雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

女性の買い物につきあうこと

2011年11月30日 | ポエム



 女性の買い物につきあうこと

 2011年も何かと忙しい師走となった。
 お歳暮や年末大売り出しで街の方は賑やかなことだろう。
 このところ、買い物のために市内の中心部に足を向けることがない。中心部に行き買い物をするのは、美術館に行ったついでにとか、髪を切りに行ったついでとかになってしまう。休日も単独行動、もしくは家族とともに出かける場合は、郊外へのドライブが多い。だから家人の買い物につきあうことはほとんど無くなってしまった。
 僕の買い物は、靴なら靴、ジャケットならジェケットと最初から買おうとする対象が決まっていて、さらに靴屋にいってもせいぜい2、3種類の候補の中からあっという間に選んでしまう。それで買った後に後悔することもない。買い物はすぐに終わってしまう。
 ところが、大方の女性の買い物はそうは行かない場合が多い。それにつきあうと大変なことになる。
 例えば、同じ靴を買うにしても、1件の店であれこれあれこれ物色し、試し履きをし、鏡に映し、店員ともやり取りをし、「これいいねえ」という感想も聞こえ、傍から見てそろそろ決断かと思っていると、「ちょっと他を見てみます」と、あっさり他の靴屋に行ったりする。その上、目的の靴以外にもふらふらと店に入り、あれこれあれこれ眺めるのである。家人がそれを楽しんでいることは理解できるが、僕にはその楽しさは理解できない。イライラしてくるし、足も疲れてくる。
 だから家人や娘を含めた女性の買い物につきあうことは、あっても年に一度である。一緒に街に出ても、女性軍とは早々にお別れし、本屋か喫茶店に行くことになる。最近は携帯電話があるので、女性軍が買い物を十分に堪能されてから連絡をもらい再び合流するのである。
 女性の買い物につきあうことを敬遠する理由がもう一つある。
 56歳のおじさんも、恥じらいを知るうら若き年頃があった。その頃の苦い経験がトラウマになっているのである。高校卒業後に上京し、芸大の油画科を目指して2浪中のことである。郷里の女子校に通う下の妹の修学旅行で上京し、自由行動の時間に会うことになった。
 僕は皇居前広場まで行き、妹と妹の仲良しグループを銀座に案内した。と、言っても銀座とはほど遠い貧乏暮らしをしていたから、銀座に着いてからは、ガイドの役目はたちまち終わり、女子高生の単なる買い物の付き添いと化した。店の場所や内容については、明らかに郷里の田舎から出て来た女子高生の方が詳しいのである。
 妹達は、ある若い人向けの女性服の店に入っていった。僕は躊躇したが、外が寒いので一緒に店の中に入り、かといって店内を一緒にブラブラするのが憚れて躊躇するうちに、出入り口付近に一人取り残されてしまった。
 他の客がほとんど女性であったために、居心地が悪く、目の前の陳列ケースにきれいに折りたたまれて並んだ花柄のかわいい数百枚のハンカチも触り、物色する振りをしていた。ところが、店に入って来る若い女性や、店を出ようとする女性は、あきらかに僕の顔を見るのである。
 無表情ではあるが、「何、この人!!」という感じの見方なのである。
 心無しか店員まで先程からチラチラと僕のことを監視しているように感じる。
 恥じらいを知るうら若きこの僕は、それ程男がいちゃ不自然な店なのか、不安になった。
 しかし妹達の姿は見えない。携帯電話などない時代だから、はぐれないように、ここで待つしかない。
「違う、違う、付き添いなんですよ」と一人ひとりに説明したいと思った。
「男がプレゼントのハンカチを選んでるんですよ」と一人ひとりに言い訳したかった。
「ほらねっ」と、さっきからあれこれ触りまくっていた折りたたまれたハンカチの束から、1枚を取り上げ目の高さに広げると、それは花柄のパンティーだった。
 僕はそっと店を出て、寒さをこらえて外で妹達を待った。
(2011.12.6)
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親からの手紙

