雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

白い貝殻に寄せて‥‥

2011年07月25日 | ポエム
 白い貝殻に寄せて‥‥

何の特徴も無い
ただの白い貝殻だけど
見ていると
心のなかに海がひろがってくるんです
美しくもない
ただの白い貝殻だけど
海の匂いはしないかしらと
思わず鼻に近づけてみるんです
そうしていると
ぼくの心は
この貝のように
白くなっていくんです
(1973)


 (ひぐらし)

 日曜日の朝は、南阿蘇の高原の布団の中、ヒグラシの声で目が覚めた。
 肌寒さを感じるほどの天然のクーラーのもと、寝苦しい熱帯夜から解放されて朝まで熟睡だった。まだ夜明け前の未明の時間。
 カナカナカナカナ、カナカナカナカナ。
 しばし杉林に響き渡る澄んだヒグラシの輪唱を聴き乍ら、再び、心地よい眠りの中へ。

 月曜日の朝は、自宅で。
 食事中には、庭のケヤキの木にいるクマゼミが鳴き始める。
 ワシワシワシワシ、ワシワシワシワシ。
 夏休みだなあ。
 でも今年のクマゼミの声は、数が少ないのか、テレビの声さえかき消してしまう程の、圧倒的なボリュームが無いように思う。

 例年、いっとう早く夏を告げるのが、ニイニイゼミ。梅雨の晴れ間に、ジーという耳鳴りのような声が聞こえる。
 今年は梅雨明けが早かったせいか、梅雨のうちは、ニイニイゼミの声は聞かれなかった。
 ところが、梅雨が明けた翌日には、ニイニイゼミより前にツクツクボウシの声が聞こえた。
 それはないよねえ。
 毎年、夏休みの終わり頃に泣き出すので、子どもの嫌われ者だ。
 一本調子のニイニイゼミとは違い、ジーという前奏で始まり、ツクツクツクツクツクツクの長めの助奏からボーシと1回入りた後、単純にツクツクボーシを10回程度繰り返し、最後にヅイヨースと3回程鳴いた後に締めは再度ジーと鳴く。これが一節で、面白いことに一旦鳴き出すと最後のジーまで鳴かないと、どんなことが起きようと、止められないらしいことである。
 少年の日の私は、夏休みが終わりに近いことを知らされて鳴き声が聞こえると石を投げた。八つ当たりされたツクツクボウシ方も、それでも最後まで一節鳴かないと終わらない。ただ奴も焦ってはいるのか、猛然と鳴き方が早くなる。最後のジーはほとんど飛び出して逃げるのと同時に、一瞬ジっと鳴いて、オシッコをしながら、ブーンと飛んで行く。

 今年の鳴いているセミの数については、少ないと感じている人が、全国的にも少なくないようで、大震災の影響や、今年の春の低温などの影響が言われているようだ。私は後者の説を取るが、春の低温そのものが、なぜ起きているのかを考えると、近年の台風の発生状況や進路、かってはあり得なかった程の大雨の多発、などなどの気候変動を合わせて、何だかおかしくなって来ているなと感じる。趣味の園芸家にとって、ここ数年は、育てている植物でもおかしなことが続き、例年という言い方や比較が出来なくなっている。
 そう言えば、梅雨が明けたばかりなのに、「赤とんぼ」を見た。あれも以前はお盆過ぎに見られたものだ。
 夏休み前にツクツクボウシが鳴くなんて。(2011.7.25)
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なでしこ

