雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

一心経の大桜

2012年03月23日 | ポエム



台風で折れた後、初めて大桜を訪ねたら、健気に季節はずれの花が咲いていた。
見出し画像は同じ日の全体像です。(2004.10.10)


 一心行の大桜

 「一心行の桜は見なはったね」
 最初は、地元に住む方のその一言だった。
何の先入観も期待も無いままに、長男と二人で大桜を見に出かけた。
 「車は停められないから、駅に置いて歩いて行きナッセ」
と、行ってみると答えた私に地元の人が助言をしてくれた。
 南阿蘇鉄道の駅に車を停めて、長男と二人、駅前から旧国道に出て、さらに旧国道から車がやっと通るような狭い農道に入った。
 ほどなく、道の先の方に、桜の花らしい真っ白な固まりが見えて来た。そしてそれは一歩近づくごとに、大きさを増して迫って来た。
 木の全体が見えたとき、「すごい』と思わず声が出た。
 何もない、菜の花畑の中に、想像していたよりも大きく、何とも言えない美しい形で、大桜は立っていた。確か車が2台。見物客はカメラを手にした人が数名。約20万人が訪れる現在ではとても信じられない話だ。桜の根元まで行き、幹や枝を触れることも出来た。
 薩摩の島津に攻められ滅んだ地元の豪族中村椎冬(これふゆ)の墓を守る様に植えられたという。南阿蘇村の白水にある高さ15メートル弱、幅20メートルの山桜。430年という樹齢と盛りの数え切れない花が発する圧倒的なパワー。感激で胸がいっぱいになり、何かの力が心に満ちて来るのを感じた。
 翌年は他の家族も連れて大桜を訪ねた。今度は車で近くまで行き、車も人も増えていたが、まだ道路脇に数台の車があるだけだった。
 ところが、全国放送のニュース番組で大桜が紹介された途端、大勢の人が訪れるようになった。そして桜を取り巻く環境が一変してしまった。
 その次の年位から、近くの田んぼが臨時駐車場となり、地元の人が、車の整理をし、寄付として駐車場代を徴収された。幹もとにも縄がはられ、桜に近づけなくなった。人が集まれば、そのことがテレビや新聞で報道され、さらに人を呼んだ。
 さらに翌年には、夜間のライトアップなどが始まった。暗闇に浮かぶ大桜は幽玄だった。見学者は桁違いに増えて、連なる大型バスが道を塞ぎ、大渋滞を引き起こした。たった1本の木が持つ、力の大きさに驚いた。私は、人ごみを避け、早朝かライトアップが消える直前に桜に会いに行った。
 ところが、私ががっかりしたのは、地元の当時白水村が一心行の大桜を中心とする一帯を開発し、桜のすぐ近くに2車線の舗装道路を新設し、広大な駐車場を作り、すっかり公園化してしまったことだ。
 大桜に罪は無い。地元の方も、村も、観光客の利便性を考えての好意でしたことだ。20万の人が来る様になったら、トイレだって必要だ。広い駐車場もいるし、道路の混雑緩和には、新しいルートも必要だったかもしれない。そしてそれらのことを小さな村が行うには、大桜の見学者からお金を落としてもらう設備が不可欠だったことだろう。
 でもその開発は、大事なことを忘れてしまっていた。
 なぜ一心行の大桜が人の心を打ち、毎年見に来たくなるような思いをさせるのか、そのことだ。
 確かに木の大きさ、樹形の美しさもある。430年という樹齢や植えられた経緯も含めた神秘的なパワーもある。でも大桜がさらに輝いて見えたのは、南阿蘇の山並を背景に、何も無い畑の中に一本だけ立っている環境も大きかったはずだ。人工的な公園の中にある桜なら全国数知れずあるように思う。私なら、敢えて遠くに駐車場を作り、見学者には畑のあぜ道を歩いて行ってもらう。その方が見学者の感激も大きいはずだ。
「あんなことしたら罰があたるよ」そう言って、公園化してしまった地元の好意の、しかし無知とも思える開発を私は罵った。
 ところが私の罵りのせいではないと思うが、公園化した途端に、大桜の大きな枝が台風でポッキリと折れ、3分の1近いボリュームが無くなり、美しかった樹形も崩れてしまった。2004年のことだ。
 その後、一度だけ大桜に会いに行った。以前の美しい形に復活するには、まだ時間がかかりそうだけど、大桜はそれでも十分にパワーを発していた。ネットで見たら、まわりの公園も少し人工的な雰囲気が排除されたようだ。今年は久しぶりに会いに行こうかな。あなたも一度見に行ったら、きっとまた会いに行きたくなりますよ。
(2012.3.23)