2011年11月29日 | ポエム


 親からの手紙

 今はインターネットのメール(電子メール)と言う仕組みがあって、外国であっても時差や電話代を気にすること無く、いつでも意思の疎通ができる。
 メールの是非を云々するつもりはないし、僕も実際におおいに利用している。
 よくメールの利点として言われるように、手紙よりもやり取りを急ぎ、電話のように相手の都合や時間を気にする必要が無い点がありがたい。本当に気軽だ。家を離れた町で一人暮らしをしている娘とも、たいしたようもないのに、月に1回は短いやり取りをする。娘も親からの度々の電話は煩わしいだろうし、郵便では気が重いだろう。メールがあるからこその親子のコミュニケーションだ。
 でも目上の人に礼をつくす場合やあらたまった連絡には、やはり手紙や葉書を出す。自分自身ももらってうれしい。
 僕は筆まめと言われている。しゃべることが苦手なせいか、どんなに親しい相手でも電話となると何となくプレッシャーを感じてしまう。思っていることを上手く伝えられないし、相手の言葉にもすぐさま反応出来ない。電話を切った後で、あれも伝えるはずだった、こう言えば良かった、と反省することが多い。その点では、メールという仕組みは、大変ありがたい。しかし、郵便には郵便の良さ、楽しみがある。月に1度はメールでやり取りする娘にも年に1、2度は葉書や手紙を書いてしまう。
 僕は、仕事で郵便局に出かけるが、その際に記念切手の発売をチェックし、いい図案の切手があれば買い求める。また旅先や美術館のアートショップなどで絵はがきを買う。気に入った切手や絵はがきを使った手紙や葉書をいつか誰かに投函することが楽しみである。素敵な切手や葉書を求めた機会に、顔が浮かんだ誰かに郵便を出すことさえある。
 もう一つ、手紙や葉書にあってメールに無いものは、筆跡である。筆跡に現れる息づかいである。
 高校を卒業して上京し、親元を離れた後に、数回、母から手紙をもらったことがある。服や食べ物を送ってくれた荷物に入っていた幸便だったかもしれない。内容は、どうってこともない僕の暮らしや健康を気遣ったものだが、その歴史的仮名遣いで書かれた文字を見た途端に理由をわからない涙が後から後から溢れてきて、自分でもそんな自分がおかしくて笑い乍らも涙が止まらなかったことを思い出す。
 父からはパリに遊学中に手紙をもらった記憶がある。2年間の予定の半分が過ぎた頃、あまりにつらく、ホームシックにもなって予定を切り上げて帰りたいともらした僕の手紙に対する返事だった。叱りと励ましの内容だった。その手紙を読んで僕は結果的に予定通りの期間パリに居て、後で考えたら2年居たからこそ分かったことも多く、今でも感謝している。
 しかし何だろう。父の手紙はありがたかったけど、母の手紙のように涙が溢れるようなことは無かった。
 「父親よりも母親が亡くなる時が悲しいよ」と、よく聞くが、それと似たようなものかもしれない。
 そんな父も2年前に亡くなった。母は存命だが、認知症がすすみ、家族の識別さえ分からないことがほとんどだ。今は施設に入所し、直接目の前で僕の名前を呼んでくれたことは、この2年間で3度しかない。
(2011.11.30)
 
 
 
