シルヴァン・カンブルランの読響常任指揮者としての最終シーズンのラストとなったこの3月、都内の3つの会場で催された4つのコンサートすべてを聴いた。グランド・フィナーレの感傷にひたる余裕もないほど、どの公演もエキサイティングで、楽員全員が本気でカンブルランとの最後の仕事に打ちこんでいるのが伝わってきた。マエストロとの9年に感謝を示すかのように二人のコンマスが並び、どの会場でも一曲が終わるごとに熱い喝采が湧きおこった。イベールとドビュッシーのフランス・プロを聴いたのはもう20日ほど前のことになると思うと不思議な気分になるが、この一連の「カンブルラン・フィナーレ」(?)は初日から凄かった。
イベール「寄港地」では幻想的で透明感のあるハイセンスなサウンドがサントリーホールに広がり、エキゾティックな芳香がオーケストラから立ち上がった。弦がいっせいに目覚めるようになめらかな旋律を奏で、ハープが重なり、オケのすべての音が爆発的に鳴りだすくだりで鳥肌が立った。「カンブルランの音楽は、狂気に近い香りだ」と直感的に思った。天才調香師のように、音という香りのエレメンツを組み合わせて、永遠につながる一瞬を毎秒ごとに爆発させる。イベール「フルート協奏曲」ではサラ・ルヴィオンが魅惑的なソロを奏で、「真夏の夜の夢」妖精パックの踊りを思わせる面白くて蠱惑的なメロディを奏でた。カンブルランの背中も踊るような動きをしている。カンブルランが教えてくれたことのひとつが、この「音楽における軽やかさの価値」だった。軽薄さとも違う、深刻さや重々しさを超えて舞い上がっていく音楽の至上の美、幻のような透明な艶やかさ、音楽の中のシルフィードの存在を、カンブルランはいつも示していた。
ドビュッシー(ツェンダー編)「前奏曲集」(日本初演)は面白い編曲で、「帆」「パックの踊り」「風変りなラヴィーヌ将軍」「雪の上の足跡」「アナカプリの丘」の五曲が選ばれている。各パートの絶妙な連携が見事で、ユーモラスな木管の表情と黛敏郎「金閣寺」を思わせる(!?)ノスタルジックなオーケストレーションが特徴的だった。最後の最後まで面白い作品を見つけてくるカンブルランと、マエストロのやりたいことは何でも分かっている読響が微笑ましい。ところどころエキセントリックな編曲で、ドビュッシーの中のグロテスクな一面も感じさせた。
この夜の最後に演奏された「交響詩『海』」は、カンブルラン&読響サウンドの極致ともいえる審美的な響きで、高遠で輝かしく、ミステリアスな暗示に満ちた壮麗な音の絵だった。カンブルラン・サウンドには神が宿っている…とこの9年の間に何度も思ったが、彼自身がどこか陽気な古代の神のような人である。雲の上が退屈で、人間とお祭り騒ぎをやりに天界から降りてきた人なのではないかと思ってしまうのだ。黄金の牛や牧神パーン、ヴィーナスの竪琴や雨に変身したジュピターがプラネタリウムの星座のようにホールの天井で回転しているようだった。神の世界は人間の世界とこんなにも近いのか…手を伸ばせば触れられる金色の雲の塊を感じた。2018年に演奏されたラヴェルの「ラ・ヴァルス」と同様の、ミステリアスな退廃感も同時に伝わってきた。現代作曲家ハースの奇妙な「静物」のあとに、あの伝説の「ラ・ヴァルス」は演奏されたのだが、カンブルランは何度も「ラ・ヴァルス」をリクエストされていながら、あの並びでなければ演奏しないと主張していたそうだ。
「海」があまりに凄い出来栄えだったのでぼうっとしてしまったが、あの夜のカンブルランは確かに涙ぐんでいた。あんな音楽を最後に読響と作ってしまったのだから無理はない。思わずもらい泣きしそうになってしまった。
