▲バタバタと満開になった印象の今年の桜と熊本城の長塀と飯田丸。
電熱器とチキンライスと赤ご飯
学校の理科の実験室では、現在も電熱器を使っているのだろうか?
コンセントを入れてスイッチを押すと、渦巻き型に巻かれたコイルが赤くなって発熱する調理器具のことだ。試験管の中身や小さな金属などを熱する時は、アルコールランプを用い、電熱器はビーカーの水を沸かすときなどに使われた。高校の頃は、美術部で自作のカンバスを作る行程で、棒ニカワを水に溶かす際に電熱器を使った。その部室の電熱器と鍋は、ふだんは部員がインスタントのラーメンや焼きそばを作る時も重宝した。
家人の実家の茶の間は、畳の部屋で、中央に大きな卓袱台がある。
その卓袱台の真ん中には、炉が切ってあり、いつも電熱器とその上に小さめの薬缶が置いてある。義母は長らく茶道を趣味の中心に生きて来ており、私や私の家族が訪ねると、決まって薄茶をたててくれる。
そのために、炉の付いた卓袱台を使ってきたのだと思うが、茶の間で煎茶を飲む時は電気ポットを利用し、薄茶をたてるときは、すぐ横の台所のガスレンジで沸かしたお湯をつかっているようだ。恐らく、電熱器はかつて使用していたものをあえて取り外すこともなく、そのままになっているのだと思われる。
昭和30年代前半の私が小さい頃に、祖母に連れられてよく訪ねていた佐賀県唐津の叔母の家は、工場に勤める叔父が田んぼや畑も作る半農の家庭で、家には農耕に使う馬をはじめ、牛や羊やニワトリがいた。
家は、玄関を入ると土間があり、右手の高い段差を昇ると仏間とさらにお座敷、玄関と土間続きの奥には台所があった。台所の横には仏間と続きの茶の間があり、台所に立つには茶の間からいちいち高い段差を上り下りし、下駄やサンダルを使わなければならなかった。
広い土間の台所には、竃があったはずだが、薪で調理をしていた記憶が私には無いので、恐らくプロパンガスのコンロを使用していたのだろう。私がはっきり記憶しているのは、そこに渦巻き型電熱器があったことだ。
その電熱器とセットの記憶は、その電熱器で叔母が作ってくれたチキンライスだ。当時の私はそのケチャップライスのことを「赤ご飯」と言っていた。
今、私が作るならタマネギやマッシュルームなどのキノコを炒めてチキンライスを作り、最後に卵で包んでオムライスにすることが多い。あればケチャップだけではなくトマトピューレを半分混ぜて、よりさらっとした味に仕上げる。オムライスにかけるソースは、ケチャップ単独ではなく、ウスターソース、トンカツソース、マスタード、醤油、赤ワインなどをケチャップに混ぜて一度煮立てたものをかける。それより上等なときは、ドミグラソースをたっぷり。ビーフシチューやハッシュドビーフを作ったら、ソースを多めにして後日オムライスを作ったときのために冷凍しておくのだ。
鶏肉とごはんの組み合わせは、私の大いなる好みであって、オムライスや親子丼、鶏そぼろのかかった三食ごはん、それから釜飯屋では、エビカニ類よりも鶏釜飯を選んでしまうし、奄美にある鶏飯、駅弁なら折尾のかしわ飯が大好物。思えば我ながら「お子ちゃま」嗜好なのだ。
叔母の赤ご飯は、私にとっては心躍るメニューだったが、材料は鶏肉とケチャップの記憶しかない。ご飯はベトベトでお焦げもあり、溶けたマーガリンの独特の香りがした。その赤ご飯こと叔母さんのチキンライスとセットになっている強烈な記憶がある。
それは叔母の家で飼っているニワトリをつぶすシーン。首を切られた鶏が庭を一直線に駆けるシュールな情景だ。ニワトリは、お祭りか来客のご馳走を作るためにつぶしたのであって、赤ご飯ことチキンライスは、そのおこぼれで幼い私のためのメニューになったのだろう。
その次の思い出は、ぬるま湯につけた首のないニワトリの毛をプチプチとむしる感触。私はたぶん少し手伝っただけだろうが、もしかしたら毛をむしりながら涎をたらしていたかもしれない。(2013.3.25)
電熱器とチキンライスと赤ご飯
学校の理科の実験室では、現在も電熱器を使っているのだろうか?