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菜の花の匂い

2012年03月19日 | ポエム



 菜の花の匂い

 歌を聴いていて、その歌が流行っていた頃の過去の自分の一場面が生々しく甦ってきて、あたふたとすることがある。
 そのことはよく言われる現象であるが、ある匂いや香りについても同じように、嗅いだ途端にタイムスリップしたかのような体験をすることがある。食いしん坊の私としては、食べ物の匂いでそのような体験があってもよいものだが、意外と食べ物の匂いでは経験が無い。たぶん食べ物には、小さい頃よく食べていて、今は久しく食べていないような料理あるいは食材が無いからかもしれない。
 私が香りを嗅いでいつもタイムスリップをしてしまうのは、花の香りである。
 中でも菜の花は、香りを嗅いだ途端に、網と虫取りカゴを持ち、裏山を駆け巡った少年の日がまざまざと甦ってくる。
 早春の晴れた日の午後のポカポカとした陽気と明るい陽射し。そして薮からはウグイス、空からはヒバリの声が聞こえている。少年の私は虫を捕るための網を右手で持ち、左手には空き箱を利用し、自分で作った虫かごを持っている。
 狙う獲物は蝶々。
 狙うという表現が大げさなほど、たくさんのモンシロチョウがひらひらと舞い飛び、そして簡単に捕獲できてしまう。
 蝶々を捕獲する最適な場所が、菜の花畑である。だから菜の花を匂いを嗅ぐと、私は蝶々捕りをした少年の日の、早春の明るく暖かい陽射しとヒバリの声が聞こえた故郷の裏山の菜の花畑にタイムスリップしてしまうのだ。
 次から次に捕まえたモンシロチョウをカゴに入れる。自作の虫カゴの前面には、ビニールが貼ってあり、中の様子が見える。それから小さな虫カゴがいっぱいになり、窮屈に感じる頃には、少年は蝶の捕獲にあきてしまう。
 この遊びのクライマックスは、自ら虫カゴをあけ、捕獲した蝶々を解放する時だ。捕獲の楽しみより、解放する楽しさを味わいたくて、面白みの少ない蝶の捕獲したのかもしれない。
 鳩の放鳥のようにはいかないが、箱の壁に張り付いた蝶々が一頭、また一頭と次々と空に舞い上がって行く。私は、捕獲した張本人でありながら、解放される蝶々の喜びに同調してうれしくなっている。今考えると、子どもらしい無邪気な、しかし残酷で自分勝手な遊びなんだろうと思う。「禁じられた遊び」という映画に描かれた生き物と子どもの遊びより、殺さずに解放するところは罪が少ないと言えるかもしれないけど。
 家の庭にいて、蝶々が飛んでくるのを待つこともあった。
 私の家の庭には、家庭菜園や花壇があって、いつも何かしらの花が咲いていた。それで、蝶道になっていたのだ。蝶道というのは、蝶々が花を求めてあちこちの花を回遊するルートのことだ。我が家の庭に飛んで来る蝶々は、そこに見えない道があるかのように、決まって同じ方角から現れ、ひらひらと畑や花壇を舞いながら、東側の4メートルほどの崖をつたうように上昇し、見えなくなった。
 モンキチョウという黄色の蝶がいて、モンシロチョウに混じって、我が家の蝶道を通ることがある。たまにしか見かけないし、興奮して追いかけるのだが、モンシロチョウよりすばしこくて、なかなか捕獲することが出来なかった。同じ蝶々でも小型のシジミ類になると、捕まえるどころか見向きもしなかった。逆に、アゲハチョウやクロアゲハなどの大型の蝶になると、その優雅な姿や大きさから、畏れの念を感じて、見るだけで捕獲することはしなかった。
 少年の頃、ドキドキしながら見たアメリカのテレビドラマ「タイムトンネル」では、未完成のタイムマシーンが誤作動して、主人公の意思とは関係ない時代や場所に勝手にタイムスリップをしてしまう。
 それに較べたら、菜の花は、正確に私を幸福な少年時代に連れて行ってくれる優れたタイムマシーンである。
(2012.3.21)
 
