雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

二度と通らない道~国道219号線と古墳と鰻

2012年12月24日 | ポエム

 二度と通らない道~国道219号線と古墳と鰻

 11月の初めに、宮崎市に行った。
 私がボランティアで地区の役員を務めている社会保険委員会の他県との連合会の会合に出席するためだ。同じ地区の役員5名と一緒に1台の車で1泊2日の出張となった。
 金曜日の午後に目的の連絡会議があり、翌日の土曜日は熊本に帰るだけの予定だったが、せっかく宮崎まで来たのだから、私の提案で西都原古墳群を見ることとなった。地元の方から西都市にある鰻屋さんを紹介してもらい、そのまま国道219号線で峠を越えて人吉市に出て、人吉から高速に乗ったらよいとアドバイスをもらった。
 私は日本史が嫌いではないが、古墳時代まで遡ると、ほとんど教科書程度の知識しかない。そんな私でも宮崎の西都原古墳の名前は知っていた。遅めの朝食を食べた一行は、晴れ渡った日向路を一路西都市へ向かった。
 何の知識も情報もないまま、西都原古墳群に着いた。ニニギノミコトの墓とされる男狭穂(おさほ)古墳をはじめ、大小300基の古墳が集まる国内最大の古墳群だ。車を降りた一行は、まず思いがけず見渡す限り一面に広がる花畑に歓声をあげた。ちょうど時期がよかったのかコスモスが満開。古墳群を保存した広大な敷地に、コスモス畑が広がっている。花好きでなくても感激するだろう。
 私は家族にこのコスモス畑を見せに、もう一度訪れたいものだと思った。
 コスモス目当ての観光客かと思っていたら、当日は年に一度の西都古墳祭りが開かれていて、車も人も多かった。
 古墳時代の衣装を身に着けた女性に心を惹かれつつ、露店など祭りの雰囲気を楽しんだ後、会場の案内係の人に道を聞いて、昨晩聞いていた鰻屋に向かった。
 朝がゆっくりだったので、11時を過ぎたばかりで昼食に向かうには早過ぎたのだが、そのことが後で幸いした。
 私達が訪ねた西都市の鰻屋「入舟(いりふね)」は、明治27年開業の創業110数年の老舗で、県の内外から年間25万人もの客さんがあるという超人気店だったのだ。
 休日は2時間待ちもあるそうだから、私達が早めに到着し、すぐに席に着けたのは、実にラッキーだったのだ。
 全員がたのんだ鰻丼には、鰻の肝の串焼きと漬け物、驚いたことに吸い物ではなく、なつかしい「ご汁」で、これがまた名物となっているそうだ。
 鰻もご汁も美味しかったが、ご飯が米自体のうまみ炊き加減がとてもよくてすっかり満足した。これまた家族を連れて来たいと思った。
 花と食べ物の感激は大きい。私の中で、秋の西都市の評価は◎であった。
 その後は教わった国道219号線を通って熊本県の人吉市を目指した。県境を南北に連なる山深い九州山地を抜ける峠越えが待っていた。
 時期的には、紅葉を期待したのだが、まだ少し早かったのか、峠近くまで登ってやっと一部見られただけだった。
 道路は想像していたとおり、いくつかのダムとダム湖のある耳川に沿って、山を登る程道が狭くなり、クネクネの離合に気を遣うような箇所が増えてきた。かと思うと、突然立派な2車線の直線的な道や新しいトンネルにぶつかり、工事中の箇所もいくつか通った。つまり改良中なのだ。国道ながら道も悪いけど、対向車も少なかった。
 夜は真っ暗で怖いくらい静かなんだろうな。
 こんなところに、民家があったりバス停もあった。工事のために片側通行の信号待ちで停車すると、とたんに鳥の声が聞こえ、道路脇の木にシジュウカラが群れているのが見えた。こんな山奥の生活は、どんな毎日なんだろう。何をして生計を立てているのだろう。想像もつかない。
 結果的には、西都市の入り船からまた宮崎市方面に引き返し、西都インターから宮崎自動車道に遠回りした方が、時間的にも運転のしやすさからも良かったようだ。また西都市に行くとしても、国道219号の峠越えは無いだろう。
 「二度と通らんよね」
 一堂、そう結論を出した。
 この歳になると、一期一会。旅行をしていて、また来たいと思っても、二度と見ることが出来ないかもしれないという思いが心のどこかにある。まず用件が無い、必要性が無い、走りにくい国道219号をもう二度とここを通ることは無いのだ。居眠りをする一行の中で、運転するY さん以外では一人起きて、ずっと車窓を見ていた。
(2012.12.24)
 
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水戸岡鋭治さんと熊本博多連続日帰り

2012年12月15日 | ポエム
▲新幹線駅工事中の熊本駅に停車中の大好きな787系特急「有明」(2006.1.13)

