴァロッティでいいと思う。パヴァロッティにはどこかクールでスタイリッシュなところもあったが、ポップにもそういう素質があるような気がした。またすぐに聴きたいオペラ歌手。





東京・春・音楽祭『トリスタンとイゾルデ』(3/27)

2024-03-30 12:01:31 | オペラ
3月から4月にかけて約一か月間続く東京・春・音楽祭のハイライトのひとつ『トリスタンとイゾルデ』(演奏会形式)の初日を鑑賞。ワーグナー作品は長大なものが多く、『トリスタン…』も例にもれずだが、二回休憩込みの4時間40分の上演が長く感じられず、非常に凝縮された、的を絞った演奏という印象だった。
インバルもそうだが、ヤノフスキもある時期からずっと年齢が止まっていて「さらに老いる」ことをやめた人のような気がする。初めて見た時から外見がほとんど変わらない。有名な前奏曲を聴きながら、ヤノフスキの背中を見て「このマエストロはどんな子供時代を送ったのだろう」と想像した。日常で使う小さな心が、遥か彼方にある「巨大でとんでもないもの」に頻繁に引き付けられて、尋常ではない夢、想像、インスピレーションに揉まれて育った人ではないのか。龍を退治する大天使ミカエルのようにそれらの魑魅魍魎をやっつけようとして、いつの間にか魅了されて、心が「あの世とこの世」を生きながらにして往来することを可能にしたのかも知れない。そうした人は、この世で起こることがあまりに平凡なので、普段から平然とした表情をまとうことになる。

N響の合奏が素晴らしく、先日の新国の都響とどう違うのかうまく表現できないが、どちらも素晴らしいけれど、こちらは演奏会形式で聴くワーグナーの醍醐味を存分に味わった。コンサートマスターは初めて見る人(ベンジャミン・ボウマン)で、マエストロも全面的に信頼を寄せている様子。ヤノフスキ自身が「演出は不要」と、演奏会形式のオペラのみを振るポリシーを貫いてきた人だから(現在もそうであるかは分からない)、このスタイルが完璧に聴こえるのも自然なことだ。大胆な加速や、嵐のように駆け抜けるパッセージに何度も驚かされたが、N響は怖気づかずについていく。

ステージに二人の金髪の女性。二人とも素敵な衣装を纏っているので最初どちらがイゾルデでどちらがブランゲーネなのか迷ったが、眉間に皺寄せて怖い顔をしているほうがイゾルデなのは明白だった。ビルギッテ・クリステンセンは一幕のほとんどをこの表情で歌い、トリスタンへの憎しみでいっぱいの振動体として舞台に存在していた。このアプローチで、「媚薬」の意味が新しく感じられた。イゾルデは母から授かった超常的な医学の技術と、誇り高い血族の末裔としてのプライドでぱんぱんになっている。イゾルデ歌手がトゥーランドット歌手であることは珍しくないが、これらのヒロインは自意識の面で非常に似ているのだ。対するトリスタンは、マルケ王への従属だけがアイデンティティの拠り所で、婚約者を殺されたイゾルデにとっては見下すべきみすぼらしい男である(惹かれてはいるが)。一幕のイゾルデの怒りは恩着せがましく、「殺せたけど助けてやったのに!」と理屈で相手を羽交い絞めにする。まったく可愛げのない女性なのだ。

それが媚薬の効果で、うっとりとした優しい女性になってしまう。媚薬の場面のオーケストラが震撼もので、いかにこの妙薬が現実離れした魔法をもたらすか、木管やハープのマジカルな響きが饒舌に表現していた。そこからイゾルデの顔が全く別人になったのだ。1幕でのイゾルデの「怒り」がこれほど極端でないと、媚薬の場面も鮮烈にはならない。彼女は「正論」とは別の境地=愛に生きる道へ運ばれてしまう。1幕のラストで歌わないマルケ王(フランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ)が舞台に現れ、一瞬緊張感を醸し出したのが良かった。

トリスタン役のスチュアート・スケルトンは身体が大きなテノール歌手で、イゾルデが芝居に寄せたコスチュームなのに対し三つ揃いのネクタイ姿だったのが少しばかり興ざめだったが、後半から声楽的にどんどん冴えていき、特に三幕は引き込まれた。二幕では、媚薬によって痴れた男女がひたすらお互いを讃え合う。それを見守るブランゲーネが、二階のR席から「お気をつけて…」と歌い出すのが感動的。ルクサンドラ・ドノーセのブランゲーネは優しく、この役の魅力を際立ててみせた。ブランゲーネは時折弁者のような役割も負う。