 
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鷹と巨人

2011年11月21日 | ポエム


 鷹と巨人

 「巨人・大鵬・卵焼き」
 昭和30年の半ば、日本人の多くの人の好きなものを表すそんな言葉があったけど、今はどうなんだろう。
 僕は、自慢ではないが自らスポーツをすることについては、苦手でほとんど経験がないし、これからやりたいという意欲もない。でもスポーツ観戦は嫌いではない。
 小さい頃は、大相撲が大好きだった。母方の祖母が特に相撲好きだったせいで、一緒に見ていた僕も相撲が好きになった。しかし祖母の好みの影響で、小さい頃好きだったのは大鵬ではなかった。
 野球は、漠然とした巨人ファンだった。当時の監督が郷土出身の川上哲治さんだったこともあり、回りは当然巨人びいきだった。と、言うより大鵬と卵焼きと並んで、日本人の多くが野球は巨人だった。
 プロ野球を熱心に見出したのは、高校を卒業して上京した後で、小さい頃応援していた巨人をそのまま贔屓にしていて、各選手の打率や防御率などもチェックする位、熱心に毎日一喜一憂していた。行く気があれば、いつでも球場に行けたのだが、経済的にも余裕がなく、とうとう当時は行く機会が無かった。唯一、兄が上京した際に、いよいよ後楽園球場に行くことになったが、その日は玉川の堤防が崩落するような歴史的な大雨となり巨人戦は中止となった。生の長嶋選手を見ることが出来る最後のシーズンだった。
 今から20年程前までは、それでも巨人戦の野球放送を毎日のように見ていた。阪神戦のときは、なぜか阪神ファンになった幼い長男と阪神巨人戦では、親子で対抗して応援合戦をした。その長男が野球ではなく、サッカーを始めた。そしてJリーグが始まり、今度は親子して同じチームの横浜フリューゲルスのファンとなった。横浜フリューゲルスは、Jリーグのチームの無かった九州を準フランチャイズとしていて、年に数回行われた熊本での試合も応援に行った。
 しだいにプロ野球に興味が無くなり、テレビの中継放送もほとんど見なくなった。
 サッカーの魅力が増し、すっかり目移りしてしまったこともある。それよりも大きかったのは、少し前からの東京読売ジャイアンツのお家騒動の「あのお方」の言動だ。僕の中の巨人軍を応援したいという気持ちを、毎年のように「これでもか、これでもか」という位傷つけ、嫌気が差したことの方が大きい。
 かと言って、幼い頃より「野球は巨人」で大きくなった僕は、馴染みのない他のチームをチームを今更応援する気にならない。
 結果的にあんなに好きで楽しんでいたプロ野球は、僕の中ですっかり関心が無くなってしまった。1年間にひと試合もテレビ中継を見ることが無くなって久しい。
 それでもホークスが福岡に移って、一番ひいきのチームになった。数回福岡ドームに応援にも行ったが、依然のジャイアンツに対するようには、どうしてものめり込めない。
 今年もホークスの試合をテレビのニュースと新聞で気にし、勝ち負けをチェックする程度の関心だった。今年はクライマックスシリーズからちょっと興味を持つ様になった。まずセリーグでは、ヤクルトを応援した。僕の全く勝手な好みだけど、選手時代から落合監督がなぜか嫌いなのだ。同様に、中日の主力捕手の谷繁選手がこれまた同様に我がままな好みで、横浜に入団したころから嫌い。そして球団として12球団の中で唯一嫌いなのが、中日ドラゴンズだ。その理由は、巨人のV10を阻み、前夜セリーグ優勝を決めた中日ドラゴンズが長嶋選手の公式戦最後の試合にベストメンバーで臨まなかったという逆恨み的思いから来ている。
 その嫌いな落合監督率いる中日が、やっとのことでクライマックスシリーズを勝ち抜いたホークスの相手となった。そしてホークスの監督、秋山は我が郷土の出身。リーグを制し乍ら日本シリーズに参戦すら出来なかった悔しさを「今年こそ」はらしてほしい。ぜひとも秋山ホークスに日本一になって欲しい。
 本当に何年ぶりだろう。日本シリーズを応援した。何試合か見るうちに、主力以外の選手の顔と名前も覚えた。そして4勝3敗でホークス勝利。最後までどちらが勝つか分からない試合がほとんどで、久しぶりにプロ野球を面白く思った。
 胴上げ直後のインタビューの秋山監督の涙乍らに東日本大震災に触れた話には胸が熱くなった。一方、そんな秋山監督の姿を見乍ら、震災直後となった春のセリーグ開幕日に関する「あの方」の関係したゴタゴタを思い出した。
 僕が知っているあの方は、あの方の一部に過ぎないのかもしれないと思う。とてもえらい立派な方なんだろう。でも僕の知っている言動だけで、人間的にはとても尊敬できない。プロ野球選手でもない、たかが一人の日本人としてだけど。(2011.11.21)

