小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

東京二期会『ドン・カルロ』(10/13)

2023-10-23 16:29:50 | オペラ
ロッテ・デ・ベア演出、二期会『ドン・カルロ』(シュツットガルト州立歌劇場との提携公演)の初日。カーテンコール時に凄まじいブーイングが起こり、日本で上演されたオペラで(恐らく)最も過激なブーがホールに響き渡ったことでも記憶に残る公演となった。演出家に対する非難であったのだが、すぐ側でブーイングしている客を睨みつけながら、自分はこのプロダクションが最も優れたもののひとつであると確信していた。型破りなようでいて、中途半端な演劇的知性では届かない、ある「人間性の本質」に到達しているという感触があったからだ。

過去にライヴで観たドン・カルロで記憶に残っているのは、2011年のMETの来日公演(ジョン・デクスター演出 ファビオ・ルイージ指揮)、2016年マリインスキー歌劇場来日公演(ジョルジオ・バルビエロ・コルセッティ演出 ワレリー・ゲルギエフ指揮)、2013年に二期会で上演されたデイヴィッド・マクヴィカー演出・ガブリエーレ・フェッロ指揮のプロダクションも鮮明に覚えている(こちらは稽古から見学していたため)。2023年の上演では、ヴェルディのこの4時間半近いオペラが、オーケストラ・ソロ・合唱ともに名旋律のオンパレードであることを改めて実感した。聴きどころが多く、音楽の流れにも強烈なグルーヴがあるため、長丁場でもそれほど疲労感を感じない。

ロッテ・デ・ベアの演出では、オペラの芯にある性的な情熱と、とことん腐敗した宗教的支配、暴力が子細に描かれる。
ドン・カルロが婚約者エリザベッタと出会うフォンテーヌ・ブローのシーンからエロティックな暗示が提示され、森の中に設置されたダブルベッドで、お互いの中に永遠の愛を読み取った若い男女が官能を貪ろうとする。エリザベッタが慌てて身体に巻いた白いシーツが、そのまま老いたフィリッポの花嫁衣裳にすりかわる。この描写は、その後の引き裂かれた男女の心の傷を印象づける暗示となり、同じベッドが後半にも登場するが、こちらではフィリッポとエボリが不義の愛で睦み合う。

フィリッポⅡ世のフィギュアの作り方が完璧すぎて、いつも素敵なジョン・ハオが、女性の最も嫌悪するタイプの初老男性に変身していたのが凄かった。頭髪は枯れ、容色は衰えつつも男性機能はまだあり、エゴイストで支配的で、加齢臭が漂ってきそうな風貌をしている。フィリッポは現世における生殺与奪の神で、息子に対しても容赦なく権力を揮う。そんな男を裏で支配する宗教裁判長が、グロテスクの限りを尽くしいてた。フィリッポと宗教裁判長の長い接吻シーンは衝撃的で、ここから最後までこのオペラにおける宗教裁判長の存在感が月並みでなかった。

ところで、二期会の『ドン・カルロ』の上演の1か月前に引っ越し公演を行ったローマ歌劇場のゲネプロと本公演を鑑賞して、スタティックで伝統的な演出の良さというものを個人的に強く感じていた。具象絵画の良さをしみじみと味わい、イタリア・オペラのあり方のひとつの完成形を認めたのだが、全く正反対のアプローチである二期会の公演に嫌悪感を感じることは全くなかった。コンヴィチュニー、グルーバー、ミキエレット、『魔笛』『パルジファル』での宮本亞門さんなど、レジーテアター的な演出を採用している二期会の攻めの姿勢には、一筋縄ではいかないプライドを感じる。「ヴェルディは神である」という視点も正しく「ヴェルディはマッチョ主義で、女性の本質を見落としている」という視点もまた正しい。後者においては、オペラの既成の枠組みを超えた人間的洞察が介入する。ロッテ・デ・ベアの冒険は徹底していた。