 
 
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髪型とひげ

2012年03月13日 | ポエム




ムスカリが咲きました


 髪型とひげ

 若い頃ガールフレンドが髪型を変えたときに、「女の人は、いろんな髪型ができていいね」と言ったら、「あらっ。男の人は髭を伸ばせるじゃない」と言われたことをなぜかずっと覚えている。
 一昨年に亡くなった父は、晩年あご髭を長く伸ばしていた。
 何度目かの入院の際に伸びた無精髭をそのまま伸ばし始めた。それが身近な女性達に評判が良かったせいで、気を良くしたのか、脳梗塞で倒れるまで、白く長いあご髭がトレードマークのようになっていた。確かにそれは似合っていた。
 私は未だかつて髭を伸ばしたことがない。でも根が無精なもので、日曜は出かけない限りひげ剃りをさぼってしまう。5月の連休などは数日髭を剃らないことがある。1日目の夕方には、ちょぼちょぼだが無精髭が目立ち始め、それだけで顔の印象が違う。
 もともと私の髭は濃い方ではない。
 私のまわりにも、朝髭を剃って、午後には黒い髭があきらかに目立ってくるような知人もいる。髭の生え方も形や密度に随分個人差があるようだ。私は、密度が薄く、したがって無精髭が生えてもポツポツとまばらな感じで、いかにも無精しているという風情になってしまう。しかし、自分の顔がワイルドな印象に変わって、それもまた悪い気はしない。
 最近、長男が髭を伸ばし始めた。母親には不評だが、私は「いいんじゃないの」と、思っている。ただし私と同じでかなりまばらだ。
 テレビで見かける若い男性やスポーツ選手、あるいは身の回りでも髭を伸ばしている人を多く見かけるようになった。かつて読売巨人軍の選手の髭が禁止だった頃に較べると、髭も普通に市民権を得てきたようだ。特に若い人は、オシャレな感じまでしてきて「いいんじゃないの」と思う。私も実は髭を伸ばしたいが、格好良く伸びるまでの途中が何とも印象が悪いので、伸ばしかねている。
 女性の髪型は、様々で近年は色まで多用になってきている。日本女性の黒髪は大変美しいと思うし、未だに私なぞは黒髪にあこがれてしまうが、最近は純粋な黒髪の女性が少ない様な気がして残念に思っている。確かに、真っ黒な髪の毛に合う服の色は限られてしまう。原色の赤い服に真っ黒の髪では、コントラストが強くなり、着こなしが難しい。金髪や茶色の髪だと原色の服がよく似合うと思う。金髪とまではいかなくとも、少し色を付け、真っ黒からトーンをやわらげることで確かにオシャレな感じはしてくる。
 髪型の方の好みもいたって古風で、ストレートの長い髪か、ポニーテールに永遠のあこがれを感じてしまう。やれやれ。
 高校の頃、いつ見ても二人一緒にいる微笑ましいカップルの先輩がいた。恋人同士と言うより、すでに長い間一緒に暮らした夫婦のような落ち着いた雰囲気のカップルだった。
 卒業後も、一緒に上京し、同じ進路を進み、高校のときのように、いつも二人一緒に日を送っていたのではないかと思う。
 ところが理由は知らないが、数年後二人は別れてしまった。
 さらに数年が経ち、私も上京していた(実際に住んだのは千葉県の市川市だけど)。そして広い東京で、バッタリとカップルだった女性の方の先輩に出会った。思わず声をかけて、立ち話で一言ふたこと言葉を交わして別れた。高校の頃、短めの髪だった先輩の髪は、肩に届くくらい伸びて、女らしく、ひとことで言えば、きれいになっていた。
 その後で、カップルだった男性の方の先輩に会った時に、女性の先輩に会ったことを告げた。
 と、先輩は「どんな髪型をしていた」と一番に私に質問をしたのだ。
 それだけで私は「ああ今もまだ‥‥」と心の中で思った。
(2012.3.13)

