ロッテ・デ・ベア演出、二期会『ドン・カルロ』(シュツットガルト州立歌劇場との提携公演)の初日。カーテンコール時に凄まじいブーイングが起こり、日本で上演されたオペラで(恐らく)最も過激なブーがホールに響き渡ったことでも記憶に残る公演となった。演出家に対する非難であったのだが、すぐ側でブーイングしている客を睨みつけながら、自分はこのプロダクションが最も優れたもののひとつであると確信していた。型破りなようでいて、中途半端な演劇的知性では届かない、ある「人間性の本質」に到達しているという感触があったからだ。
過去にライヴで観たドン・カルロで記憶に残っているのは、2011年のMETの来日公演(ジョン・デクスター演出 ファビオ・ルイージ指揮)、2016年マリインスキー歌劇場来日公演(ジョルジオ・バルビエロ・コルセッティ演出 ワレリー・ゲルギエフ指揮)、2013年に二期会で上演されたデイヴィッド・マクヴィカー演出・ガブリエーレ・フェッロ指揮のプロダクションも鮮明に覚えている(こちらは稽古から見学していたため)。2023年の上演では、ヴェルディのこの4時間半近いオペラが、オーケストラ・ソロ・合唱ともに名旋律のオンパレードであることを改めて実感した。聴きどころが多く、音楽の流れにも強烈なグルーヴがあるため、長丁場でもそれほど疲労感を感じない。
ロッテ・デ・ベアの演出では、オペラの芯にある性的な情熱と、とことん腐敗した宗教的支配、暴力が子細に描かれる。
ドン・カルロが婚約者エリザベッタと出会うフォンテーヌ・ブローのシーンからエロティックな暗示が提示され、森の中に設置されたダブルベッドで、お互いの中に永遠の愛を読み取った若い男女が官能を貪ろうとする。エリザベッタが慌てて身体に巻いた白いシーツが、そのまま老いたフィリッポの花嫁衣裳にすりかわる。この描写は、その後の引き裂かれた男女の心の傷を印象づける暗示となり、同じベッドが後半にも登場するが、こちらではフィリッポとエボリが不義の愛で睦み合う。
フィリッポⅡ世のフィギュアの作り方が完璧すぎて、いつも素敵なジョン・ハオが、女性の最も嫌悪するタイプの初老男性に変身していたのが凄かった。頭髪は枯れ、容色は衰えつつも男性機能はまだあり、エゴイストで支配的で、加齢臭が漂ってきそうな風貌をしている。フィリッポは現世における生殺与奪の神で、息子に対しても容赦なく権力を揮う。そんな男を裏で支配する宗教裁判長が、グロテスクの限りを尽くしいてた。フィリッポと宗教裁判長の長い接吻シーンは衝撃的で、ここから最後までこのオペラにおける宗教裁判長の存在感が月並みでなかった。
ところで、二期会の『ドン・カルロ』の上演の1か月前に引っ越し公演を行ったローマ歌劇場のゲネプロと本公演を鑑賞して、スタティックで伝統的な演出の良さというものを個人的に強く感じていた。具象絵画の良さをしみじみと味わい、イタリア・オペラのあり方のひとつの完成形を認めたのだが、全く正反対のアプローチである二期会の公演に嫌悪感を感じることは全くなかった。コンヴィチュニー、グルーバー、ミキエレット、『魔笛』『パルジファル』での宮本亞門さんなど、レジーテアター的な演出を採用している二期会の攻めの姿勢には、一筋縄ではいかないプライドを感じる。「ヴェルディは神である」という視点も正しく「ヴェルディはマッチョ主義で、女性の本質を見落としている」という視点もまた正しい。後者においては、オペラの既成の枠組みを超えた人間的洞察が介入する。ロッテ・デ・ベアの冒険は徹底していた。
4幕から5幕にかけて、エリザベッタの孤独は深刻なものになり、フィリッポを拒絶しながらも、カルロへの愛も諦観へと化石化していく。エリザベッタは芯の強い女性で、カルロを愛しながらも肖像の中の彼になぐさめを求め、現実ではどうしようもないことを宿命として受け入れる。5幕のエリザベッタの至高のアリアは彼女の愛そのものだが、それを舞台下手で聴いているカルロは酔いどれたような態度で、やけくその拍手で嘲笑する。ブーイングの多くはこのカルロの所作によるものではなかったかと想像するが、樋口達哉さんのカルロが、『ホフマン物語』の絶望の淵にあるホフマンに見えて、これは明らかに名場面だと思った。愛の成就を諦めたエリザベッタと、諦められないカルロは、物語の設定の通り「母と息子」なのであり、それに続く歌詞の字幕を見て、演出家は天才以外の何者でもないと確信した。