4幕から5幕にかけて、エリザベッタの孤独は深刻なものになり、フィリッポを拒絶しながらも、カルロへの愛も諦観へと化石化していく。エリザベッタは芯の強い女性で、カルロを愛しながらも肖像の中の彼になぐさめを求め、現実ではどうしようもないことを宿命として受け入れる。5幕のエリザベッタの至高のアリアは彼女の愛そのものだが、それを舞台下手で聴いているカルロは酔いどれたような態度で、やけくその拍手で嘲笑する。ブーイングの多くはこのカルロの所作によるものではなかったかと想像するが、樋口達哉さんのカルロが、『ホフマン物語』の絶望の淵にあるホフマンに見えて、これは明らかに名場面だと思った。愛の成就を諦めたエリザベッタと、諦められないカルロは、物語の設定の通り「母と息子」なのであり、それに続く歌詞の字幕を見て、演出家は天才以外の何者でもないと確信した。

この演出が空恐ろしいのは、登場人物の性格づけが正確で、それぞれの個性がステレオの音量のつまみのように「強」に回されている。それだけで、様々なことがいよいよ破壊的になり、愛とエロスの本質が露骨になり、見る人によってはある種の拒絶反応を引き起こされる。愛=官能であり、肉体を持って現世を生きる者にとって、それを引き裂かれることは死と同じ意味をもつ。カルロの苦悩の本質は性欲と引き離すことが出来ず(ウェルテル、ホフマンと同様)、エリザベッタの苦痛はフィリッポへの性的嫌悪によって拡大される。
「モダンとは何か」という闘いに挑んでいる演出で、オペラという「神聖世界」にも破壊と再生が必須であることを伝えてきた。ラストシーンは特に、ショッキングで挑発的だった(死ぬべき人物が死なない)。撮影スタッフから「舞台が暗い」という苦情も聞いたが、一階席で見る限り繊細な照明デザインがなされていいて、ドラマに集中することを助けてくれた。劇中で歌手たちが行うアクションは、稽古場でケガ人が出ても不思議ではないと思われるほど激しく、振付のラン・アーサー・ブラウンが指導を行った。この振付家は自身も演出を手掛ける人物だという。

若手指揮者のレオナルド・シーニは演出のドラマ作りに協力的な指揮で、東京フィルから重層的なサウンドを引き出していた。10年前にインタビューしたダニエーレ・ルスティオーニは「自分が出世したら、わけのわからない演出家を全員クビにしたい」と冗談交じりに語っていたが、さらに若い世代の指揮者であるシーニは別の考えを持っているのかも知れない。ピットから溢れ出す音楽の力が強靭だった。
歌手陣はパーフェクトで、二期会のスターであるカルロ役の樋口達哉さんのタフな演技、神聖でスケールの大きなエリザベッタを演じた竹田倫子さん、悪役の毒が徹底していたフィリッポⅡ世役のジョン・ハオさん、そして劇中唯一英雄的なロドリーゴを輝かしく歌った小林啓倫さんが素晴らしかった。小林さんは日本のオペラの至宝である。10年前にエボリを演じた清水華澄さんも素晴らしく、10年前より妖艶にこの役を演じていたのに驚かされた。二期会合唱団はある意味このオペラの主役でもあり、霊力のある合唱には、ヴェルディが描こうとした「目に見えぬものの威力」が確かに感じられた。




新国立劇場『ラ・ボエーム』(6/30)

2023-07-01 06:01:10 | オペラ
新国ボエームの6/30公演を鑑賞。2003年の初演から7回目となる粟國淳さん演出の再演で、新演出ではないが芸術監督の大野さんが振るということで、何かが起こるのではないかと予想していた。これは本当に、奇跡の公演だった。オーケストラは東京フィル。

ロドルフォが登場したとき「テノールには珍しく背が高いこの美声の歌手は誰なんだ」とびっくりしたが、2019年の新国バタフライでピンカートンを歌ったスティーヴン・コステロで、ピンカートンはほとんど印象に残っていない。4年の間に何が起こったのか。歌手として急成長した? ホールの空間の隅々まで行き渡る丁寧な歌唱で、めざましい艶やかさがあり、その裏側には忍耐強さも感じられた。
ミミはイタリア人ソプラノのアレッサンドラ・マリアネッリ。2011年のボローニャ歌劇場の『カルメン』でミカエラを歌う予定だったが叶わず、今回が初来日となった歌手で、一声を聴いた途端大好きになった。上品で優しさがあり、神秘性と、豊かな母性のようなものも感じられる。ミミは登場の瞬間からもう死を感じさせる演技だが、声は「まだまだ生きたい。母にもなってみたい。世界の大きな広がりを感じてみたい」と訴えてくる。

