小田島久恵のクラシック鑑賞日記 

クラシックのコンサート、リサイタル、オペラ等の鑑賞日記です

NISSEY OPERA2019 『トスカ』(11/9)

2019-11-11 04:47:15 | オペラ
NISSEY OPERA2019『トスカ』の初日(11/9)を観る。トスカは砂川涼子さん。カヴァラドッシ工藤和真さん。スカルピア黒田博さん。園田隆一郎さん指揮・読売日本交響楽団。粟國淳さん演出・砂川涼子さん主演の『トスカ』は2018年9月に東京文化会館小ホールのプロダクションで観ていた。小ホールの空間を効果的に使ったオペラ上演で、ピアノ、エレクトーン、パーカッションと合唱で構成されていた。人間心理を繊細に追った演出で、歌手の出来栄えもよく(カヴァラドッシ村上敏明さん、スカルピア須藤慎吾さん)、小規模編成ながら音楽もよく出来ていた。日生劇場では回転する大規模な美術も入り、照明もドラマティックになる。

カヴァラドッシの工藤和真さんは初めて聴く方で、思い切りのいい演技で、スターのオーラがあり、プッチーニ・テノールに求められるドラマティックな歌唱も見事だった。始まってすぐ、まだ舞台が温まっていないうちに歌う『妙なる調和』から、歌手の好調ぶりが伝わってきた。
 一幕は、何度見ても堂守の演技が好きだ。2013年のトリノ王立歌劇場の来日公演では、堂守の面白い演技見たさに4回通ったが、シリアスな物語に組み込まれたプッチーニのユーモアセンスをいつも感じる。晴雅彦さんが安定の演技だった。
読響が『トスカ』のピットに入るのは初めてのことらしい。園田隆一郎さんは細部までプッチーニの旋律を磨き込み、生き生きとした流れを作っていた。トスカの衣擦れを思わせる弦のさざめきや無邪気さを表すフルートも美しい。園田さんのプッチーニは藤原歌劇団の『蝶々夫人』でも拝聴していたが、脅かすような大袈裟なことはせず、ヒロインの魅力を際立たせ、演劇的に大切なことをオケに語らせる。先日METライブビューイングで見たヤニック・ネゼ=セガンの『トゥーランドット』を思い出した。園田さんもネゼ=セガンも基本の音色が明るく、細部の作り込みが丁寧で、各パートがクリアに聴こえる。プッチーニのオーケストラは、すべてが演劇の言葉なのだと再認識した。

砂川涼子さんのトスカは言葉に尽くし難いほどだった。ソプラノ歌手は、人知れぬ凄い覚悟を持って生きているのだと思い知らされた。これまで、さまざまな役を演じられているのを観てきたが、今年に入ってからは「オペラ夏の祭典」の『トゥーランドット』のリューの渾身の演技が心に残る。砂川さんがリューとトスカを立て続けに歌われたことで、二人の女性の共通点が見えた。人によっては何の共通点もないと言うかも知れないが、愛する男性を守るために危険を冒す一途な性格は同じだ。
 トスカはスカルピアを刺して殺すが、本当に残酷な女なのだろうか…オペラを観て、全くそうは思えなかった。カヴァラドッシの拷問シーンは、何度見ても耐えがたい。自分の命より大切なものが、壁一枚隔てた向こうで死に瀕している(粟國演出では大きなイタリア地図の幕が透けて、舞台の左上で拷問が演じられた)。そこまで追い詰めて、その上自分を手籠めにしようとする相手にどういう感情を抱くのか。トスカの嘘のなさ、真っすぐにしか生きられない純粋さは、間違いなくリューと通じている。
 
 プッチーニは声楽的に「お上品」ではないから歌わないという海外のソプラノもいる。トスカはたくさん悲鳴を上げるし、歌唱的にも過酷で、米国の歌劇場ではワーグナー歌手が頻繁に歌う。先日の藤原歌劇団の『ランスへの旅』のようなベルカントも完璧に歌われる砂川さんにとって、トスカは歌手の命と引き換えに歌うような役だろう。それでも、砂川さんにトスカを歌ってもらわなければ困る。純粋な愛を舞台で演じる覚悟のある歌手だけが歌える役だと思うからだ。

スカルピアは猟奇的な性癖の持ち主で、権力を握り暴力的な欲望をエスカレートさせてきた怪物で、トスカが命懸けで守ろうとしている愛を理解しない。ねじれていて、孤独なのだ。真っすぐにしか生きられない若い男女はやすやすと策士の手にはまる。黒田博さんが憎まれ役を好演した。女性の内面の強さが理解されない時代に、ヒロインの敵役としてこういう人物を描いたプッチーニはやはり凄い。砂川トスカはスカルピアの心臓を思い切り刺した。音楽的な緊張が最も高まった瞬間だった。

トスカの聴きどころといえば「歌に生き、愛に生き」「星は光りぬ」だが、今回の上演ではそうしたハイライトが演劇的な流れに組み込まれ、喝采のタイミングを取らないまま曲が進んだため、「星は光りぬ」では歌手が歌い終わったか終わらぬうちに盛大なブラボーが飛ぶというハプニングもあったが、音楽作りとして新鮮な解釈に思われた。アメリカ人歌手のパトリシア・ラセットが「有名な『歌に生き…』だけを聴いてほしくない。プッチーニの書いたリッチなスコアのすべてが最高なのです」とインタビューで真剣に語ってくれたことを思い出した。