「トリスタンとイゾルデ」は演奏によってこんなにも印象が異なるのか。ヤノフスキはこの作品こそ演奏会形式にふさわしいと確信していたと思う。二幕終わりでトリスタンの歌手が指揮台によって遮られていたイゾルデと手をつなごうとしたとき、指揮者は狡猾な猫のようにシュッと爪を立ててテノールを制止し、心を溶け合わせたイゾルデと離れ離れに舞台を去るトリスタンがとても残念そうだった。多くの演出では二人は二幕でベタベタになる。抱き合ったり頬を寄せあったりするのだが、それはそれでしかない。それとは違う、もっと深淵な魂の病がトリスタンとイゾルデの絆の正体なのだ。

今まで「トリスタンとイゾルデ」の歌詞の何を見てきたのか、自分の目は本当に節穴だと思った。3幕で傷を負ったトリスタンは、朦朧とした意識の中でさまよえる自分の身の置き所のなさについて語り出す。「母は私を産んで死に、父は私を宿して死に」自分のさだめがわからぬ、と苦悩する。これはジークムントとジークリンデの間に生まれたジークフリートではないか。イゾルデはトリスタンの浮遊する人生に碇を下ろしてくれた。オランダ人が希求した乙女ゼンタそのものだ。官能という罪に与えられた罰のように、血がこんこんと流れ続ける…クンドリに愚弄(?)された「パルジファル」のアムフォルタスと同じである。ワーグナーはこのようにして、物語の男たちに自分の不安と焦燥を重ね合わせた。トリスタンは古代伝説の主人公である前に、ワーグナーの分身であった。芝居は少なかったが、スチュアート・スケルトンがこの場面も滔々と溢れるような悲劇的美声で歌い上げた。

「トリスタンとイゾルデ」は媚薬や不倫の物語である以前に、元々傷ついた存在である「引き裂かれたY染色体」の苦痛の物語なのかも知れない。自然界の雄大さ、激変する心理、精神と肉体の苦痛、酩酊、悔恨、といった要素が、歌手たちの歌以上にオーケストラ譜に書かれている。ワーグナーが交響曲を放擲し、楽劇に全霊を捧げた理由が理解できた。男女のあれこれという陳腐な次元に引きずり降ろさず、あくまでワーグナーの音楽全体を透視したヤノフスキには、尊敬の念を抱かずにはいられない。クルヴェナールのマルクス・アイヒェは今回も冴えていて、スーパースターのオーラだった。マルケ王のゼーリヒも素晴らしかった。男性歌手陣は皆黒の正装で、女性歌手たちは演劇的な衣装だったことで視覚的には世界が二つに割れてしまったが、男性のコスチュームに折衷的なものが少ない現実が問題なのかも知れない。メロート甲斐栄次郎さん、牧童大槻孝志さん、舵取り髙橋洋介さん、東京オペラシンガーズの誠実な歌唱にも感謝を捧げたい。
ヤノフスキとN響は『トリスタンとイゾルデ』のあと一回の上演の後、4/7には『ニーベルングの指輪』ガラ・コンサートも上演する。マルクス・アイヒェはヴォータンを歌う。こんな凄い音楽祭があっていいのだろうか…。改めてこの春の東京にいられることを幸せに思えた。


カーテンコールでのヤノフスキ氏とイゾルデ役のクリステンセン











新国立劇場『エウゲニ・オネーギン』(1/24)

2024-01-31 01:18:22 | オペラ
新国立劇場で上演中の『エウゲニ・オネーギン』の初日を鑑賞。最近の新国の客層は若い女性や学生のカップルが多く、この日もいつものオペラファンとは違う雰囲気の人々で客席が埋まっていた。ドミトリー・べルトマンの演出はコロナ前の2019年が初演だから、5年ぶりの再演となり、時の経つ速さに驚く。明快な演出で、つねに舞台の中央に設置される円柱風(実際は円柱ではない)の4本(三幕では8本)の柱が印象的。冒頭の女性たちの重唱は、田舎の安穏とした暮らしが、もはや倦怠を超えて憂鬱の域に達していることを、ノスタルジックな旋律で表していく。タチヤーナをロシアのベテランソプラノ、エカテリーナ・シウリーナが演じ、妹オリガを同じくロシア出身のアンナ・ゴリャチョーワが演じ、姉妹の母ラーリナを郷家暁子さん、乳母のフィリッピエヴナを橋爪ゆかさんが演じた。

まだかなり若く見える指揮者、ヴァレンティン・ウリューピンが東響から神妙で重層的なサウンドを引き出していて、チャイコフスキーの書く旋律はなぜここまで憂いに満ちて美しいのか感傷に浸った。機微を感じさせる合奏で、デリケートな色彩感があり、確かにロシアの情景が見えてくるようだった。

