雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

つゆの晴れ間に

2013年05月30日 | ポエム

▲ふと見上げると、空にアイスキャンディが並んでいた。(2013.5.26)


つゆの晴れ間に


つゆの晴れ間の昼下がりに
ひとりぼっちで寝転ぶと
どこかでたたくカナヅチの音が
悲しいようによく響く
すっかりからっぽな僕の心に‥‥‥

( こんな時は
 自分の狭い心の壁が
 見えて来るような気がする。)

つゆの晴れ間の昼下がりに
気に早い入道雲が顔を出す
あっはっは、と僕を笑っている
空の壁ならば
どうしても見えやしないどろうにね、と

(1976.6.14)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蚊も刺さぬなら‥‥

2013年05月28日 | エッセイ

▲田植えを終えたばかりの南阿蘇村の田。(2013.5.26)

 蚊も刺さぬなら‥‥

 可能な限り毎朝、チリトリと箒を手に事業所の外回りの掃除をする。掃除と言っても落ち葉や煙草の吸い殻を拾う点検がてらだ。ズボンが汚れぬように、ギャルソンのような長いエプロンをして、ポケットには花鋏が入っている。プランターや花壇の草花の簡単な選定をしたりするためだが、やり始めると根が好きなだけに、つい予定していた作業時間をオーバーしてしまう。
 外での作業は、季節によって暑かったり寒かったりがあるのはもちろんだが、鬱陶しいのは、年間の3分の2は蚊が襲ってくること。長い時間同じ場所での作業をする際は、蚊取り線香を予め焚いておくか、動き回る場合は、蚊取り線香を携帯用のケースに入れて腰からぶら下げて作業をする。しかし朝から短い時間の外回りの点検では、無防備で作業をするために、肌にとまっているのを見つけた数匹は手で叩いて殺すが、気がつかぬうちに20分程の間に、数カ所は蚊に刺されてしまうことも多い。
 眠れぬ夜に、ようやく訪れた浅い眠りに中に、あの耳障りなブーンという蚊の小さな羽音が届く。途端に目が覚めてしまう。布団から出ている手足を引っ込めるが、顔だけはいかんともし難い。敵もその顔をねらっている。羽音が止んだ時に素早く掌で自らの顔を叩く。たいていは空振りでしばらくするとブーンという羽音が聞こえてくる。これを数回繰り返すと、さすがに眠いし、顔は痛いし腹が立って完全に目が覚める。電燈を灯して徹底抗戦の姿勢へと移る。ところが電燈の下で明るくなった部屋の中で我が身をさらしてまで襲ってくる敵はまれで、たいていは明るくなった途端に身を隠してしまう。しばらくは、半分蚊に意識を向けながら本でも読んでいると、さすがにじきに眠気が襲う。電燈を消す。すると、そう。奴の羽音がブーンと近づいてくるのである。ここまでくると怒りは大きくなり、再び電燈を点けて布団から跳ね起きて、最終兵器を持って来る。殺虫剤のスプレーである。ベッドの下、天井の四隅、家具の影。奴が潜みそうな場所にスプレーをする。そして殺虫剤をまいた部屋にすぐ寝るのは嫌なので、しばらく他の部屋で本を読みながら待機する。
 蚊も刺しても痒くならなければ、殺されぬものをと思ってしまう。出産前のメスが、出産に向けた栄養補給のために、人や動物の血を必要とし、刺した後、血の凝固を防ぐ成分を人や動物に注入するのだと聞いたことがある。その成分が痒さの元らしい。私の血でよろしければ分けてあげるから、恩を仇で返す様な、あの痒くなる仕打ちだけは止めてくれない。
 鳴きもせでぐさと刺す蚊や田原坂
 夏目漱石も蚊に刺されたときに、鳴かないで黙って刺す蚊を、お前は卑怯だ、と怒ったのだろうか。熊本市の北西部にある西南戦争の古戦場、田原坂で明治の文豪、夏目漱石が読んだ俳句だ。熊本の地方紙、熊本日日新聞に連載中の「漱石くまもとの句」というコーナーで俳人の坪内稔典さんがそう紹介していた。
 ちなみに文豪の一句と較べようもないが、私のブログにも「蚊」という掌の小説を2011年5月31日に載せている。ぜひご一読ください。
 蚊のシーズンには、外回りのちょっとした水たまりに蚊の幼虫のボウフラが湧いてしまう。そこで、極力水がたまりそうな空き缶やプラスチックの容器、バケツなどは裏返して水がたまらぬようにしておく。睡蓮鉢などには事業所で飼っている熱帯魚のグッピーを、一つの鉢にオスとメスのペアで数匹ずつ放す。気温が20度を下回らない間は、熱帯魚もヒーター無しで死ぬことはない。それどころか、生き餌のボウフラをたらふく食べたグッピーは、体格も大きくなって本来の水槽のものよりたくましく育ち、数匹だったグッピーは、夏の間で数倍、数十倍にも数を増やす。秋には希望者に分けないと、元々の水槽の人口密度(?)が高くなり過ぎてしまう程だ。
 下水道も普及し、道路も路地に至るまで舗装されて、水たまりが少なくなった。日本家屋も密閉型の家が増え、屋内に侵入することも至難の業だろう。多分蚊の方も住みにくい世の中になったものだと嘆いているかもしれない。
(2013.5.28)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マグロが車を運転する

