小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

新国立劇場『ドン・パスクワーレ』(11/13)

2019-11-16 01:59:35 | オペラ
新制作『ドン・パスクワーレ』の11/13の昼公演を観る。新国のレパートリーに新たに加わったベルカントものとして話題になっていたオペラ。最初から最後まで面白く、歌手と合唱の芸達者ぶりに驚いた。個人的に記憶に残っている「ドンパス」といえば、オットー・シェンク演出・ネトレプコ主演のMETのプロダクションなのだが、印象がずいぶん違った。MET版ではタイトルロールを今は亡きジョン・デル・カルロが歌っており、全体が「カントリー風味」だったが、ロベルト・スカンディウッツィの主役はもっと洗練された雰囲気を放つ。豪華なガウンを着て、美術品に囲まれた書斎で優雅な(老いているとはいえ)独身貴族を演じる。新国では過去にフィリッポ二世を演じ、震災の年に来日した(2回だけ公演して中止となった)フィレンツェ歌劇場の『運命の力』にも出演していた名歌手だが、生で聴くのは初めて。

ステファノ・ヴィツィオーリの演出はスカラ座でも絶賛された名プロダクションだけあって、ユニークな美術とモダンな芝居が優れていたが、稽古のハイライト映像を見て、今回の上演でますます磨かれたのではないかと想像した。歌詞に呼応した一挙手一投足の動き、極端に横長の大道具が左右を横切るスピーディな動きなど、すべてが見事で、歌手も合唱もダンサーも本気で集中しなければあのクレイジーなムードは出なかっただろう。稽古で見るオペラのほうがさらに迫力満点ということもある。これは準備段階から見学してみたかった。

ドン・パスクワーレを騙して甘い汁を吸う未亡人ノリーナは、つくづく悪女だと思った。ソプラノのハスミック・トロシャンはこの役を完璧に手中にしており、余裕さえ感じさせる表情で嬉々として演じていた。登場シーンの、セットが生き物のように左右に分かれて配置され、海のような背景が現れるところは何だか笑ってしまう。「ヴィーナスの誕生」のパロディのようなのだが、実際はとんでもないヴィーナスなのだ。胸が大きく開いた衣装で強調されているグラマラスなボディにもどうしても目が行く。ビアジオ・ピッツーティ演じるマラテスタが「老人も一目で恋に落ちる」と踏んだ若い女の役がぴったりで、長丁場のカバレッタでは歌手のきらびやかな技巧を次から次へと披露した。
 ノリーナの恋人エルネストを歌ったテノールのマキシム・ミロノフは、聖なる声の持ち主で、ボーイソプラノからすくすくとテノールに育ったのではないかと思わせるリリカルな響き。とてもシリアスなエルネストだった。透明に響き渡る貴重な声の持ち主で、一幕ではところどころこもりがちに聴こえた部分もあったが、次第に前に出てきて安心。こんな純朴な青年が、腹黒い未亡人とどのようにして夫婦になっていくのか、未来を想像すると少し不安でもあった(!)。

 ドン・パスクワーレはさまざまな人間関係の中で自分の性格を表していく役で、朗々としたアリアなどはないが、その分早口言葉のデュエットが多く、舞台で大量のエネルギーを発する。歌も芝居も本当の老人ではこなせない、という仕掛けになっており、深い声と健康な身体をもつ60代のスカンディウッツィのドンパスはまさに「歌い頃」であった。私などは、焼きの足りないロールパンのようなエネルストよりも、趣味のいい成熟したスカンディウッツィのドン・パスクワーレのほうが素敵だと思ってしまうのだが…物語ではとことんやりこめられ、馬鹿にされる。さまざまなハラスメントが告発される今のデリカシーでは、危険な歌詞もたくさん出てくる。

 それでも、このオペラは面白い。それは、作品の中にどこか二次元的な感覚があり、現実と少し乖離した世界を描いているからだと思う。ドニゼッティはシリアスもコメディも傑作を書いた人だが、劇作家としてキレキレの感覚を持っていて、少女漫画の大御所がコメディタッチの連載から急にシリアスな物語を書き出すような振れ幅がある。50歳で死んだのに70ものオペラを書き残したことも驚異的だが、天性の演劇人の性で、「舞台では現実とは違うことがいくらでも起こっていい」と思って書いているふしがある。落語家の桂枝雀さんがいう「ホンマ領域とウソ領域」を往来して、リアリズムとは少し違う、コミックやアニメーションのような世界をオペラに投影しているのだ。頭が常に加熱していて、おでこに冷えピタシートを張りながら五線譜にへばりついていたに違いない。

ノリーナが注文した100個の帽子が乗っかった台や、どこまでも左右に長いダイニングテーブルには大笑いした。演出家のヴィツィオーリは装置にたくさんのギャグセンスを盛り込み、合唱は韋駄天のごとく東西を走ってセットを運ぶが、あれはひょっとしてベルカントのアジリタの16分音符を可視化したものではないか…と思った。呼吸が続くことが奇跡的に思われるような長い技巧的なフレーズを歌手のみんなが歌うが、それは物語が「ウソ領域」にまではみ出していることの表れで、オペラそのものがわざと書かれているし、歌手たちもわざと歌うことを求められる。「このオペラの教訓は、老人が若い女と結婚しようなんて思うのは愚かなことだということよ!」とノリーナは高々と歌い上げるが、その場面は「真夏の夜の夢」の森のような夢うつつの青緑色の世界で、ドン・パスクワーレは妖精王オベロンの寛大さで、意地悪な連中全員を許すのである。

指揮のコッラード・ロヴァーリスは序曲からすべての音が言葉であるような生き生きとしたサウンドを東フィルから引き出し、最後までドニゼッティのオペラの魔法を聴かせた。「オペラはイタリア人だけのものではない」と思いつつ、指揮者とバス、バリトンが渋いイタリアの底力を出しているのを聴くと、やはりイタリアは凄いと頭を垂れてしまう、このオペラではその「イタリア風味」が本当に洒落ていて、これ見よがしではなく、近づいた人にだけ香る大人の香水のように粋だったのである。
11/16と11/17にも上演が行われる。

photo:Fabio Parenzan