水戸岡鋭治さんと熊本博多連続日帰り
 師走、最初の土日は、会議と研究会への参加で、福岡市へ出張した。
 当然、かつては博多のビジネスホテルに一泊するところだが、今回は昨年開通した九州新幹線を利用して宿泊をしないで二日連続で日帰りをした。
 宿泊と連続の日帰りとで金額的にはあまり変わらないかもしれない。要は鉄道が好きなのだ。熊本博多間、日帰りで前日までの予約でつばめ使用に限る「びっくりつばめ切符」を利用した。博多駅ビルで1,500円分の買い物券が付いた企画切符で、5,500円。実質4,000円は安い。ノンストップの「みずほ」なら30分だが、各駅停車の「つばめ」でも博多熊本間を小1時間で行けたら十分。鉄道好きの私としては、物足りない位だ。オマケの買い物券でお土産のドーナッツとワインを買った。
 実際、1日目の会議の出席者の中には、片道1時間以上かかって参加した福岡県内の方もいて、距離と時間の関係がいびつになっている。
 2日目の研究会が終わってから博多駅に戻り、その日から開催されている「水戸岡鋭治幸福な鉄道展」を見た。展覧会自体は、子ども向けでつまらなかったが、初日で取材を受けている水戸岡さんを見ることが出来た。
 水戸岡鋭治さんは、4半世紀に渡り、JR九州の車両の設計やデザイン、列車そのものの企画を行っているドーンデザイン研究所を主宰する工業デザイナー。国際的な鉄道デザイン賞である「ブルネル賞」を4度受賞するなど、国内外で注目されている。九州新幹線、九州の都市間を走るインターシティー、ローカル列車の車両、九州各地の観光地で人気の観光列車などを手がけ、移動の手段であった鉄道の旅を、列車に乗ることが旅の目的の一つになるような、ユニークな楽しい車両を作り続けて来た。九州新幹線の全線開業の際に、全国から注目を浴びた九州で、ユニークなJR九州の列車がさらに人気となった。今では、東京の工業デザイナー等の関係者も水戸岡さんが手がけた列車を九州まで視察に来ているという話を耳にする位だ。



▲初めて九州新幹線に乗車したときに撮影。車体のマークやレタリングも水戸岡さんの車両のデザインの特徴だ。(2006.1.13)

 JR他社の車両デザインがどのようになされていたのか、詳細は知らないが、国鉄時代の枠を取り外すことが出来ないでいた。最近こそ、JR九州の影響か、優れたデザインの車両も見られるが、国鉄時代のあさかぜ型20系寝台列車やこだま型151系、ディーゼル特急に使われたキハ82系のデザインを越えるものは出ないどころか、鉄道ファンとしてはトキメク車両に出会うことは少なかった。
 そんな中、1988年に登場したJR九州の787系つばめ型は、車両のコンセプトと言い、外観、内装ともにドキドキワクワクの車両だった。つばめに乗ること自体が楽しめた。国鉄時代のつばめを意識しており、個室や横3列シートのグリーン車、ビュッフェ、ヨーロッパの列車のようなセミ・コンパートメントの車両もあった。このセミ・コンパートメントは、私の子ども達のお気に入りで、4人がけの半個室の中央のテーブルを広げて、お菓子を食べたり、トランプをしたりした。
 好きな鉄道のことを話し出すと、饒舌に、しかも止まらなくなってしまうが、この787系つばめ型の電車が水戸岡さんの手がけた傑作で、驚いたことに、今回久しぶりに博多駅で見かけた787系の姿に相変わらずときめいてしまった。25年も経って古さを感じないデザインは、すばらしい。
 来年はやはり水戸岡さんが企画デザインを担当した二つの列車が登場する。一つは来年10月のJR九州のクルーズトレイン「ななつ星」。オリエントエクスプレスまではいかないが豪華な九州一周の専用列車だ。たぶん、宝くじでもあたらない限り、私が乗客になることは無いだろうが、その登場が今から楽しみである。来年3月の肥薩オレンジ鉄道の「おれんじ食堂」という観光列車も楽しみにしている。
(2012.12.15)

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勘三郎が教えてくれたこと

2012年12月07日 | ポエム

 勘三郎が教えてくれたこと

あんなに楽しみにしていた新歌舞伎座の落成を前に、中村勘三郎が亡くなった。私と同じ昭和30年生まれ、57歳での早過ぎる逝去。本人が一番無念だったことだろう。
 癌の治療をしていたことも、その後予定されていた復帰が延期されたニュースも聞いていた。心配はしていたが、日本の宝のような大事な身体。念には念をいれてのことだと理解していた。
 昨日の早朝の突然の訃報には、驚きと嘆きが同時にわいて一人でいたのにもかかわらず「えーっ」と声が出てしまった。
 同じ年ということもあるが、好きな芸能人が亡くなったというだけでない、身近な悲しみが報を聞いてから私の胸の中で続いている。
 私が彼を初めて認識したのは、NHKの大河ドラマ「天と地と」で、石坂浩二が演じた上杉謙信の少年期の役をした時だ。以来、同年の彼の動向には、何かしら興味を持っていたし、心の中で応援もしていた。
 だんだん先代の勘三郎に似てきて、これから先の円熟した舞台も楽しみだった。そう言いながら、直に彼の舞台を見る機会が無く、テレビでも歌舞伎を熱心に見ることもなかった。でもいつか、生の舞台を見ることは、私の夢の一つだった。それは実現する可能性の大きい夢だった。
 やりたいことは、待っちゃいけないなあ。
 勘三郎の死は、私にそのことを改めて強烈に教えてくれた。
 ここ数年は、身近な人の死が続いて、「一期一会」という言葉が何かにつけ頭にある。何気ない普通の生活が出来ることは、当たり前のことではなく、有難いことだということも、震災とともに身近な死が私に教えてくれたことだ。
 水曜日の朝以来、勘三郎の言動をテレビの情報番組が取り上げている。様々な職種の人が、生前の彼との交流を語っている。
 思わず笑ってしまうエピソードや、エネルギーが溢れている彼の映像に励まされ、笑いながら涙が出てしまう。
 生前の勘三郎の自分の芸に対するきびしい姿勢のことを尋ねた質問に、
「きびしくなければ、夢は実現しない」
 と答えていたことが胸に響いた。
 そうだ。そこが私なんか、全然足りない。
 自分に対するきびしさも持って、やりたい夢を実現して行きたい。
 勘三郎の死が、まだ生かされている私に教えてくれたことだ。
 年末に新年の目標が出来ようだ。
(2012.12.7)
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