シェーンベルク「グレの歌」は、3/14に一日だけサントリーホールで上演され、この日のために東京春祭でもおなじみのロバート・ディーン=スミス、レイチェル・ニコルズ、クラウディア・マーンケ、ディートリヒ・ヘンシェル、ユルゲン・ザッヒャーがソリストとして登板した。合唱は新国立劇場合唱団。『トリスタンとイゾルデ』『アッシジの聖フランチェスコ』で鍛え上げたカンブルランと読響の実力が発揮され、ディーン・スミスを筆頭に歌手たちの歌唱も卓越していた。中でも、出番は少ないが強烈な印象を残したのが森鳩役のクラウディア・マーンケで、読響との『トリスタン…』ではブランゲーネ役で出ていたらしいが、記憶から飛んでいた。空に五重の虹の橋がかかったような新国立劇場合唱団の演奏が素晴らしい。「ヴァイオリン協奏曲」のような不毛で自閉的な作品も書いていたシェーンベルクだが、もっとこのような曲を書いていれば好きになれたのに…と思う。物語は完全には把握できなかったが、美酒のようなオーケストラと歌手、合唱に酔い痴れた夜だった。ワーグナーオペラに似た余韻が残った。
3/19には紀尾井ホールで特別演奏会『果てなき音楽の旅』が行われ、こちらは後半のみ聴くことができた。紀尾井でカンブルラン…という最後に飛び切りフレッシュな組み合わせで、ここでなぜカンブルランが今までたくさんの現代音楽を演奏してきたかがわかったような気がした。現代音楽は、現代美術と同じようにフレームからはみ出していくアートで、そこには自由とユーモアがあり、未知の人間性の可能性がある。これまでも、カンブルランがやってくれるのなら現代音楽も聴きたいと思っていた。五臓六腑で反応できるものがあったからだ。同じ一音だけをオーケストラがリレーのようにつないでいくシェルシ『4つの小品』では、笑いが止まらなかった。耳鳴り、ホワイトノイズ、蚊がぶんぶん飛ぶ音をオケが必死で鳴らしている。譜面に正確にやっているのだろう。最後の音は、大河ドラマのように大げさに鳴るが、それもたったひとつの音なのだ。それよりもさらに面白いのがグリゼー『音響空間』から「バルシエル」で、18分あるこの曲の最後で、あらゆる楽器が「楽器の用途から外れる」落ち着きのない様々な音を鳴らし、指揮者は赤い布で汗をふき、スポットライトを浴びたシンバルは最後の一音を鳴らしそうな恰好をしたまま、鳴らさずに照明が落ちるのである。そうか…これがカンブルランがやりたかった「現代音楽」か!教養あるお客さんたちのスタンディング・オベーションもまた感動的だった。
カンブルランが読響のシェフ就任した2010年、私はまだそれほど多くの在京オケのコンサートを聴いておらず、オーケストラについて何か書くライターになるとも思っていなかった。読響の公演にほぼすべて出かけるようになったのも、全部きっかけはカンブルランである。2008年のパリ国立オペラの初来日公演(!)でカンブルランが振ったデュカスの『アリアーヌと青ひげ』に心酔し、あの素敵な指揮者が日本に頻繁にやってくるなんて、なんて嬉しいことだろうと思った。それからの9年は、一瞬のことだった。
中には、オケと難しい状態なのではないかと心配してしまう演奏会もあった。特に古楽的なアプローチでずんずん速度を増していくベートーヴェンや、きっちり四角四面に作っていくハイドン、あっさりしすぎのマーラー7番には違和感を覚えないこともなかった。しかし、それにもすべて意味があった。
最終公演は東京芸術劇場での二日間だったが、23日のほうを聴いた。二階席には高円宮妃久子殿下がお出ましになられた。
