雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

エクレアにダイビングした話

2012年01月24日 | ポエム


 エクレアにダイビングしたお話


 私の兄弟達は、まちがいなく皆そろって食いしん坊だ。
 集まったときの話題は、気がつくと食べ物の話をしてしまう。私も味の違いはわからないけど、食いしん坊であることは、大いに認める。そして兄弟以外でも、食べることに興味のある人との会話は自然に弾んでしまう。好きである。楽しい。逆にお腹さえ満たせば、食べる物には興味が無いという人とは、それなりのお付き合いしか望まない。それだけで、少しがっかりしてしまう。
 なぜ、兄弟が食いしん坊になったかという理由の第一は、母親が料理が好きだったからだろう。母親の前に、同居していた母方の祖母がプロ並(実際、満州で料理店を経営していたらしい)に料理上手だった。母も祖母の血を継いだのだろう。
 第二に、そんな母や祖母の作る、あらゆる手作りの料理を食べていたからだろう。戦後から昭和30年代初めの田舎町で、食材も道具もない時代に、母や祖母は、よくあんな料理を作っていたものだと今考えても感心してしまう。近所の人は誰も食べ方を知らなかったというマカロニ料理。ハンバーグやスパゲティーのミートソース。粉から炒って作るカレーライス。
 昭和40年代になると、食材も豊かになってくるが、田舎の都市である熊本市でさえ、特にケーキやお菓子の材料となると簡単にそろえることは出来なかった。クリスマスのお話で書いたように、母はそんな田舎の町で手に入る材料で、手作りのお菓子を作ってくれた。
 いっとき、母のマイブームと言ったらいいのか、シュークリームに凝ったことがあった。
 卵と牛乳で作った混じりけ無しのカスタードクリームを、おとなの握りこぶし程の特大のシューの中にたっぷりと詰め込んである。だから食べる時も、手にずっしりと重い。
 もちろん、少年のワタクシの大大好物であった。
 最近の街のケーキ屋さんにあるシュークリームは、まずシューの美味しさが感じられない。シューはシューで、香ばしさと独特の食感を持つ美味しさがあった。
 そして何よりシューの中に入っているクリーム。母が作っていたような純粋なカスタードクリームのシュークリームには、最近はめったに出会えない。それが今の人の好みだろうが、半分はシャンティーだったり、カスタード自体に半分生クリームを混ぜてあったりする。どちらが本物のシュークリームだとか言うつもりはないが、私は断然純粋カスタードクリームのシュークリームが好きである。そして母のシュークリームのマイブームは、エクレアに進化した。
 ある日、小学校から帰った私は、ランドセルを置きに、バーンとドアを開け、自分の部屋に勢いよく走り込んだ。
 するとどうだろう。四畳半の畳敷きの床いっぱいに、エクレアがひろがっていた。
「踏んではいけない」と瞬間思ったものの、勢いは止められず、かえって足を絡ませバランスをくずした私は、エクレアの群れにダイビングするはめになった。
 世界広しと言えども、エクレアにダイビングした人間はまずいないだろう。と、自慢するようなことでもないが‥‥。
 泣き笑いをしながら食べた、犠牲となり形の崩れたエクレアの味は、それでも変わらず美味しかった。母も笑っていた。
 ケーキ屋でもない我が家で、なぜそのようにたくさんのエクレアを作ったのかは忘れた。たぶん、地区の子供会の役員をしていた母が、子ども達の集まりに自慢のエクレアを張り切って大量に作った、というところだろう。
 その母も86歳になり認知症が進んで、十数年程前から料理が出来なくなった。会えば身内ということは分かるようだが、私の目の前で私の名前を呼ばれたことは、ここ2年で3回だけだ。最近は食事さえも自分だけでは摂れなくなった。
 たまに母も大好きだったシュークリームなどを小さくちぎって、口の中に入れて食べさせると、そんな時は必ず「美味しい」という。
 「お母さんのシュークリームも美味しかったよね」
 そう言い乍ら、母の手料理をもう一度食べたいものだと思ってしまう。
(2012.2.3)
  
 

