都響と桂冠指揮者インバルとのサントリー定期。開演前から都響ファンが放つ熱気が凄い。コンサートマスターの矢部達哉さんの登場から大きな喝采、インバル登場でますます大きな喝采が起こった。前半はウェーベルンの『管弦楽のための6つの小品』(1928年版)。いつものようにくつろいだ感じで颯爽と始めるインバル。1936年生まれのマエストロの背中は以前と変わらぬ溌剌とした若さを漲らせている。
ウェーベルンの不思議な曲は、音と音とのつながりがどれも容易ではない感じで、うっかり振ると無味無臭な前衛作品になりそうなところを、インバルはひとつの凝縮したランドスケープにまとめ上げてみせる。オケも鋭敏にマエストロのイマジネーションに反応していく。インバルはますます耳が良くなっているという印象。都響とのマーラー・ツィクルスなどを思い出しつつ、決して惰性にはまらず「毎回新しい関係」を築いていくインバルの潔さ、それを理解しているコンマスのセンスに感銘を受けた。それにしたってウェーベルンは不思議な音楽で、ホールを埋め尽くした聴衆がこの曲を熱心に聴いている様子が、既に前衛的にも感じられた。ウェーベルンはメシアン、ベルリオーズと同じ射手座で、未来しか見ていない。音楽の中で毎回前人未到のハイジャンプを行う。15分ほどで前半は終了。
後半のブルックナー『交響曲第4番 変ホ長調《ロマンティック》』(ノヴァーク版)は、美しく幽玄で、宇宙的な世界だった。低弦のさざめき、レースのように地上に刺す朝日のような木管、打楽器の合図で生き物の息吹きが吹き荒れるような冒頭部から、この音楽の無垢なエネルギーに魅了された。山水画のような響きの遠近感が感じられる。都響のプレイヤーの精度の高さ、互いの音をよく聴いて全体を作り上げている冷静さが素晴らしい。ブルックナーは世事に疎いエキセントリックな人物だったが、音楽の中には自己を卑下するようなところがまったくない。神や自然と一体化しているという万能感が感じられる。ベートーヴェンが論理的に神を顕現させていくのに対し、ブルックナーは「最初から神とともにいる」のだった。
インバルは本当に若返っている…そうでなければ、このような音楽は出現しないのであって、反射神経も音感もますます冴えていて、疲労感や倦怠感など微塵もない。これは一体どういうことだろうか。ブルックナーが本当に無垢で未来的な音楽だった。手垢のついていない、生まれたばかりのような音楽で、youtubeで聴いたフランクフルト放送響の演奏よりももっと瑞々しかった。
楽章ごとにさまざまな作曲家の姿が去来した。2楽章は白い衣裳を着たバレlリーナたちが踊るバレエ・ブランの世界を連想し、プティパやバランシンならこの音楽にどういう振付をしただろうと考えた。3楽章はチャイコフスキーがちらついて仕方なかった。これから「くるみ割り人形」の季節が始まり、Kバレエの雪がどっさり振るゴージャスなステージも見る予定だが、それと同じ夥しい雪片が、サントリーにも吹き荒れているように感じられた。
「これは12月のブルックナーなのだ」白い雪や木々や氷が見えるようで、白銀とグレーの壮麗なグラデーションの冬景色が屏風絵のように展開されていく心地がした。
4楽章では、遠くからやってくる何かの気配を感じている作曲家の心を感じた。マーラーの「千人の交響曲」のアフターパーティで「マーラーは生きている。なぜなら楽譜を通じて何度でも語り掛けてくるから」と語っていたインバルを思い出す。ブルックナーも生きているし、それどころではなく未来にも存在している。作曲家が創作を通じて一体化していた神の巨大さを思う。何か膨大なものが清算されて、鮮烈に生まれ変わっていく新しい時代を予感させる…警告ではなく、歓喜の予告のようだ。
「ブルックナーは空が落ちてくるのを待っている」
アレグロ・モデラートはスリリングな楽章で、インバルが「ロマンティック」を楽劇のように作り上げているのが理解できた。神々の国は崩落し、雲の上から光が落ちてくる。絶対に組み合わないと思われていたものが官能的に溶け合う瞬間を、作曲家は夢見ていた。そんなふうに聴くと、心臓が激しく高鳴る音楽で、神が与えた宿命さえも破壊しようとするブルックナーの「破格」が感じられた。