2011年07月19日 | ポエム


 なでしこ


 花を育てることが好きな母の影響か、見よう見まねでプランターや花壇で草花を育てるうちに、知らぬ間にすっかり趣味の園芸家となってしまった。勤め人なので、週末園芸家である。休日も日のあるうちは、外で園芸作業をしていることが多い。勤め先でも、気がつくと、外回りの掃除と共に、小さな植え込みやプランターの世話係となってしまった。
 朝一番に箒とちりとりを手に、剪定鋏をエプロンのポケットにしまい、玄関先や駐車場のゴミ拾いとともに、植え込みやプランターの草花を見回る。盛夏となると、朝夕2回の水やりだけでも時間をとられてしまうが、さらに枯れた花や黄ばんだ葉や雑草を見つけると、ついつい無視出来ないで、手を出してしまう。
 「大変ですね」と近所の人に声をかけられるが、大変だとは思ったことがない。
 むしろ時間さえ許せば、そのまま何時間も園芸作業のみを続けたいと思う。ただし、夏は朝から日差しが強く、暑い上に、しつこくまとわりつく蚊に閉口する。少しばかりの血は何も言わず恵んであげるから、痒い思いをさせないでほしいものだ。
 日々の園芸作業の中心は、水やりと施肥、草取り、しぼんだ花を摘み取ったり剪定をすることだが、私はどうしてもその中の剪定が苦手である。花が次々に咲いていると、少々姿が乱れていても、そのままにしてしまう。
 本当は切り戻しと言って、姿が乱れ始めたら、花があろうが、なかろうが思い切って1本の茎の3分の1くらいから切ってしまう作業をする。その方がまたすぐに株全体がイキイキとして、立派な花が咲き、全体の姿も美しく、長く花も楽しめる。それがわかっていても苦手だ。
 咲いている花やつぼみを摘み取ることが可哀想で、ついつい切り戻すタイミングが遅れてしまい、結果的に花全体が衰えてしまう。やっと最近、少し切り戻しが出来るようになった。
 そうやって我が家の小さなプランターで、ナデシコの花が数年間咲き続けている。
 ホタルに似た虫が飛んで来て花を食べられてしまうこともある。水涸れを起こし、ほとんど枯れそうになったこともある。しかし、真っ赤と濃いピンクのナデシコ同士の寄せ植えは、次々に花を咲かせて見事だ。これも剪定の業を修得したからこそかもしてない。そして剪定した枝は挿し芽をして、他のプランターや知人に分けたりもしている。
 サッカー女子W杯でみごと優勝をしたなでしこジャパン。
 サッカー女子日本代表には、「大和撫子」という言葉や、花のナデシコより強いイメージがあり、私はその愛称に違和感を持ち続けていた。いいネーミングだけど、スポーツチームの愛称にしては、線が細いイメージがあった。事実、今回のW杯のサッカー女子日本代表には、先制点を取られても、再度突き放されても最後まで諦めず逆境を跳ね返した強さがあった。その力は英語のパワーとは違う、日本特有のものかもしれないが。
 今朝、少し前に短く切り戻しをした我が家のナデシコに、また咲き出した花を見つけて、ふと思った。
 サッカー女子日本代表チームは、切り戻しをされ、枯れそうになっても、春先には大きく束のように花を咲かせるナデシコの花の名がやはりふさわしいと。試合直前や、ハーフタイム、PK戦の前も、カメラは、固い表情のアメリカ選手と対照的な、笑顔のなでしこジャパンの選手達を映していた。その選手一人ひとりの笑顔こそ「なでしこ」の花である。なでしこジャパンの皆さんは現代日本の新たな「大和撫子」なのかもしれない。
 (2011.7.19)

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ねがい

2011年07月10日 | ポエム
 ねがい

あなたに必要なのは強さです
雲の様なこころで
他人をゆるすのはいいけど
自分をゆるしてはだめです
嵐の日の雲の様な
はげしさと強さを持ってください
と 、何も言わずに
君の目がそう語っている
(1975.10.24)



非現実的な夢想家

「あなたは夢のようなことばかり言って、現実を見ない」
と、家人に何度言われたことか。
例えば、小学生になった子どもの学習塾問題に対して、
大人になるまでは、いろんな経験をしてバネをためる時期なんだ。
子どもの時から上に伸ばそう、伸ばそうとすると、
確かにその分、伸びたと言えるかもしれないけど、無理に伸ばしたバネが伸び切ってしまい、
再びピョンとはねることは出来なくなるように、
大人になって飛び出す前に、ポッキリおれてしまうかもしれない。
自分で行きたいと言うまでは、親が強制して学習塾に行かせる必要はないよ。
と、言うのが、私の考え。
でも家人の身の回りや子どものクラスでは、学習塾に行ってない方が数えるほどしかいないという現実。
「子どもを学習塾にやるのは、親の責任よ」
「子どものことを思う親の務めよ」
学校の担任の先生までが、そんなことを言うらしい。
確かに焦る。不安になる。
とうとう、議論を始めて6年が過ぎ、長男が小学校6年生になった夏、
地元で有名な学習塾の夏期講習を受けようかという話になった。
驚いたことに、夏期講習を受けるのにも入塾試験があった。
合格すると、夏期講習の説明会があった。
そして塾の講師が、
「本人はもちろん、その親も、小学6年生になったら、子どもの学習が第一。
夏休みも土曜も日曜日も無いと思え」
と、言うのである。
頭にハチマキをしながら、親にもハチマキを強要しかねない勢いとその場の雰囲気なのである。
なんで子どもの勉強に、親がハチマキをして、土日も休まないで付き合わなくてはいけないのか。
とんでもないと結局入塾をしなかった。
そんなバネの伸び切った子を有名大学卒というだけで、採用するような企業はいつかダメになるよ。
その分、我が子にバネを縮めるようなことをしたのかと言われると、おおいに不安だが。