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まさかっ

2012年01月17日 | ポエム


 まさかっ
 昨年の3.11以来、想定外という言葉をよく見聞きする。
 今からお話することは同じ想定外でも、そんな危機管理とはほど遠い、「まさか」って笑って済まされる程度の話です。
 僕が20歳の頃ですから36年も昔のことです。僕は6月のある日、横浜港を出港するロシア船に乗って日本を出発し、約3ヶ月間、一人でリュックを背負って、西ヨーロッパを鉄道旅行しました。
 トーマス・クックという旅行会社が発行した英語で書かれたオレンジ色の表紙の時刻表と、片言の英語だけがたよりの予約無しのぶっつけ本番の一人旅でした。利用したのは、船とシベリア鉄道とアエロフロートを使ったソ連経由パリ行きの4泊5日の片道ツアー。当時それはヨーロッパに行くための他のツアーに較べて代金が安く、一度は乗ってみたいと思っていたシベリア鉄道に乗れることも魅力でした。パリからは、ユーレールパスという3ヶ月間鉄道乗り放題のチケットを手に入れていました。まだその旅行のことは、お話したことがありませんが、これからは何かの機会にその時の旅行で経験したことも、このブログでお話したいと思っています。ただし、36年も前のお話ですから、現在のヨーロッパと事情が大きく違っていることはお断りしておきます。
 列車でローマから夕方近いフィレンツェに着き、駅の旅行案内所で、場所と予算や風呂付きとか朝食付きとかの希望を片言の英語で伝え、紹介してもらったホテルは、駅にほど近い、狭い通りに面した古い小さなホテルでした。2階の部屋は、一人にはもったいない程の広さだったと思います。部屋でリュックを降ろし、まだ夕食の時間まで間があるので、シャワーを借りて、洗濯をすることにしました。
 夏の小さなリュック一つの旅なので、着替えも必要最低限しか持って来ていません。下着やハンカチ、靴下は、替えがひと組みずつしかなく、ほぼ毎日洗濯する必要がありました。ちなみに寝間着も持参せず、旅行中は毎晩素っ裸で寝ていました。夕方、部屋の洗面台で洗濯をし、手で絞って部屋に干しておくと、湿度の低い、乾燥したヨーロッパでは翌朝にはほとんど乾いていました。
 シャワーを浴びて自分の部屋に戻った僕は、着ていた物を全部脱いで、誰もいないことを幸いに素っ裸になり、その日着ていたものを部屋の洗面台で洗濯しました。もちろん、その前に窓の側に立ち、狭い通りを挟んだ向かえのビルの様子を確認しました。日の長いイタリアの夜は、まだ明るく、向かえのビルの同じ階は、何かの事務所らしく、ブラインドが降ろされていました。
 数枚の洗濯物を干し終えた僕は、窓から数メートル離れたベッドに腰掛け、安心して裸のまま案内所でもらったフィレンツェ地図を広げて、これから何処へ行くか検討していました。
 その時、驚愕の思ってもいなかった事態が起きました。
 そもそもその狭い通りをバスが通るという認識もありませんでしたが、なんと2階建てバスがやってきて、信号待ちかなにかで、我が部屋の窓ギリギリの近さで停車したのです。
 「あっ。2階建てバスはロンドンだけではなかったのね」
 しかも我が部屋の開け放した部屋の窓とバスの窓が重なった席には、うら若き娘が座っていて、窓に向かって足をひろげて素っ裸のままベットに腰掛けていた僕とバッチリ目が合ってしまいました。今更隠しようもなく、そのまま僕は、裸の全身をさらけだし固まっていました。でもその若い女性の反応が良かった。
 あわてて顔を覆うことも、叫ぶこともなく、余裕の仕草で僕の目を見たまま、目をそらさずにニッコリ笑ったのです。
 バスが走り出す前に、僕も見ず知らずの若い女性に全てをさらけだした姿勢のままウインクでお返しをしました。
 旅行の数年後には、僕はパリに住むことになりましたが、アパートの部屋の向かえはホテルの部屋で、とこどき素っ裸で室内をうろつく女性の姿が見えたし、屋根で裸で日光浴をしている恋人達の姿も見ました。裸に関する感覚が一般的な日本人とは違うのかもしれませんね。日本人にも家の中では素っ裸で暮らすという人の話を聞いたことがありますし、素っ裸で寝る健康法も一時ありましたね。僕はというと、荷物を少なくすることと洗濯のために一時裸で過ごしただけで、そのような嗜好は当時も今もありません。
 以来、「まさかっ」という事例が起きたとき、「フィレンツェにも2階建てバス」という言葉が僕の頭に浮かんできます。
(2012.1.19)
  