 
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密造ワインとヌーボー

2011年11月16日 | ポエム


 密造ワインとヌーボー

 11月の第3木曜日は、フランス・ボジョレ地区のワインの新酒、ボジョレ・ヌーボーの解禁日だ。
 幸せなことに、毎年僕の誕生日の前後が解禁日となる。
 本格的に熟成した他のワインとは違い、葡萄のフレッシュな香りと味わいがうれしい。ジュースともワインとも違う独特の味わいもさることながら、世界同時にお祝いする収穫の喜びがまたうれしい。
 幼い頃、我が家では葡萄を使ってワインを密造していた。と、言っても大量に作って密かに販売するわけではなく、せいぜい一升瓶に1、2本くらいの家庭消費用の赤ワインを母がこっそり作っていたのだ。別に葡萄の木が家にあった訳ではない。誰が言い出したのか、また作るきっかけも知らない。買って来た葡萄を皮ごとすり鉢に入れて、スリコギで実を砕き、漉したものをホーローのボールや瓶に移して発酵を待つ。まだアルコール発酵が進まない葡萄ジュースを飲んだ記憶があるが、かなり甘かったので、発酵のためにも砂糖を加えていたかもしれない。出来たワインも甘いはずで、たぶん僕もこっそり飲んでいたと思うが味の記憶は無い。そう言えば梅酒も小さな頃から飲んでいたけど、考えたらしっかりお酒だったよなあ。ビールの泡も好きだったし‥‥。
 昨夜は、ビーフシチューやフランスパンとともに、早速買って来たボジョレ・ヌーボーを開けた。
 円高のせいか、昨年よりさらに安くなっていることもうれしい。あの値段で、飛行機に乗って来られているのだから、フランスではミネラルウォーターより安いかもしれない。それに僕が知らなかっただけかもしれないが、僕がパリに住んでいた2年ちょっとの間に、ボジョレ・ヌーボーで騒いだ記憶も飲んだ記憶もない。ボルドーなどの高級ワインの産地に較べて、ボジョレ地区は、格下の産地で混ぜ物(ブレンドしたワイン)用のワインだと言われていた、よーな気がする。
 でも我が家の住人は、ヌーボーのフルーティーさが好きだし、今や年中行事のひとつとして単純に楽しんでいる。
 去年もそうだったが、今年のボジョレ・ヌーボーもフルーティーさをさほど感じず、しっかりワインになっているような気がして、世間の評価は高いようだが、我が家では少しがっかり。ヌーボーと言っても、いろんな銘柄があるそうだから、僕が買った安物と他の高級なものではまた違うのかもしれない。
 日本でボジョレ・ヌーボーが騒がれるようになったのは、バブルの頃で、旬や四季の移ろいを愛でる日本人の気質に合ったのか、年々ひろまり、僕のいる田舎の酒屋やコンビニでも売られるようになって驚く。最初の頃は、身の回りに「ワインは熟成した方がいいと聞いているので」と、前年のヌーボーを大切にとっているという人が結構いて、ヌーボーは新鮮さを楽しむワインだという説明をしたものだ。僕が成人した昭和50年頃は、ワイン自体が一般的な日本人には馴染みが薄く、料理店で赤ワインを注文して「このワインは甘くないですね」という話をよく聞いた。ワインと言えば、赤玉ポートワインというのが、一般の認識だった。メルシャンなどが作る日本産の甘くないワインが、普及を始めた頃だ。
 笑いながら「見つかったら、タイホされる」という親の話を真に受けて、一家で秘密を共有していると思っていた小さい頃のワインの密造。
 ドキドキした秘密の味も、その美味しさに加わっていたのかもしれない。
(2011.11.18)
 