三幕のサンタンジェロ城のシーンでは、名物の天使像は出てこず、丘のような不思議な場所が舞台となった。「ローマでもどこでもない普遍的な場所」が描かれていたのかも知れない。ひととき希望を見出した二人が絶望の淵に襲われる処刑シーンは、オペラのあらゆる悲劇的な場面にもまして残酷で不条理だ。理想と純粋さが生きられるのはここまで、という「限界」をプッチーニは写実的に描いた。しかし、そんなことが許されるわけがない。地上で公平な裁きが行われなかったのなら、あの世で裁きを待つしかない。トスカが最後に放つ「スカルピア、神の御前で!」の声が心に響いた。トスカは背中から飛び降り、その見事な最期に敬意を表するように帽子を取った衛兵の演技が、演出家が思う「人間の高貴で普遍的な心」に感じられたのだった。


太田糸音ピアノリサイタル(2019年度公開リサイタル試験)10/30

2019-11-04 11:32:43 | クラシック音楽
2000年生まれのピアニスト、太田糸音さんのリサイタルを中目黒・代官山キャンパスTCMホールで聴く。17時半スタートだったが、遅れて到着したため、オール・ショパン・プロクラムの「12の練習曲Op.10」はモニターで聴き、「ワルツ第5番」からホールで。東京音大の新しいキャンパスはとても綺麗で、試験を兼ねたリサイタル用のホールも充実しているようだ。
「革命のエチュード(op.10-12)」の迸るような左手のパッセージが耳に飛び込み、その瞬間にショパンの多面性を思った。モーツァルトからの古典派の流れを汲み、バッハを尊敬し、和声的にはロマン派を超えた孤高の領域を独走していた作曲家。太田さんのエチュードは、そのすべての要素を把握していた。厳密な分析が下地にあり、その上に独特の前衛性と豊かな感情が乗っている。

「バラード第4番」はショパンの本質にさらに踏み込んでいた。「ショパンはなぜシンフォニーを書かなかったか」という理由が詳らかにされるような解釈だった。ヴィオラを思わせる魅力的な内声部があり、チェロやコントラバスのような豊かな低音があり、ハープを彷彿させる装飾音があり、ピアニストの両手がオーケストラのようなのだが、パートで区分された楽器では表現不可能で、それぞれの声部はめまぐるしく変化し、ひとつに溶けあったり分離したり、性格を翻したりする。ピアノでしか表せない変幻自在の表現なのだ。

 ある種のピアニストはショパンを忌避し、聴き手もまた然りなのだが、ショパンは深掘りすればするほど奇々怪々な次元を見せる。美しいだけではなく、容易にグロテスクにも転じる夢と想像の世界を音で描いているため、そこに恐ろしいものを感じる人間がいてもおかしくない。
 太田さんのショパンは、短期間でめざましく進化したが、やはり太田さんの個性が揺るぎなく反映されたもので、作曲家の想像世界と完全に一体化していた。ショパンの神髄は…どこか弾き手の「魂を選ぶ」ようなところがあると実感する。矛盾に引き裂かれた創造性を頭だけで理解しようとしても不毛なことで、ピアニストには鋭い直観が求められるのだ。

 ノクターンは変ホ長調の16番が演奏され、太田さんがこの曲を選んだことが嬉しかった。すべてのノクターンが完璧に美しいが、16番と17番は格別だと思う。冒頭の右手の一音は北極星のように果てしなく、ひとつの光に誘われて夜の世界のざわめきが息をしはじめる。ポゴレリッチもリサイタルでよく弾く曲だが、ピアニストの究極のセンスを引き出すようなところがある。この曲もそうだが、リサイタルの間中、「ショパンを聴いているときは、ショパン以外の作曲家は誰一人として要らなくなる」という感覚を感じた。音楽史の中ではバッハやモーツァルトやベートーヴェンほど重要な作曲家とはされていないが、「この音楽がすべて」と思わせる麻酔的な威力がある。

圧倒的だったのはラストの『スケルツォ第4番Op.54』で、この曲からは「なぜショパンがオペラを書かなかったか」が理解できた。詩人アダム・ミツケヴィッチは親友のショパンに何度も祖国ポーランドのためのオペラを書くよう説得し、しつこく手紙を送り続けたが、ショパンは最期までオペラを書かなかった。パリでの『タンホイザー』の初演を、「楽譜を見たが和声的に新しいものはないから聴きに行かない」と言い放ったほどだから、オペラ作曲家へのライバル意識はあったはずだが、ショパンの声楽的な感性はもはや人間の声では表現できないものに変化していた。
スケルツォの中には、ショパンが愛したベルカント・オペラの残響が感じられ、歌うようなパッセージも息づいているが、人間の身体では表現不可能なほど抽象化されマニエリスティックに変形している。ベルカントのアジリタでも歌えない、素早く超絶技巧的な旋律がうごめいていたが、そう感じられたのも、太田さんのピアノがすべて「歌っていた」からだった。

 不思議な偶然で、このリサイタルの前後にショパンコンクールの覇者の演奏を聴く機会があった。ポーランド大使館でラファウ・ブレハッチ(2005年優勝)のマズルカを聴き、夜からはBBCプロムスのオープニングでユリアンナ・アヴデーエワ(2010年優勝)のチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』を聴いた。不純物のない、ポーランドの至宝のようなブレハッチの透明なタッチと、トレードマークのタイトなスーツ姿で、カラフルな照明を浴びているアヴデーエワのサービス満点のアクションは対照的だった。ショパンが演奏家にもたらすものも、千差万別なのだ。
 太田さんが果敢に踏み出しているショパンへの道を、心から応援したくなった。ショパンの弾き手として稀有の才能を見せた貴重なリサイタルだった。