この演出が空恐ろしいのは、登場人物の性格づけが正確で、それぞれの個性がステレオの音量のつまみのように「強」に回されている。それだけで、様々なことがいよいよ破壊的になり、愛とエロスの本質が露骨になり、見る人によってはある種の拒絶反応を引き起こされる。愛=官能であり、肉体を持って現世を生きる者にとって、それを引き裂かれることは死と同じ意味をもつ。カルロの苦悩の本質は性欲と引き離すことが出来ず(ウェルテル、ホフマンと同様)、エリザベッタの苦痛はフィリッポへの性的嫌悪によって拡大される。
「モダンとは何か」という闘いに挑んでいる演出で、オペラという「神聖世界」にも破壊と再生が必須であることを伝えてきた。ラストシーンは特に、ショッキングで挑発的だった(死ぬべき人物が死なない)。撮影スタッフから「舞台が暗い」という苦情も聞いたが、一階席で見る限り繊細な照明デザインがなされていいて、ドラマに集中することを助けてくれた。劇中で歌手たちが行うアクションは、稽古場でケガ人が出ても不思議ではないと思われるほど激しく、振付のラン・アーサー・ブラウンが指導を行った。この振付家は自身も演出を手掛ける人物だという。
若手指揮者のレオナルド・シーニは演出のドラマ作りに協力的な指揮で、東京フィルから重層的なサウンドを引き出していた。10年前にインタビューしたダニエーレ・ルスティオーニは「自分が出世したら、わけのわからない演出家を全員クビにしたい」と冗談交じりに語っていたが、さらに若い世代の指揮者であるシーニは別の考えを持っているのかも知れない。ピットから溢れ出す音楽の力が強靭だった。
歌手陣はパーフェクトで、二期会のスターであるカルロ役の樋口達哉さんのタフな演技、神聖でスケールの大きなエリザベッタを演じた竹田倫子さん、悪役の毒が徹底していたフィリッポⅡ世役のジョン・ハオさん、そして劇中唯一英雄的なロドリーゴを輝かしく歌った小林啓倫さんが素晴らしかった。小林さんは日本のオペラの至宝である。10年前にエボリを演じた清水華澄さんも素晴らしく、10年前より妖艶にこの役を演じていたのに驚かされた。二期会合唱団はある意味このオペラの主役でもあり、霊力のある合唱には、ヴェルディが描こうとした「目に見えぬものの威力」が確かに感じられた。
過去にライヴで観たドン・カルロで記憶に残っているのは、2011年のMETの来日公演(ジョン・デクスター演出 ファビオ・ルイージ指揮)、2016年マリインスキー歌劇場来日公演(ジョルジオ・バルビエロ・コルセッティ演出 ワレリー・ゲルギエフ指揮)、2013年に二期会で上演されたデイヴィッド・マクヴィカー演出・ガブリエーレ・フェッロ指揮のプロダクションも鮮明に覚えている(こちらは稽古から見学していたため)。2023年の上演では、ヴェルディのこの4時間半近いオペラが、オーケストラ・ソロ・合唱ともに名旋律のオンパレードであることを改めて実感した。聴きどころが多く、音楽の流れにも強烈なグルーヴがあるため、長丁場でもそれほど疲労感を感じない。
ロッテ・デ・ベアの演出では、オペラの芯にある性的な情熱と、とことん腐敗した宗教的支配、暴力が子細に描かれる。
ドン・カルロが婚約者エリザベッタと出会うフォンテーヌ・ブローのシーンからエロティックな暗示が提示され、森の中に設置されたダブルベッドで、お互いの中に永遠の愛を読み取った若い男女が官能を貪ろうとする。エリザベッタが慌てて身体に巻いた白いシーツが、そのまま老いたフィリッポの花嫁衣裳にすりかわる。この描写は、その後の引き裂かれた男女の心の傷を印象づける暗示となり、同じベッドが後半にも登場するが、こちらではフィリッポとエボリが不義の愛で睦み合う。
フィリッポⅡ世のフィギュアの作り方が完璧すぎて、いつも素敵なジョン・ハオが、女性の最も嫌悪するタイプの初老男性に変身していたのが凄かった。頭髪は枯れ、容色は衰えつつも男性機能はまだあり、エゴイストで支配的で、加齢臭が漂ってきそうな風貌をしている。フィリッポは現世における生殺与奪の神で、息子に対しても容赦なく権力を揮う。そんな男を裏で支配する宗教裁判長が、グロテスクの限りを尽くしいてた。フィリッポと宗教裁判長の長い接吻シーンは衝撃的で、ここから最後までこのオペラにおける宗教裁判長の存在感が月並みでなかった。