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日曜日の公園

2012年01月12日 | ポエム


 日曜日の公園
 僕の自宅の南側の土地は、かつて国有地で小さな一戸建ての公務員住宅が数件並んで建っていたが、かなり前に熊本市に払い下げになり、公園になった。おかげで我が家の庭は、将来的にもマンションなどで日陰になってしまう心配はほとんど無くなり、趣味の園芸家としてもラッキーだった。
 公園には、トイレと水飲み場とベンチが二つ並んだ屋根のある建物、そして掃除用具をしまった倉庫があるきりで、ブランコや滑り台の無いめずらしい公園だ。遊具としては、子どもが股がってバネを揺らして遊ぶ動物が二つと砂場があるだけだ。公園の半分を占める広い砂の広場は、ゲートボール場だった。開園当初は、早朝から近所の老人達の話し声やスティックで玉をたたくカーンという音が響き、日曜日の朝などには閉口した。でも気がつくと、ゲートボールをする年寄りの姿は、いつの間にか見かけなくなった。
 その公園の南側に隣接した長年の空き地も数年前に住宅メーカーが買い上げ、4軒の2階建ての住宅が出来るとほぼ同時に、乳幼児がいるらしい若い4つの家族が引っ越して来た。ゲートボールをしていた老人達に代わりに登場したのが、その新しい住宅に住んでいる子ども達で、日曜日は、どの子がどの家の子かは知らないが、よく4、5人の子ども達の声が響いている。
 自宅と公園との間には、国の管理する水路があり、公園側にはキンモクセイの生け垣が、僕の家は、バラやツタが絡んだフェンスがあり、立ち上がって見ないと公園の様子は直接見えない。僕は、週末園芸家として草花の世話や庭の手入れをしながら、そんな子ども達の声を聞くとはなしに聞いている。
 虫取りをしているらしい会話が聞こえる。サッカーボールで遊んでいたり、なぜだか公園を単にぐるぐる走っている時もある。ときには古典的なままごとをしているらしい話し声も聞こえてくる。
 リーダーは、小学校低学年くらいの女の子で、その子がグループを仕切っているようだ。ままごと中の母親をまねたと思われるませた口ぶりと会話の内容に、思わず聞き耳を立て、吹き出してしまうこともある。
 仲良く遊んでいて、グループの中の誰かがゲームに負けたり、飽きたりなどして、グズリだし、あげくにケンカになってしまうこともある。昨年の東北の大震災の後のある日、公園のグループの中でケンカとなり、一人が家に泣いて帰った様子が聞こえて来た。
 そこでリーダーの女の子が、残った仲間に言った言葉に笑ってしまったことがある。
「こんなときは、『ごめんね』って言えばいいんだよね」
 先日の日曜日は、曇り空の下で、またいつもの子ども達が集まって、砂場で山を作って遊んでいるようだった。止せばいいのに、気温の低い中、バケツに入れた水を砂場に運んでいる様子。
 お昼前だ。
「ごはんよー」と、子どもを呼ぶ、母親の声がする。
 そうそう。僕も小さい頃、家の周りの神社や畑や田んぼで時間が立つのを忘れて毎日毎日無心に遊んだ。お腹はいつもすいていたのに、それさえ忘れる程に、遊びに夢中だったように思う。そしてやはり「ごはんよー」と、父か兄弟の誰かが僕を呼ぶ声がして、急にお腹がすいていることに気付き、あわてて走って帰る。手を洗った後は、いつも「早く早く」と皿をたたかんばかりに餓鬼と化していた。
 日曜日の公園に響く、近所の母親の子を呼ぶ声を聞いて、「ごはんよー」と、家の縁側から大声で呼んでいた若き日の父の声が聞こえてきたような気がした。
(2012.1.16)

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トランプ

2012年01月09日 | ポエム


 トランプ

 大晦日に久しぶりに集まった家族も、明けて2日には娘が自分の生活する街に戻り、また離ればなれに。
 考えたら、子育てって長いようで、振り返ると一緒に過ごす時間は短い。
 元日の夜。
「久しぶりにトランプしない?」
 僕が提案した。
「いいよ」っと、子ども達。ノリノリではないが、子ども達も承諾。
 子ども達が小学校の頃は、親子で本当によくトランプをした。勝敗を点数にして、表につけた。僕も本気で勝負し、負けた息子が涙を流して悔しがるほど、熱くなった。
「セブンブリッジがいいね。でもやり方覚えてる?」
「確か7枚ずつカードを配って、真ん中のストックから1枚もらい、1枚捨てるんだよね」
 景品でもらったカードを机の中から探し出し、封を切って、真新しいカードを7枚ずつ配り、とにかくゲームを始める。
 同じ数字か、同じ絵札の続き番号が3つそろったらいいんだよ。7は、1枚でもいい。他の人が捨てたカードをポン出来るんだよね。誰かが上がったときの残りカードの数字の合計で少ない方がいいんだ。一発上がりはマイナス50点。持ち札に7があれば、点数が倍になるんだよ。やり乍ら我が家のローカルルールを思い出して行く。
 「ポン、上がり」と、最初のゲームは僕がマイナス50の一発あがり。娘は、その前に同じ絵札がそろった途端、自分の前に公開して持ち札の数の合計は10数点。でも僕と同じ様に1発上がりをねらっていた息子は、7を2枚持っていて、4倍の点数となっていきなり百点を越し、最下位。
 次のゲームは、やはり娘が早めに公開し、僕は1発上がりを狙っていたら、今度は息子が1発上がり。7を2枚持っていた僕が、沈み、息子がマイナス50点。
 3ゲーム目は、娘が役カードと7を少しずつ公開して、息子と僕の1発狙いを阻止。
 そうだった。これって、子ども達が小学校の頃と変わらない3人のゲームパターン。常にせっせと安全策でカードを公開し、大勝ちは無いが、大負けもしない堅実な長女。僕と長男は、最初のカードで見通しが悪いと公開も考えるが、まずは二人とも一発上がりを基本的にねらう。小学生が本気の大人にかなう訳が無く、最終的な最下位はほとんど長男だった。
 20年近く経っても、親子3人の性格の変わらない部分を発見して、ゲームの途中で僕は一人静かに笑ってしまった。
 2012年の元日の戦いは、父親の優勝で終わった。
(2012.1.9) 
 
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