 

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総武線快速と居眠り

2012年03月06日 | ポエム



 総武線快速と居眠り

 高校を卒業した昭和49年の春。
 僕は、千葉県の市川市に住んでいた姉と同居することになった。
 当時の国鉄市川駅から総武線快速に乗って真新しい東京地下駅で降り、長いエスカレーターを上って、オレンジ色の中央線快速に乗り換え、新宿駅で山の手繊に乗り換えて目白駅まで、通学定期で美大予備校に通っていた。
 中央線の快速に乗り、お茶の水駅で、各駅停車の黄色の電車に乗り換えたりもした。
 市川駅から最初から総武線の各駅停車に乗って、代々木で山手線に乗り換えることも多かった。
 まあ、とにかく鉄道好きだった私は、片道1時間を越し、何度も乗り換える列車通学が楽しかった。
 当時の国鉄総武線快速の確か新小岩と錦糸町の間は、日本一の混雑で知られていた。
 少し前までSLが走っていた様な熊本のローカル線しか知らない僕は、いきなり日本一の通勤地獄を経験することになる。
 僕はいつも絵の道具が入った大きな袋を持っていた。上手く網棚に乗せられないときは、余程気をつけて胸に抱きしめていないと一旦身体から離れた荷物は、人の波に飲まれて遠ざかり、無理矢理身体から遠くへ運ばれてしまうこともあった。
 背の高い男性に囲まれて、酸素不足の金魚のように、顔を上に向けて立っていた(それだけで随分苦痛な姿勢だろう)若い女の子がついに失神し、両脇を男性客に支えられて次の駅のホームに降りるのを何度も見たし、あまりのギューギュー詰めに、電車の窓ガラスが割れることも何度も経験した。覚えているのは、ホームで到着した電車の両開きのドアが開いたとき、外を背に立っていた若い女の子のスカートが、すっかりめくれ上がって、下着が丸見えになっていたこと。気の毒に、何かの拍子にめくれたスカートを手足が自由にならない車内で、どうすることもできなかったのだろう。
 それくらいの乗車密度になると、つり革も不要で、逆に握り棒の側にいると、グイグイ押されて肋骨がいたい位だった。車内の真ん中でつり革無しで、踏ん張らずも安定して立っていることができ、ウトウトすることさえ可能だった。
 乗りものに乗っている最中の居眠りは、揺れが眠気に作用するのか心地よい。特に列車の揺れは、車やバスの揺れに較べて、規則的で眠気を誘われてしまう。
 ある日の帰宅中、総武線快速で東京駅から出入り口の側の窓を背にするロングシートに座ることのできた僕は、気付かないうちに眠り込んでしまっていた。目が覚めたときは、電車は降りるはずの市川駅を過ぎて見慣れぬ町を走っていた。
「しまったあ」と、思ったが、あまりにも気持ちがよい。急いで帰宅する理由も無いし、千葉まで行って、そのまま折り返し運転の電車で市川駅で降りることをぼんやりした頭で決め、再び居眠りの世界へ。
 ところが、なんてことだ。次に目が覚めたときには、電車はすでに東京地下駅まで逆戻りしていた。
 数年前に上京の際に会った同級生のK君が、「都心で飲んで、最終電車で自宅のある福生に帰ろうとして、気がついたら終点の山梨県の大口駅でゾッとした」という話(しかも3回も)を聞いたが、お酒を飲んで酔っていたなら分かる話だ。  
 僕の場合、何がそんなに眠りを誘ったのか、前夜に寝不足だったという記憶もない。とにかく、20分で着くはずの市川駅まで、2時間近く車内で居眠りをしていたことになる。後にも先にも、ここまで深く心地よい居眠りはない。
(2012.3.9)
 
 
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