コンセントを入れてスイッチを押すと、渦巻き型に巻かれたコイルが赤くなって発熱する調理器具のことだ。試験管の中身や小さな金属などを熱する時は、アルコールランプを用い、電熱器はビーカーの水を沸かすときなどに使われた。高校の頃は、美術部で自作のカンバスを作る行程で、棒ニカワを水に溶かす際に電熱器を使った。その部室の電熱器と鍋は、ふだんは部員がインスタントのラーメンや焼きそばを作る時も重宝した。
家人の実家の茶の間は、畳の部屋で、中央に大きな卓袱台がある。
その卓袱台の真ん中には、炉が切ってあり、いつも電熱器とその上に小さめの薬缶が置いてある。義母は長らく茶道を趣味の中心に生きて来ており、私や私の家族が訪ねると、決まって薄茶をたててくれる。
そのために、炉の付いた卓袱台を使ってきたのだと思うが、茶の間で煎茶を飲む時は電気ポットを利用し、薄茶をたてるときは、すぐ横の台所のガスレンジで沸かしたお湯をつかっているようだ。恐らく、電熱器はかつて使用していたものをあえて取り外すこともなく、そのままになっているのだと思われる。
昭和30年代前半の私が小さい頃に、祖母に連れられてよく訪ねていた佐賀県唐津の叔母の家は、工場に勤める叔父が田んぼや畑も作る半農の家庭で、家には農耕に使う馬をはじめ、牛や羊やニワトリがいた。
家は、玄関を入ると土間があり、右手の高い段差を昇ると仏間とさらにお座敷、玄関と土間続きの奥には台所があった。台所の横には仏間と続きの茶の間があり、台所に立つには茶の間からいちいち高い段差を上り下りし、下駄やサンダルを使わなければならなかった。
広い土間の台所には、竃があったはずだが、薪で調理をしていた記憶が私には無いので、恐らくプロパンガスのコンロを使用していたのだろう。私がはっきり記憶しているのは、そこに渦巻き型電熱器があったことだ。
その電熱器とセットの記憶は、その電熱器で叔母が作ってくれたチキンライスだ。当時の私はそのケチャップライスのことを「赤ご飯」と言っていた。
今、私が作るならタマネギやマッシュルームなどのキノコを炒めてチキンライスを作り、最後に卵で包んでオムライスにすることが多い。あればケチャップだけではなくトマトピューレを半分混ぜて、よりさらっとした味に仕上げる。オムライスにかけるソースは、ケチャップ単独ではなく、ウスターソース、トンカツソース、マスタード、醤油、赤ワインなどをケチャップに混ぜて一度煮立てたものをかける。それより上等なときは、ドミグラソースをたっぷり。ビーフシチューやハッシュドビーフを作ったら、ソースを多めにして後日オムライスを作ったときのために冷凍しておくのだ。
鶏肉とごはんの組み合わせは、私の大いなる好みであって、オムライスや親子丼、鶏そぼろのかかった三食ごはん、それから釜飯屋では、エビカニ類よりも鶏釜飯を選んでしまうし、奄美にある鶏飯、駅弁なら折尾のかしわ飯が大好物。思えば我ながら「お子ちゃま」嗜好なのだ。
叔母の赤ご飯は、私にとっては心躍るメニューだったが、材料は鶏肉とケチャップの記憶しかない。ご飯はベトベトでお焦げもあり、溶けたマーガリンの独特の香りがした。その赤ご飯こと叔母さんのチキンライスとセットになっている強烈な記憶がある。
それは叔母の家で飼っているニワトリをつぶすシーン。首を切られた鶏が庭を一直線に駆けるシュールな情景だ。ニワトリは、お祭りか来客のご馳走を作るためにつぶしたのであって、赤ご飯ことチキンライスは、そのおこぼれで幼い私のためのメニューになったのだろう。
その次の思い出は、ぬるま湯につけた首のないニワトリの毛をプチプチとむしる感触。私はたぶん少し手伝っただけだろうが、もしかしたら毛をむしりながら涎をたらしていたかもしれない。(2013.3.25)