ロドルフォの『冷たい手を』とミミの『私の名はミミ』は、やはりどう考えても重要なアリアで、先日のパレルモ・マッシモ劇場ではゲオルギューのミミが苦しそうだったので最後まで案じてしまったが、歌手はここで聴かせてくれなくては困る。コステロはとても緊張していたが、渾身の力を振り絞って響かせたハイCには胸に突き刺さるものがあった。続くマリアネッリのミミの自己紹介で、二人の歌手の相性の良さを実感した。アパートのドアを開けたら、女神のような女性が立っていた、という物語である。そんな女神を見つけたら、自分ならどう思うだろう? 男女は一目で恋に落ちるが、それは二人がそっくりの魂を持っている似た者同士で、同時にお互いの中に神を見つけてしまったからだ。歌手の性格的な繊細さも似通っていたが、それも「演技」であったら、それはそれで凄い。

二つのアリアを振る大野さんの激しい棒がピットから見えた。ロドルフォと一体化し、ミミと一体化し、完全に歌手と同化している指揮者のエネルギーに驚嘆した。

粟國演出は卓越している。カフェモミュスの賑やかなクリスマスのシーンでは、「飛び出す絵本」のように折りたたまさった街が左右から手品のごとく押し寄せる。オペラでは森が動くこともあるのだから、街が動いても不思議はない。でも、そんなことをやる演出家は粟國さんしかいない。2幕はムゼッタのための幕で、着飾った彼女はアルチンドロとともに豪華なオープンカーで登場する。ロラン・ペリー演出の『連隊の娘』で大きな戦車が登場したときのようにびっくりした。プッチーニといえばオープンカー(スピード狂で大怪我もした)。ヴァレンティーナ・マストランジェロがムゼッタを華やかに歌い、オケの美麗さも極みに達した。マストランジェロは凄い余裕で、高飛車な歌から宝石のようなユーモアセンスが飛び散った。

『ラ・ボエーム』は尺が短いから見やすいオペラ、という紹介のされ方をすることがあるが、短くても退屈をするときは退屈する。『パルジファル』や『マイスタージンガー』も面白いものはあっという間に終わる。このボエームは一秒も退屈しなかった。人物描写が一人一人緻密であることと、オーケストラの響きと呼吸が尋常でないこと、歌手たち自身が舞台にいることに陶酔しているのが素晴らしい。3幕のアンフェール関門の場面では、離れがたいミミとロドルフォの心の寂しさが悲しかった。

4幕でミミ失うロドルフォの演技は本物で、ひととき二人切りになったときのロドルフォが、耳まで赤くして泣き崩れる姿を見て「こんなロドルフォはここにしかいない」と号泣してしまった。ボエームで泣く評論家はズブの素人だが、コステロの心境を思うとたまらなくなった。今回の彼の歌唱の素晴らしさは、歌手自身が自分の奥底に眠る巨大な可能性を見つけてしまった証拠で、そこまで歌手を昂揚させるのは演出と指揮の力に他ならない。

『ラ・ボエーム』はロドルフォ=プッチーニの物語で、ミミは幻影のような少し遠い存在であっていい。そのような確固としたプロポーションのようなものを、演出家は作ることが出来る。新制作でないこの作品を大野さんが振ったのには、やはり理由があった。

カルチェラタンのシーンでは新国立劇場合唱団がいつも以上に素晴らしく、TOKYO FM少年合唱団の少年たちはテーブルを運んだり細かい演技をこなしたり、大活躍だった。大変な準備をして本番に臨んだと思う。芸術家の卵たち、ショナール駒田敏章さん、コッリーネのフランチェスコ・レオーネ、マルチェッロ須藤慎吾さんも頼りがいがあり、ミミの死をロドルフォとともに受け止める須藤さんの凄い演技にくらくらした。稽古場でも、須藤さんは大きなものを引き受けていたのではないかと思う。

良質なプロダクションは歌手たちを急成長させるが、極上の経験の後では、それに満たないプロダクションに取り組まなければならないとき、苦痛も感じるのではないか…と要らぬ心配もしてしまった。あと三回、この凄いボエームを歌手たちに楽しんで欲しいと思う。



パレルモ・マッシモ劇場『ラ・ボエーム』(6/15)