ベルリオーズ『歌劇〈ベアトリスとベネディクト序曲〉』て聴こえたのは、あの謹厳なハイドンの和声感だった。新しい境地に進んでも、またゼロに戻ってバレエの基礎ポジションから始めるようなカンブルランの頑なさ(?)が、この序曲で大輪の花になって咲いていたのだ。なぜベルリオーズの中にハイドンがいると思ってしまったのか…陽気なバレエ音楽のようにも聴こえるチャーミングな曲である。
ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第3番』では、ピエール=ロラン・エマールが厳密で古典的な、完璧この上ないソロを弾いた。鍵盤を凝視するように見つめ、指揮台のカンブルランのほうもしっかりと見ながら哲学者のような面持ちで弾いていた。謹厳でクリアなタッチが、三楽章のロンド~アダージョでめくるめくロマンティックな響きに変化した。一瞬のことだが、妖艶な芳香があふれ出し、この曲の輪郭を保たせているものの影の力を見たような気がした。人間性もまた、陰と陽の表裏一体なのだ。
ベルリオーズ『幻想交響曲』は壮大な「オケとの総おさらい」で、9年間のさまざまな瞬間が脳裏に蘇った。カンブルランと読響の公演はトータルで9割近く聴いてきたと思うが、「もっと果てしなく、もっと大きく」発展してきたこの組み合わせには、最初から決められた到達点などなかった。リハーサルを見学するチャンスは一度もなかったが、演奏会で聞くマエストロのやり方は生真面目で、さらに高く遠くへと飛ぶために、何度も何度も「いろは」からのおさらいをやってきたはずなのだ。
ベルリオーズは『トロイア人』のような狂気じみた巨大なオペラを書き、現実より虚構の素晴らしさに魅了され、女優だった妻の「普通の姿」に失望した。『幻想交響曲』はそんな作曲家が書いたファンタジーの結晶で、現世で聴くことができる優美と恐怖が詰まっている。「舞踏会」は今まで聴いたどの演奏よりも美しく、「断頭台への行進」と「ワルプルギスの夜の夢」は恐ろしかった。
カーテンコールはやまず、オケが引けた後もマエストロは二回も呼び出された。「今日は少年みたいな顔をしているな…」毎回、走っては指揮台にぴょんと乗り、勢いよく降り始める姿を見るのが楽しみだった。私は本当にカンブランの大ファンだったのだ。時間とは一体何だろう…9年間は春の嵐のようだった。
イベール「寄港地」では幻想的で透明感のあるハイセンスなサウンドがサントリーホールに広がり、エキゾティックな芳香がオーケストラから立ち上がった。弦がいっせいに目覚めるようになめらかな旋律を奏で、ハープが重なり、オケのすべての音が爆発的に鳴りだすくだりで鳥肌が立った。「カンブルランの音楽は、狂気に近い香りだ」と直感的に思った。天才調香師のように、音という香りのエレメンツを組み合わせて、永遠につながる一瞬を毎秒ごとに爆発させる。イベール「フルート協奏曲」ではサラ・ルヴィオンが魅惑的なソロを奏で、「真夏の夜の夢」妖精パックの踊りを思わせる面白くて蠱惑的なメロディを奏でた。カンブルランの背中も踊るような動きをしている。カンブルランが教えてくれたことのひとつが、この「音楽における軽やかさの価値」だった。軽薄さとも違う、深刻さや重々しさを超えて舞い上がっていく音楽の至上の美、幻のような透明な艶やかさ、音楽の中のシルフィードの存在を、カンブルランはいつも示していた。
ドビュッシー(ツェンダー編)「前奏曲集」(日本初演)は面白い編曲で、「帆」「パックの踊り」「風変りなラヴィーヌ将軍」「雪の上の足跡」「アナカプリの丘」の五曲が選ばれている。各パートの絶妙な連携が見事で、ユーモラスな木管の表情と黛敏郎「金閣寺」を思わせる(!?)ノスタルジックなオーケストレーションが特徴的だった。最後の最後まで面白い作品を見つけてくるカンブルランと、マエストロのやりたいことは何でも分かっている読響が微笑ましい。ところどころエキセントリックな編曲で、ドビュッシーの中のグロテスクな一面も感じさせた。