オネーギンは長身でハンサムなバリトン、ユーリ・ユルチュクが登場の場面から素敵で、この役に理想的な雰囲気をまとっていた。厭世的でプライドが高くすべてに退屈している若者で、タチヤーナとはお互いに似たもの同士の気配を感じる。タチヤーナはすぐにふられてしまうのだが、出会いの場面では相思相愛に見えるし、オネーギンも積極的にタチヤーナと二人の時間を作ろうとする。これではタチヤーナも「脈アリ」と思っても仕方がない。
新国初登場のゲスト歌手たちは粒ぞろいで、レンスキー役のテノール、ヴィクトル・アンティペンコが存在感のある美声で聴衆をあっと言わせた。フランスオペラの重い役…ウェルテルやファウストやホフマンを歌っても素晴らしいはず。オリガ役はこの演出では衣装とヘアメイクが気の毒(!)だが、アンナ・ゴリャチョーワが深いメゾの声で(思いのほか深い声質)姉との性格の違いを表現した。

タチヤーナがオネーギンに手紙を書く場面は、心臓が破けそうだった。何度見ても崩れ落ちそうになるシーンで、原作では恋文というより「同志宣言」のような勇ましい内容だったと思うが、オペラでは恋する女性の告白そのもので、初恋でありながら、同時に性的にも激しい衝動が生まれていることを吐露している。精神的な愛が官能的な愛に直結していることを、内気な文学少女のタチヤーナはオネーギンとの出会いで一気に理解してしまう。

オネーギンの理路整然とした拒絶は残酷で、ユルチュクはこの場面が一番魅力的だった。
チャイコフスキーのオペラは見事に鏡像的で、3幕でオネーギンの手紙を破棄する人妻タチヤーナもそうだが、その間にレンスキーの死があり、そこが折り目になって最初と最後が鏡合わせになる。オネーギンとの決闘で儚く散るレンスキーは、タチヤーナの身代わりであるように思えて仕方なかった。同じ挑発と裏切りに対して、女は泣くだけだが男は殺し合いを申し出る。死を意識したレンスキーの絶唱は真のハイライトで、テノールのアンティペンコが魂を尽くした熱唱を聴かせた。

オネーギンの話は有閑階級の戯言、という解釈もある。プーシキンの原作は読みづらく、いつも途中で挫折するが、確かに差し迫った貧困や戦争といったものからは隔絶された上流社会のあれこれが描かれている。
タチヤーナの傷つきやすさに、年をとってますます同情する自分が可笑しかった。断崖絶壁に立たされて、「この想いは妄想だろうか、現実となるだろうか」と祈る。生と死の境目を彷徨って書いた手紙を馬鹿にされ、玉突き事故のように事態は極端に悪い方へ転がっていく。
思うのは、タチヤーナの恋はただの恋ではなく、生まれて初めて出会った分身への愛であり、生きていることの証を相手から得たいという渇望だったということで、甚だこの世的ではない。オネーギンとタチヤーナは磁石のマイナス同士で、似すぎているのだ。

三幕で少ししか歌わないグレーミン公爵は「歌い得」としか言いようがないいい役で、バスのアレクサンドル・ツィムバリュクがロシアの地熱を思わせる低音で若妻タチヤーナへの愛を歌って大喝采を得た。
今更なぜオネーギンが人妻になったタチヤーナを追いかけるのか、特に女性はこの心理を由々しく不可解に思うことが多い。他人のものになって悔しいから。過ぎ去った青春の象徴だから。クランコ振付のバレエ『オネーギン』を見たときも、毎回色々なことを考える。
チャイコフスキーは男の心も女の心も持っていたと思うが、オネーギンの男の心がここで露になる。「同じ女が見違える姿になった」ことが、性的な好奇心を刺激したのだ。タチヤーナの拒絶の理由についても、いくつもの解釈がある。オネーギンの残酷さ、移り気に対する報復である以上に、この一連の出来事の中に一人の人間の死があったことが重要だと思った。
レンスキーの愚直さはタチヤーナの愚直さであり、レンスキーはタチヤーナの身代わりとなって死んだ。
それでもラストシーンで心が裂けそうになるのは、この男女の愛が同類の魂との因縁で、タイミングの悪さによって成就せず、何かが来世に持ち越されているからだ。

タチヤーナ役のシウリーナの声はどこまでも透明で純粋で、声楽的に体裁をまうまく保とうなんてしなくても、ドラマに身を委ねれば素晴らしい歌になることを証明していた。道化的なトリケを歌った升島唯博さんは美声で演技も素晴らしく、本来ヒロイン役が似合う郷家暁子さんは若い男に目がない母親役をコミカルに演じ、橋爪ゆかさんも老け役のフィリッピエヴナを温かく演じた。稽古場はどのような雰囲気だったのだろう。この難しい時代に、ロシア出身の歌手(シウリーナ、アンティペンコ、ゴリャチョーワ)とウクライナ出身の歌手(ユルチュク、ツィムバリュク)が同じ舞台に立っていた。日本の劇場でそれが実現することが、何より平和の証だった。


Ⓒterashi masahiko