活字中毒な私
大好きな作家の椎名誠が自身のことを「活字中毒」と表現しているように、いつからか私も私自身のことを活字中毒と自認していた。
ちょっとの用ででかける時、例えば近所の銀行に行く時はポケットかバッグに文庫本を忍ばせていて、通帳と伝票を窓口に提出し振込などの処理が終わるまでのわずかの時間に、文庫本を取り出してページを開いた。業務の一環として講習会などに参加する際も、開演迄の数分間でも本を開くし、どこで寝る時もふとんに入って眠気に襲われる迄が読書の時間となった。
たまに半日や終日、家や事業所を離れることがわかっている際に本を携帯することを忘れてしまうと途端に不安な気持ちに襲われてしまうし、手が震え出す(これは嘘)。しかし明らかに中毒症状と言わざるを得ない。
私の本好きは、小中学校時代には見られず、高校に入ってからである。きっかけは何だったのだろう。確かに高校生になると、回りの生徒が本を読んでいる。それから当時は「これこれの本を読むのは常識で読んでおかないと大人になれない」日本人としての共通認識みたいな雰囲気があったように思う。5歳年上の兄にそのようなことを言われたような気もする。読書が好きになった具体的なきっかけの一つはこの兄の本棚であることは間違いない。
そして私がさらに本好きになったのは本が好きなガールフレンドとの出会いだ。彼女が貸してくれた本や紹介してくれた作家の本を読み、自分も彼女にいい本を紹介したいためにまた本を読んだ。
今の私の読書はジャンルや作家の国内外を問わず、何でも読みたい本を手当たり次第読んでいるが、高校生からかなりの期間は、日本の作家の純文学の作品に限られていた。純文学でも明治の文豪から三島幸夫や川端康成までのすでに名作と呼ばれる作品が多かった。とにかく「日本人の大人としてこれは読んでおかねば」いう作品を次々に読んだ。楽しくもあったが、勉強、人間形成という思いが強かった。一番読書量が多かったのは、20歳前後で、純文学の小説とエッセイと論文の3種類を常に平行して読んでいた。
20歳の頃に数ヶ月間をかけてヨーロッパ各地をリュック背負って一人旅で回ったが、その時の経験で私の読書習慣に三つの変化があった。実際に自分で外国の地を歩き、現地の人に触れ、建物や風景を目にしたためか、外国の作品を読むようになったこと。もう一つは、旅先で出会った日本人と本を交換したりして今迄手にも取らなかった現代作家の小説なども貪るように読み、結果的に読書の幅が広がったこと。最後は、それまで読めなかった数冊に渡る長編小説を1ヶ月滞在した知人の家で読破したことで、難なく長編を読むことが出来る自信がついたことだ。ちなみに私にとっての初の長編小説はパリの知人の本棚にあった全6冊くらいだったか、司馬遼太郎の「坂の上の雲」だった。
その後は司馬遼太郎の他の作品から時代小説へもジャンルが拡大し池波正太郎の数々のシリーズものにも手を出した。現代作家の新刊本も買って読むようになった。開高健、椎名誠のSF小説、今年もノーベル賞受賞を逃した村上春樹。最近女性作家の梨木果歩や小川糸、高田郁もお気に入りだ。ジャンル的にはファンタジーも大好きで、指輪物語やハリー・ポッターも読み返す程好きな世界だ。
知識や人間形成という読書の目的はいつの間にか無くなり、楽しめたらそれでいいと思っている。もちろん本を読んで、これからの人生を行きて行く上での示唆や啓示を受けることも少なくない。
しばらくは図書館にも通っていたが最近は行ってない。家人から「本を買うなら家がつぶれる前に不要な本を整理して」と言われているが、まだ買った本に未練があって持っている本の処分が1冊も出来ない。またノーベル賞作家の大江健三郎の母親の言葉を継いで家人から「あなたは忘れるために本を読んでるの?」と言われる。一度読んだ本を買ってきたことが数度あり本棚にはこっそりと同じ本が並んでいるので反論ができない。
さすがに読み始めたら気がつきます。
(2014.10.24)