どうか空が落ちてきますように…ブルックナーの繊細さと大胆さ、インバルの根無し草のような自由さ、都響の洗練に心満たされ、耳元にやってきた神に「望みを諦めずに生きよ」と励まされた心地になった。
ウェーベルンの不思議な曲は、音と音とのつながりがどれも容易ではない感じで、うっかり振ると無味無臭な前衛作品になりそうなところを、インバルはひとつの凝縮したランドスケープにまとめ上げてみせる。オケも鋭敏にマエストロのイマジネーションに反応していく。インバルはますます耳が良くなっているという印象。都響とのマーラー・ツィクルスなどを思い出しつつ、決して惰性にはまらず「毎回新しい関係」を築いていくインバルの潔さ、それを理解しているコンマスのセンスに感銘を受けた。それにしたってウェーベルンは不思議な音楽で、ホールを埋め尽くした聴衆がこの曲を熱心に聴いている様子が、既に前衛的にも感じられた。ウェーベルンはメシアン、ベルリオーズと同じ射手座で、未来しか見ていない。音楽の中で毎回前人未到のハイジャンプを行う。15分ほどで前半は終了。
後半のブルックナー『交響曲第4番 変ホ長調《ロマンティック》』(ノヴァーク版)は、美しく幽玄で、宇宙的な世界だった。低弦のさざめき、レースのように地上に刺す朝日のような木管、打楽器の合図で生き物の息吹きが吹き荒れるような冒頭部から、この音楽の無垢なエネルギーに魅了された。山水画のような響きの遠近感が感じられる。都響のプレイヤーの精度の高さ、互いの音をよく聴いて全体を作り上げている冷静さが素晴らしい。ブルックナーは世事に疎いエキセントリックな人物だったが、音楽の中には自己を卑下するようなところがまったくない。神や自然と一体化しているという万能感が感じられる。ベートーヴェンが論理的に神を顕現させていくのに対し、ブルックナーは「最初から神とともにいる」のだった。
インバルは本当に若返っている…そうでなければ、このような音楽は出現しないのであって、反射神経も音感もますます冴えていて、疲労感や倦怠感など微塵もない。これは一体どういうことだろうか。ブルックナーが本当に無垢で未来的な音楽だった。手垢のついていない、生まれたばかりのような音楽で、youtubeで聴いたフランクフルト放送響の演奏よりももっと瑞々しかった。
楽章ごとにさまざまな作曲家の姿が去来した。2楽章は白い衣裳を着たバレlリーナたちが踊るバレエ・ブランの世界を連想し、プティパやバランシンならこの音楽にどういう振付をしただろうと考えた。3楽章はチャイコフスキーがちらついて仕方なかった。これから「くるみ割り人形」の季節が始まり、Kバレエの雪がどっさり振るゴージャスなステージも見る予定だが、それと同じ夥しい雪片が、サントリーにも吹き荒れているように感じられた。
「これは12月のブルックナーなのだ」白い雪や木々や氷が見えるようで、白銀とグレーの壮麗なグラデーションの冬景色が屏風絵のように展開されていく心地がした。
4楽章では、遠くからやってくる何かの気配を感じている作曲家の心を感じた。マーラーの「千人の交響曲」のアフターパーティで「マーラーは生きている。なぜなら楽譜を通じて何度でも語り掛けてくるから」と語っていたインバルを思い出す。ブルックナーも生きているし、それどころではなく未来にも存在している。作曲家が創作を通じて一体化していた神の巨大さを思う。何か膨大なものが清算されて、鮮烈に生まれ変わっていく新しい時代を予感させる…警告ではなく、歓喜の予告のようだ。
「ブルックナーは空が落ちてくるのを待っている」
アレグロ・モデラートはスリリングな楽章で、インバルが「ロマンティック」を楽劇のように作り上げているのが理解できた。神々の国は崩落し、雲の上から光が落ちてくる。絶対に組み合わないと思われていたものが官能的に溶け合う瞬間を、作曲家は夢見ていた。そんなふうに聴くと、心臓が激しく高鳴る音楽で、神が与えた宿命さえも破壊しようとするブルックナーの「破格」が感じられた。
どうか空が落ちてきますように…ブルックナーの繊細さと大胆さ、インバルの根無し草のような自由さ、都響の洗練に心満たされ、耳元にやってきた神に「望みを諦めずに生きよ」と励まされた心地になった。