この夜の最後に演奏された「交響詩『海』」は、カンブルラン&読響サウンドの極致ともいえる審美的な響きで、高遠で輝かしく、ミステリアスな暗示に満ちた壮麗な音の絵だった。カンブルラン・サウンドには神が宿っている…とこの9年の間に何度も思ったが、彼自身がどこか陽気な古代の神のような人である。雲の上が退屈で、人間とお祭り騒ぎをやりに天界から降りてきた人なのではないかと思ってしまうのだ。黄金の牛や牧神パーン、ヴィーナスの竪琴や雨に変身したジュピターがプラネタリウムの星座のようにホールの天井で回転しているようだった。神の世界は人間の世界とこんなにも近いのか…手を伸ばせば触れられる金色の雲の塊を感じた。2018年に演奏されたラヴェルの「ラ・ヴァルス」と同様の、ミステリアスな退廃感も同時に伝わってきた。現代作曲家ハースの奇妙な「静物」のあとに、あの伝説の「ラ・ヴァルス」は演奏されたのだが、カンブルランは何度も「ラ・ヴァルス」をリクエストされていながら、あの並びでなければ演奏しないと主張していたそうだ。
「海」があまりに凄い出来栄えだったのでぼうっとしてしまったが、あの夜のカンブルランは確かに涙ぐんでいた。あんな音楽を最後に読響と作ってしまったのだから無理はない。思わずもらい泣きしそうになってしまった。
シェーンベルク「グレの歌」は、3/14に一日だけサントリーホールで上演され、この日のために東京春祭でもおなじみのロバート・ディーン=スミス、レイチェル・ニコルズ、クラウディア・マーンケ、ディートリヒ・ヘンシェル、ユルゲン・ザッヒャーがソリストとして登板した。合唱は新国立劇場合唱団。『トリスタンとイゾルデ』『アッシジの聖フランチェスコ』で鍛え上げたカンブルランと読響の実力が発揮され、ディーン・スミスを筆頭に歌手たちの歌唱も卓越していた。中でも、出番は少ないが強烈な印象を残したのが森鳩役のクラウディア・マーンケで、読響との『トリスタン…』ではブランゲーネ役で出ていたらしいが、記憶から飛んでいた。空に五重の虹の橋がかかったような新国立劇場合唱団の演奏が素晴らしい。「ヴァイオリン協奏曲」のような不毛で自閉的な作品も書いていたシェーンベルクだが、もっとこのような曲を書いていれば好きになれたのに…と思う。物語は完全には把握できなかったが、美酒のようなオーケストラと歌手、合唱に酔い痴れた夜だった。ワーグナーオペラに似た余韻が残った。
3/19には紀尾井ホールで特別演奏会『果てなき音楽の旅』が行われ、こちらは後半のみ聴くことができた。紀尾井でカンブルラン…という最後に飛び切りフレッシュな組み合わせで、ここでなぜカンブルランが今までたくさんの現代音楽を演奏してきたかがわかったような気がした。現代音楽は、現代美術と同じようにフレームからはみ出していくアートで、そこには自由とユーモアがあり、未知の人間性の可能性がある。これまでも、カンブルランがやってくれるのなら現代音楽も聴きたいと思っていた。五臓六腑で反応できるものがあったからだ。同じ一音だけをオーケストラがリレーのようにつないでいくシェルシ『4つの小品』では、笑いが止まらなかった。耳鳴り、ホワイトノイズ、蚊がぶんぶん飛ぶ音をオケが必死で鳴らしている。譜面に正確にやっているのだろう。最後の音は、大河ドラマのように大げさに鳴るが、それもたったひとつの音なのだ。それよりもさらに面白いのがグリゼー『音響空間』から「バルシエル」で、18分あるこの曲の最後で、あらゆる楽器が「楽器の用途から外れる」落ち着きのない様々な音を鳴らし、指揮者は赤い布で汗をふき、スポットライトを浴びたシンバルは最後の一音を鳴らしそうな恰好をしたまま、鳴らさずに照明が落ちるのである。そうか…これがカンブルランがやりたかった「現代音楽」か!教養あるお客さんたちのスタンディング・オベーションもまた感動的だった。