2023-06-18 06:34:48 | オペラ
2020年の来日予定が延期に次ぐ延期を経ての実現。海外オペラの引っ越し公演が再び東京に戻ってきた。3年前のチケットをそのまま握りしめて東京文化会館に来た人も少なくないという。『ナブッコ』から『ボエーム』に演目は変更され、主役のミミはアンジェラ・ゲオルギュー、ロドルフォはヴィットリオ・グリゴーロというスターの共演が実現した。

開演前から、がやがや練習するオケの音に「イタリア人だなぁ」と笑いがこぼれる。おしゃべりで自由で、それぞれ違う場面の音を出し、オペラと関係ない旋律まで聴こえてくる。指揮者のフランチェスコ・イヴァン・チャンパがピットに入ると、勢いのいいサウンドがはじけ出した。マルチェッロ役のフランチェスコ・ヴルタッジョに続いて、ロドルフォ役のグリゴーロが歌い出すと、一気に明かりがついたような感じになった。冬の寒い空気に晒されたパリの屋根裏部屋に、次々と若者たちが帰ってくる。演劇面ではグリゴーロがグイグイ引っ張っていた。

一幕ですぐにロドルフォとミミは重要なアリアを歌わなければならないが、「冷たい手を」も「私の名はミミ」もかなりスローテンポな指揮で、解釈としては理念を尊重したいが、歌手の生理にあっているのか少し心配になった。オペラで指揮だけが際立つというのはいいのか悪いのか、パッパーノなら完全に裏方に隠れる。グリゴーロは指揮者のテンポを尊重し、粘り強く歌いハイCも見事だった。ゲオルギューのほうが心配で、音が上がり切らなかったところもあったが、呼吸感に沿うもう少し早めの伴奏だったら完璧に歌えたかも。初日の一幕だから、緊張していたのかも知れない。

転換をした二幕のカフェ・モミュスの場面はこの劇場版も賑やか。ムゼッタのジェッシカ・ヌッチオが大活躍の場面だが、品が良すぎて、ミミとコントラストをつけてもう少しケバケバしい演技でもいいのではないかと思った。演出家が歌手につけている芝居は全体的に薄目で、グリゴーロは全体の薄さを一人で埋めようとパワー全開だった。感動的なのは、そうしたグリゴーロのあり方が確実にオペラに活気を与え、座長的なポジションを担っていたことだ。この公演でグリゴーロがどれだけひとつひとつの公演を「成就」させようとしているかが伝わってきて胸が熱くなった。

オケはどんどん良くなって、二幕目以降は文句のつけようがなかった。日本のオケなら照れてしまうような強力な歌心があり、透明感と色彩感に加えて、怖さ知らずの大胆さがある。イタリアに旅したとき「すべてがこんなに大雑把で大丈夫だろうか」と不安になりつつ、最後はすべてが面白かったことを思い出した。引っ越し公演の醍醐味で、彼らがふだん吸っている空気、劇場のアコースティックから何もかもが「違っている」ことが面白かった。

3幕のアンフェール関門の場面は、オケも歌手もすべてがパーフェクトだった。ミミとロドルフォが別れを決意しつつ、冬の間は一緒にいようと歌う場面で、ゲオルギューも見事な表現だった。ゲオルギューとネトレプコは6歳しか年が違わないが、オペラ歌手としての感性は世代がきっちり分かれていて、ゲオルギューはモダンというよりクラシカル。ネトレプコはモダンそのもの。ゲオルギューの、古き良き時代を引き継いでいる感じのヒロインが、とても良かった。グリゴーロは天才的な役者で、どんなアプローチの相手役にもぴったり合う。

3幕の後に15分間の短い休憩があり、その後に4幕が始まるはずが、なかなか開始しない。漏電でピットの照明が一部故障したとのこと。長く上野の文化会館に通っていて、こんなことは初めて。主催者は肝をつぶしかけただろう。10数分待機の時間があったが、長く感じられた。それもこれも「イタリアっぽいのかな」と思える。
幕が開くのを待機していた屋根裏部屋の若者たちが、すぐさまスイッチオンになって元気のいい歌を歌い始めたのも感動。やはり、グリゴーロが凄い。現場感覚がシャープで、寛大。ゲオルギューも、最初のアリアで凹まずに後半を見事に盛り返し、ラストの演技ではプリマドンナの誇りを見せてくれた。ゲオルギューのミミを2023年の東京で聴けるというのは、奇跡のひとつではないか。最後の最後には、ミミの海のように果てしない愛が余韻に残る。