「それは、誰だって小学生を塾に縛り付けたくはないよ。就職だって、あなたが言うことは理想。でも現実はどうなの」
「あなたは夢のようなことばかり言って、現実を見ない」
と、家人に何度言われたことか。
村上春樹さんの原発事故に関する発言の中にあった『非現実的な夢想家』という言葉で、
そんな我が家の家人とのやり取りを思い出しました。(2011.7.11)

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くちびる

2011年07月07日 | ポエム
 くちびる

きみの赤い唇は
どんな果物より美しいね
きみの赤い唇は
おとなになったしるしだね

その唇から出たことばが
時には僕を悲しませた
その唇から出たことばが
いつしか僕をつよくした

そして
その唇に触れることなく
その唇から離れて行く

きみの赤い唇はもう
さようならは言わないけれど
ふたりの旅立ちのしるしだね
(1976)


 化粧について
 ここ数年、テレビを見ていて、「ああ、なんてきれいな女性なんだ」と、ときめくようなことが少なくなった。私の好みなんだろうけど、私がきれいだなと思う女優さんやタレントさんが少ないように思う。
 大手化粧品会社の「ほらっ、見て見て。日本を代表する、私たちみんなきれいでしょ」みたいな、7、8人の女性が登場するCMを見ても、協調される程きれいだなとは、思えないのだ。魅力が少ないのだ。
 他社の化粧品会社のポスターを見ていても、バッチリ化粧をしたモデルのスポーツ選手をみて、ふだんの競技の後の化粧気の少ない顔の方がむしろきれいだと思う。そう。化粧がいけないのだ。今流行の化粧というものが多分私の好みではなくなってしまったのだろう。
 もちろん、私が歳をとってしまったことも大きな一因であろう。世の中と感覚とずれてしまっているだろうことは、自覚している。
 でも今も昔も、素顔が美しい年頃は変わらずにあると思う。なんて美しいんだと、胸が切なくなるような、光り輝く様な年頃が。
 若い頃、パリに住んでいた。ファッションの流行の先端と行く街だから、パリジェンヌはさぞや流行に敏感で、皆、先端のバリバリの格好をしているのだろうと想像していたが、それは違っていた。みんなそれぞれの格好をしている。そしてそれがとても魅力的だった。足の美しい子は、それを意識してミニスカートを、太めの子は、ああこの子には、これが一番魅力的に見えそうだという格好をしていた。自分をよく知っているんだなと思った。
 一方、日本の今の若い女性の、化粧だけみても何だか個性が無いように感じる。
 高校生から20歳代前半の皆様。素顔が最も輝く一瞬の年頃を大切にしてほしい。そういう貴重な年頃の美しさを個性の無い化粧で隠さないで欲しいとオジさんは願う。
 それ以後の方は、残念ながら化粧が必要となる。でも30代、40代、50代、60代。「まだまだ若い子はこの人の魅力にはかなわないよね」って思う、チャーミングな顔の女性もたくさんいます。と、いうより、その歳でないと出ない魅力って絶対にあります。
(2011.7.7)

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陽光

2011年07月05日 | ポエム
 陽光

陽に当たりたいんです

僕のこころに少しでも
じめじめしているところがあったとしたら
それをすっかり晴らしたいんです
雨あがりの澄みきった空気を
胸いっぱいに吸い込んで
何もかもすっかり忘れ去って‥‥

陽に当たりたいんです
ただ太陽の
あたたかさだけを感じて‥‥
(1973.11.9)



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