カンブルランが読響のシェフ就任した2010年、私はまだそれほど多くの在京オケのコンサートを聴いておらず、オーケストラについて何か書くライターになるとも思っていなかった。読響の公演にほぼすべて出かけるようになったのも、全部きっかけはカンブルランである。2008年のパリ国立オペラの初来日公演(!)でカンブルランが振ったデュカスの『アリアーヌと青ひげ』に心酔し、あの素敵な指揮者が日本に頻繁にやってくるなんて、なんて嬉しいことだろうと思った。それからの9年は、一瞬のことだった。
中には、オケと難しい状態なのではないかと心配してしまう演奏会もあった。特に古楽的なアプローチでずんずん速度を増していくベートーヴェンや、きっちり四角四面に作っていくハイドン、あっさりしすぎのマーラー7番には違和感を覚えないこともなかった。しかし、それにもすべて意味があった。
最終公演は東京芸術劇場での二日間だったが、23日のほうを聴いた。二階席には高円宮妃久子殿下がお出ましになられた。
ベルリオーズ『歌劇〈ベアトリスとベネディクト序曲〉』て聴こえたのは、あの謹厳なハイドンの和声感だった。新しい境地に進んでも、またゼロに戻ってバレエの基礎ポジションから始めるようなカンブルランの頑なさ(?)が、この序曲で大輪の花になって咲いていたのだ。なぜベルリオーズの中にハイドンがいると思ってしまったのか…陽気なバレエ音楽のようにも聴こえるチャーミングな曲である。
ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第3番』では、ピエール=ロラン・エマールが厳密で古典的な、完璧この上ないソロを弾いた。鍵盤を凝視するように見つめ、指揮台のカンブルランのほうもしっかりと見ながら哲学者のような面持ちで弾いていた。謹厳でクリアなタッチが、三楽章のロンド~アダージョでめくるめくロマンティックな響きに変化した。一瞬のことだが、妖艶な芳香があふれ出し、この曲の輪郭を保たせているものの影の力を見たような気がした。人間性もまた、陰と陽の表裏一体なのだ。
ベルリオーズ『幻想交響曲』は壮大な「オケとの総おさらい」で、9年間のさまざまな瞬間が脳裏に蘇った。カンブルランと読響の公演はトータルで9割近く聴いてきたと思うが、「もっと果てしなく、もっと大きく」発展してきたこの組み合わせには、最初から決められた到達点などなかった。リハーサルを見学するチャンスは一度もなかったが、演奏会で聞くマエストロのやり方は生真面目で、さらに高く遠くへと飛ぶために、何度も何度も「いろは」からのおさらいをやってきたはずなのだ。
ベルリオーズは『トロイア人』のような狂気じみた巨大なオペラを書き、現実より虚構の素晴らしさに魅了され、女優だった妻の「普通の姿」に失望した。『幻想交響曲』はそんな作曲家が書いたファンタジーの結晶で、現世で聴くことができる優美と恐怖が詰まっている。「舞踏会」は今まで聴いたどの演奏よりも美しく、「断頭台への行進」と「ワルプルギスの夜の夢」は恐ろしかった。
カーテンコールはやまず、オケが引けた後もマエストロは二回も呼び出された。「今日は少年みたいな顔をしているな…」毎回、走っては指揮台にぴょんと乗り、勢いよく降り始める姿を見るのが楽しみだった。私は本当にカンブランの大ファンだったのだ。時間とは一体何だろう…9年間は春の嵐のようだった。