プッチーニはやはり凄い。何度聴いてもボエームは飽きないし、オーケストラによって思いもよらなかった魅力を再発見できる。指揮のイヴァン・チャンパも結構好きになった。

この翌日には『椿姫』を鑑賞し、いよいよパレルモ・マッシモ劇場の魅力にはまった。16年前には『シチリア島の夕べの祈り』と『カヴァパリ』を聴いていたはずなのだが、すっかり記憶が薄れていた。古きを温めつつ、健全な新陳代謝も行われているのだろう。そして何より、引っ越し公演は本当にいいものだと思った。世の中がいくら便利になっても、時代錯誤と呼ばれずにこの貴重なイベントは生き残って欲しい。





新国立劇場『サロメ』(5/30)

2023-05-31 16:11:48 | オペラ
新国『サロメ』はアウグスト・エファーディング(1928-1999)演出の7回目の再演。2000年の初演から続いている同演出を観たのは2016年3月、7年前になる。同時期にヴォータンも演じたグリア・グリムスレイのかっこよすぎるヨハナーンにクラクラした記憶があるが、装置やディティールに関してはかなり曖昧にしか覚えていなかった。ヘロデ王の宴が催されているのはニンニクのような(!)形状の屋根の下に張られたテント状の空間で、ヘロディアスを侮辱したヨハナーンは大きなマンホール(?)の下に監禁されている。コサック兵のような装束の兵士と、その脇には機動隊のような兵士たちが構えており、視覚的に古代と現代の時間がミックスしたような感覚。一時期のベジャール・バレエを思い出した。

サロメ役のアレックス・ペンダ(アレクサンドリーナ・ペンダチャンスカ)は可憐で小柄、ノットと東響との『パルジファル』ハイライトで聴いたときはもっと大柄な印象があったが、プロの舞台人はオーラを切り替えることが出来るので、サロメ役では少女になり切っていたのかも知れない。華美な宮殿の中でサロメだけ黒い衣裳をつけて、まだ俗悪なものを知らない幼い修道女にも見える。歌唱は気迫に満ち、高音が厳しそうな箇所もあったが、ほとんど気にならなかった。

大きな発見は、この演出ではサロメとヨハナーンが「実は最初から心が通じ合っている」ように見えることだった。サロメの求愛に対してヨハナーンは理性を必死に保ちながら呪詛の言葉で立ち向かう。歌手によって見え方が違うのかも知れない。前回のグリア・グリムスレイは屈強だったが、今回のヨハナーンは一瞬でも気を緩ませたらサロメに呑み込まれそうな繊細さがあった。プロフィール写真ではスキンヘッドのアイスランド出身のバリトン、トマス・トマソンが黒い蓬髪の洗礼者を演じた。

サロメはヨハナーンの「龍が住む洞窟のような黒い瞳」「葡萄のような黒髪」「象牙の柱のように細くて白く美しい体躯」に一目惚れして「私は美しいお前にキスしたい」と歌う。これに対してヨハナーンは「ソドムの娘。汚らわしい淫売」とサロメを追い払う。お互いの言い分がかみ合わない、どこまでいっても平行線のやり取りを、オーケストラが全く異なる響きの音楽でアンダーラインする。サロメは陶酔し、ヨハナーンは呪う。しかしここでは裏腹なものが通底している。コンスタンティン・トリンクス指揮の東フィルが今回も奇跡的な音を奏でていた。

リヒャルト・シュトラウスは素晴らしい思想家で、どうにもならない二つのパワーの相克を、オペラの力で結末へと運んでいく。『エレクトラ』と『サロメ』をこの5月に立て続けに聴いて、作曲家は巨大な思想を残した偉人なのだと痛感した。男女は分かり合えず、理念の違うも者同士は殺し合い、どちらが悪人かも判然としない。サロメは愛を求め、ヨハナーンは信条=自己にとっての正義を貫く。ディスカッション不可能な者同士の対峙は、宗教戦争そのものだ。しかし、背き合うもの同士は、その過程でどんどん似てくるのだ。

5人のユダヤ人たちは与儀巧さん、青地英幸さん、加茂下稔さん、糸賀修平さん、畠山茂さんが演じたが、旧約聖書の登場人物であるはずが皆16世紀頃の宣教師に見える。演出家が意図したのは、かなり宗教的な含蓄のあるメッセージだと思う。「どちらが異教徒か」という現代まで続く議論が、100分のオペラの中に(恐らく)詰め込まれている。上演される土地によって、リアリティの度合いが異なるかも知れない。