ところで、二期会の『ドン・カルロ』の上演の1か月前に引っ越し公演を行ったローマ歌劇場のゲネプロと本公演を鑑賞して、スタティックで伝統的な演出の良さというものを個人的に強く感じていた。具象絵画の良さをしみじみと味わい、イタリア・オペラのあり方のひとつの完成形を認めたのだが、全く正反対のアプローチである二期会の公演に嫌悪感を感じることは全くなかった。コンヴィチュニー、グルーバー、ミキエレット、『魔笛』『パルジファル』での宮本亞門さんなど、レジーテアター的な演出を採用している二期会の攻めの姿勢には、一筋縄ではいかないプライドを感じる。「ヴェルディは神である」という視点も正しく「ヴェルディはマッチョ主義で、女性の本質を見落としている」という視点もまた正しい。後者においては、オペラの既成の枠組みを超えた人間的洞察が介入する。ロッテ・デ・ベアの冒険は徹底していた。
4幕から5幕にかけて、エリザベッタの孤独は深刻なものになり、フィリッポを拒絶しながらも、カルロへの愛も諦観へと化石化していく。エリザベッタは芯の強い女性で、カルロを愛しながらも肖像の中の彼になぐさめを求め、現実ではどうしようもないことを宿命として受け入れる。5幕のエリザベッタの至高のアリアは彼女の愛そのものだが、それを舞台下手で聴いているカルロは酔いどれたような態度で、やけくその拍手で嘲笑する。ブーイングの多くはこのカルロの所作によるものではなかったかと想像するが、樋口達哉さんのカルロが、『ホフマン物語』の絶望の淵にあるホフマンに見えて、これは明らかに名場面だと思った。愛の成就を諦めたエリザベッタと、諦められないカルロは、物語の設定の通り「母と息子」なのであり、それに続く歌詞の字幕を見て、演出家は天才以外の何者でもないと確信した。
この演出が空恐ろしいのは、登場人物の性格づけが正確で、それぞれの個性がステレオの音量のつまみのように「強」に回されている。それだけで、様々なことがいよいよ破壊的になり、愛とエロスの本質が露骨になり、見る人によってはある種の拒絶反応を引き起こされる。愛=官能であり、肉体を持って現世を生きる者にとって、それを引き裂かれることは死と同じ意味をもつ。カルロの苦悩の本質は性欲と引き離すことが出来ず(ウェルテル、ホフマンと同様)、エリザベッタの苦痛はフィリッポへの性的嫌悪によって拡大される。
「モダンとは何か」という闘いに挑んでいる演出で、オペラという「神聖世界」にも破壊と再生が必須であることを伝えてきた。ラストシーンは特に、ショッキングで挑発的だった(死ぬべき人物が死なない)。撮影スタッフから「舞台が暗い」という苦情も聞いたが、一階席で見る限り繊細な照明デザインがなされていいて、ドラマに集中することを助けてくれた。劇中で歌手たちが行うアクションは、稽古場でケガ人が出ても不思議ではないと思われるほど激しく、振付のラン・アーサー・ブラウンが指導を行った。この振付家は自身も演出を手掛ける人物だという。
若手指揮者のレオナルド・シーニは演出のドラマ作りに協力的な指揮で、東京フィルから重層的なサウンドを引き出していた。10年前にインタビューしたダニエーレ・ルスティオーニは「自分が出世したら、わけのわからない演出家を全員クビにしたい」と冗談交じりに語っていたが、さらに若い世代の指揮者であるシーニは別の考えを持っているのかも知れない。ピットから溢れ出す音楽の力が強靭だった。
歌手陣はパーフェクトで、二期会のスターであるカルロ役の樋口達哉さんのタフな演技、神聖でスケールの大きなエリザベッタを演じた竹田倫子さん、悪役の毒が徹底していたフィリッポⅡ世役のジョン・ハオさん、そして劇中唯一英雄的なロドリーゴを輝かしく歌った小林啓倫さんが素晴らしかった。小林さんは日本のオペラの至宝である。10年前にエボリを演じた清水華澄さんも素晴らしく、10年前より妖艶にこの役を演じていたのに驚かされた。二期会合唱団はある意味このオペラの主役でもあり、霊力のある合唱には、ヴェルディが描こうとした「目に見えぬものの威力」が確かに感じられた。