 
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アンジェリーナ

2011年11月10日 | ポエム

 アンジェリーナ

 食欲の秋は大好きだ。別に秋に限らず1年中食欲はあるが。
 秋で楽しみな食材の一つは、栗。季節限定のいろんな栗のお菓子を食べまくる。
 ああ、ついに我がブログで禁断の食べ物の話をしてしまった。(ん?もうすでに何度も食べ物のネタが登場していたか‥‥)
 僕は食いしん坊だ。お酒も甘いものも好きな、例えばあんこをなめながら、お酒が飲める食い意地の張った一番イヤしい男です。
 食べものの話を始めたら、ネタがつきない。でも決してグルメではないし、高級品とそうでないものの違いも多分わかりません。だから単なる食いしん坊だ。
 最近は食べたものの記憶も残らない。家人に「あなたには高級なものを食べさせる価値がない」とも言われている。
 そこで美味しいものに出会ったら、禁を破り、時々はこのブログでお話をし記録しておきたいと思う。
 今は秋、栗を使ったモンブランの話。
 今日のブログのお題、落ち葉とアンジェリーナでモンブランを思い浮かべたあなたは、かなりのスィーツ好きですね。 
 さて僕は若い頃、パリに2年程住んでいたことがある。
 ルーブル美術館や旧オペラ座に近い、パリのほぼ真ん中、リボリー通りにあるアパルトマンなどに寝起こし、近くの日本料理店に勤めていた。週に一度の休日には、すぐ横のチュルリー公園やセーヌ河岸を散歩したり、すぐ近所の英国書店の2階にあるイングリッシュ・ティールームに出かけ、ミルクティーとスコーンなんかでアフタヌーンティーを楽しみながら数時間も本を読んだり、手紙を書いたりして贅沢な時間を一人で過ごした。
 普段はそれこそ近所のカフェでエスプレッソやたまにはビールやワインを立ち飲みのカウンターで飲んだりするのだが、休日は気分を変えて落ち着いた店のテーブル席で時間を過ごすことは、小さな贅沢だった。
 住んでいたアパルトマンの3軒となりにもう一軒、めったに行かないが休日に出かけるお気に入りのサロン・ド・テ(喫茶店)があった。そこのお目当てはモンブランというケーキだった。フランス語で「白い山」というお菓子は、メレンゲかスポンジの台に生クリームをのせ、栗のペーストをたっぷりとかけた山に白い粉砂糖がふりかけてある日本でもおなじみのケーキだ。知らなかったが、モンブランというケーキは、この店が考案したという。その元祖モンブランは、とても大きくて頭が痛くなる程甘いのだが、なんと言ってもフランス産の栗のペーストが抜群に美味しく、濃くのある生クルームもなかなか日本では味わえない。土台のメレンゲが湿気らずぱりっとしているところも美味しい。今や日本のケーキ屋さんの定番ケーキの一つであるモンブラン。和栗のペーストも美味しいがやはりモンブランはフランス産の栗のペーストが格段に美味しい。と、僕は思う。
 日本に帰国してしばらくすると、バブル景気に沸く東京になんとそのお店の支店が出来た。そして僕が状況した際や、関東に住む姉が帰郷する歳のお土産候補ナンバーワンだった。その店のモンブランは、大きさこそハーフサイズが中心だが日本人にも受け入れられ、デパ地下を中心に全国に出店して行く。信じられないことに、僕の郷土のデパート「鶴屋」でも、全国うまいもの展だったか、その店のモンブランが売られたことがあり、感慨深く思った。今でこそ熊本のケーキ屋さんでも500円以上のケーキがショーケースに並んでいる店がたくさんあるが、さすがに当時の熊本では、ケーキ1個の価格としては、まだまだ驚きの価格だったかもしれない。今では、福岡三越に出店し、博多に行った際の定番お土産となっている。
 まだ東京でしか買えず、めったに口に出来ないモンブランが手に入り、家族で食後のお茶を準備していたときのことだ。
 当時幼犬だった我が家のブラック・ラブラトールのノアを家の中で放し飼いをしていた。
 箱から出してテーブルに置いていたモンブランを(うっかり端に置いていたのだ)、狙いを定めテーブルに顔を乗り上がるように斜めに大きく口を開き、ノアはがぶりとひと噛みで横取りしたのだ。止める間もないあっという間の出来事で、目の前で僕はしっかりと見ていた。それは映画「ジョーズ」のサメが船を襲う表情にそっくりだった。
 ノアは、ほとんどドッグフードで暮らしている。ときどき飛んで来るトンボやセミをオヤツで食べるくらいだ。しかし、モンブランを食べて以来、我が家でケーキの箱を開くと、味を覚えているのか、鼻のいいノアはクーンクーンと騒ぎ出す。
 唯一食べたケーキがアンジェリーナのモンブランとは罪作りだったかもしれない。
(2011.11.14)
 
 
 

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