サロメを淫蕩だと非難するヨハナーンは、実はサロメに魅了されている…と強く感じたのは、自分の容姿を誉めそやす少女の言い分が、初めて気づかされた自分の女性的な部分なのではないかと思われたから。お前の目が素敵、髪が豊か、肌が白くて美しい…ぞっとするほど魅了される、と迫られる。女の側が一目惚れをして、「金色のアイシャドウの下の金色の瞳で」男の自分に触れたがってくる。官能の相互作用が、微粒子のように空間に漂い始める。

リヒャルト・シュトラウスのオーケストラは、香りであり気配であり、理念の網を潜り抜けて感覚に触れてくる。嗅覚的であり触覚的であり、第六感的な魔法だ。理念という鉄骨の間から沁み出す湧水のようなもので、聴いている側は知らぬうちに催眠術にかけられる。交響詩とオペラでこの技を駆使した作曲家が、交響曲にはそれほど食指を動かされなかったのは、自らの資質を自覚していたからだろう。

ヘロデ王にヨハナーンの首をとらせるためにサロメが舞う「七つのヴェールの踊り」は、ふだん舞うことのない多くの歌手にとって大変な場面だが、最初シルエットとして、そのあとすぐに照明を浴びて踊り続けたアレックス・ペンダは魅惑的だった。昔METライブ・ビューイングでカリタ・マッティラが苦渋に満ちた表情で踊ったときは「大人の拍手」が沸き起こっていたが、相応しい振付と衣裳と照明を味方につければ、歌手にとっても遣り甲斐のあるシーンだと思う。

ヨハナーンの斬首を仄めかす弦の擦過音は恐ろしく、その後のサロメの陶酔の歌も凄味があった。10年くらい前、ピアニストのニコライ・ホジャイノフが「先日『トスカ』と『サロメ』を観たんだけど、女性って恐ろしいんだね」とインタビューで語ってくれたことを思い出した。トスカもサロメも恐ろしい女性ではなく、純真で素直なだけなのだ。ただ、愛が強すぎる。幼いサロメが抱いていたのは肉欲というよりも、「一目惚れをした魅惑的な異性との未来の夢」で、それを本人から断たれたことで、自分なりの一体化をはかった。それを別の男の肉欲によって果たすところは、老獪かも知れない。

オペラは衒学的なものではなく、それほど知識は必要ないのではないかと思わされた公演でもあった。サロメの歌詞のところどころが身につまされ、ただ生きているだけでオペラを理解するのは容易なことだと実感したそう言い。切るには、時間がかかったことも確かである。

ヘロディアスを演じたジェニファー・ラーモアはロッシーニの名手で、前回新国で演じた『イェヌーファ』のコステルニチカの葛藤のある演技も素晴らしかった。歌声も本当に素晴らしいが、舞台にいてサロメの様子をじっと見つめているだけでも存在感がある。ヘロデ王のイアン・ストーレイの威厳と滑稽の入り混じる演技も心に残る。前半でサロメのヨハナーンへの愛に失望して自害してしまうナラボート役の鈴木准さんも大きな貢献を果たしていた。
6/1 6/4にも上演される。


(プログラムの画像)
























新国立劇場『リゴレット』(5/18)

2023-05-26 16:54:13 | オペラ
新国『リゴレット』の初日(5/18)を鑑賞。全6回の公演中、既に3回上演が行われたが、時間が経つにつれこれは桁外れのプロダクションなのではないかという認識に至った。新制作の演出はエミリオ・サージによる比較的シンプルなもので、2013年のクリーゲンブルク演出の「回転しまくる大道具」の派手さとはある意味正反対な世界。人間心理の本質的な恐ろしさをジワジワ見せる知的な演出だった。
時代背景に関して大胆な読み替えが行われたり、派手な装置が登場するわけでもないノーマルな上演だったのだが、歌手たちの出来栄え、指揮者の力量、オケのレスポンスなど全ての要素が高水準で、ヴェルディ作品の真髄を浮き彫りにする奇跡的な時間となった。

冒頭のマントヴァ公の宮殿シーンでは、傾斜のある舞台で女たちが土に埋まった野菜のようにうなだれて寝そべっている。照明が当たるとそれぞれがドレスを着た女性たちであることが分かるのだが、そのうちの二人はオペラグラスで見ると女装した男性で、道化のリゴレットをからかったり誘惑したりしている。リゴレットのロベルト・フロンターリはほぼ素の本人もこんなふうなのではないかというほど自然な佇まいで、道化の衣裳も背中の詰め物も大袈裟なところがない。歌手フロンターリその人が舞台にいるという印象で、それはそれで深い演出だと思った。

マントヴァは93年生まれのペルー生まれのテノール歌手、イヴァン・アヨン・リヴァス。志の高い歌手で、最初はこの役を演じるには地味かなとも思ったが、音程も声量も完璧で、勇敢にソロの妙技を聴かせていく。性格的に物凄く真面目で一途な印象。

ジルダ役のハスミック・トロシャンは2019年の『ドン・パスクワーレ』のノリーナ役でユーモラスな美女を演じ、こんな華やかで美しいソプラノがこの世にはいるのだと驚いたが、ジルダ役ではシリアスで悲劇的で、声楽的に極限まで磨き上げている歌手であることを再認識した。ジルダは過酷なパートで、演劇的にもそうだが、小鳥のような高音を自在に操って恋する自分の心の内を表現する。リゴレットとの二重唱も内容があり、ともすれば説明的になってしまうシーンを長く感じさせることなく美しく聴かせた。

指揮のマウリツィオ・ベニーニは、恋するジルダの天にも昇るような心、命より大事な娘を拉致されたリゴレットの怒りと狼狽をドラマティックに引き出し、ピットから東フィルの神業のようなサウンドが溢れ出した。一幕とニ・三幕の間に休憩があり、二幕開始にピットに入ったときから大きな喝采があったが、無理もない。ベニーニはヴェルディに関して、リゴレットに関して抱えきれないくらい膨大なアイデアを持っていて、どうすれば世界中のオケからその音を引き出せるかも知っている。東フィルはオペラを知り尽くしているから、期待以上のものをマエストロに返したのではないか。恐ろしいほど「語るオーケストラ」だった。

ヴェルディでこうした渋い充実感を味わったのは、久しぶりというより初めてかも知れない。リゴレットのフロンターリ、ジルダのトロシャン、マエストロ・ベニーニは個々の人生の中でこのオペラを掘り下げており、それが寄木細工のように東京の劇場で組み合わさって、底力のある名演が実現した。オペラとはつまり、そういうことの凄さだと思う。

リゴレットもブロードウェイを舞台にしたMET演出があったり、色々いじられてきた作品だが、本当に大事なのは表面的な衣裳ではなく、心理であり精神である。エミリオ・サージは演出ノートで、マントヴァの本質は「退屈」であり、リゴレットの本質は「執着心」であるというようなことを書いているが、このような透視するような視点がなければ、演出の意味もないのだと思う。

リゴレットが怒り狂う「鬼め、悪魔め」は何度聴いても心が粉々になるが、フロンターリの極め尽くした歌、東フィルの衝撃的なサウンドで途轍もない場面になった。ピットのベニーニの後ろ姿を見て、これがオペラの本質なのだと打ちのめされる思い。すべての場面が卓越し心理劇で、指揮者としても歌手・オケ・合唱・演出の好条件を得て余すところなくリゴレットを表現しているようだった。

マントヴァのリヴァスの「女心の歌」は素晴らしく、高音のフェルマータはサービス精神旺盛。テノールとして生き、マントヴァとして舞台で生きようとする気概が、ラストの姿が見えない場面での歌からも感じられた。ヴェルディのために集まった芸術家たちが、宝石のような共演を果たした夜だった。

一度だけ取材したレオ・ヌッチに「ヴェルディを演じることは、実人生の自分を成長させてくれる経験ではないのですか」と質問したところ「一番私が言いたいことを言ってくれた」と、その場でノートにダヌンツィオの詩を書いてプレゼントしてくれた。ヴェルディと歌手たちの絆はそれほど深い。フロンターリも、そうした絆を作曲家に感じていると思う。

日本人キャストは安定の名演で、スパラフチーレ妻屋秀和さん、モンテローネ須藤慎吾さん、マッダレーナ清水華澄さんが特に心に残った。須藤さんの躍進は目覚ましく、役ごとに新しい可能性を感じさせてくれ、魅力も大きい。
28日、31日、6月3日にも公演が行われる。