2013年05月21日 | エッセイ

▲新緑と青い海と空。天草上島のオレンジロードから見た雲仙。

 マグロが車を運転する

 私は高校時代、3段変速機付きの自転車で通学した。信号無視こそしなかったが可能な限りスピードを出し、約5キロの距離を信号待ちなども含めて片道20分で走った。朝早く登校していたので、もともとそんなに急ぐ必要は無く、ただ所用時間の新記録を作りたい一心だった。
 この「1秒でも早く目的地に着くことをよし」とする気持ちは、長じて車の運転をするようになってからも変わらなかった。スピードオーバーや信号無視、一旦停止無視などの交通違反やマナー違反はしないものの、可能な限りは急ぎ、その結果急発進や急ブレーキの多い乱暴運転になった。いや正直に言うと、スピードも常に速度規制を10キロ上回る速度で走っているし、規制以下のノロノロ運転をする前の車に幅寄せやパッシングの意地悪をしていたこともある。
 亡くなった父は、日常のあらゆることに対してせっかちだった。私が運転する車に同乗するときは必ず助手席に座ったが、居眠りしている以外の時は、前を走る車がノロいとか、狭い道をすれ違う際に道を譲ったこちらに礼をしないとか、ウインカーを出さないなど、周囲の車の運転をいちいち非難した。また前方の赤信号や黄信号にも反応し、特に青信号から黄信号に変わった時点で停車すると、必ず舌打ちをするかため息をついて悔やんでいた。
 実は恥ずかしながら若い頃というか、ついちょっと前の私も車の運転中は父と同様の悪態をつき通しだった。運転中に見る周りの車や自転車や歩行者の交通規則違反やマナー違反をきびしく指摘するのである。
 自転車に対し、「こらあ、1列で走らんかい」「自転車は左側通行だろ」「夜はライトを点けんかい」。歩行者に対し、「歩行者信号は赤だろ」「しゃべりながらダラダラ歩かんで、横断歩道はさっさと渡らんかい」。
 私の兄弟とその子ども達が集まった席で車の運転の話しになり、甥っ子、姪っ子達が「ウチのお母さんも車の運転中は人が変わったみたいに周りの車に大声で怒鳴りっぱなしだ」と言い出した。私達兄弟はそれぞれの子ども達から、普段どちらかというと控えめで静かな人柄が、車の運転中は一変することを指摘されたのだ。「車を運転中の性格が本来のあなたです」みたいな標語があったが、血は争えぬものだ。父親の運転中の性格を兄弟皆引き継いでいたのだ。
 その上に私の場合、一刻も早く目的地に着くことを目指していたから、信号停止でイライラし、道の先が渋滞しているとわかると脇道にハンドルを切り、一時でも停まることを避けた。そんな私の運転は、家族から眠るときも泳ぎ続けないと死んでしまうマグロに喩えられた。
 ところが、若い頃は黙って同乗していた家人が、夫婦間の力関係の変化から、私の運転に対してクレームを言うようになった。急発進、急ブレーキ、悪態をつきながらの運転を禁止され、止めないなら私の運転する車に乗らないと宣言されてしまった。
 「自分も赤信号でうっかり交差点に突っ込むこともあるじゃない」「信号が青に変わったのを気がつかない時もあるでしょ」「他人に対してはきびしくて、自分には甘く、自分が同じことをしても『ゴメン、ゴメン』と言うだけ」「周りの車の中で『バカ』とか『免許持っとるか』と悪態をつかれているかもよ」
 そう指摘された。その通り。反論が出来ない。考えたら、いつもは優良運転をしている人が、たまたまうっかりウインカーを出すことを忘れたのかもしれない。とても急ぐ理由があって生まれて初めて信号無視をしたのかもしれない。こんなふうに腹を立てる前に相手のことを少し考えると怒ることも少ない。
 最近は、エコドライブのことも考えて、急発進、急ブレーキの無い、やさしい運転を心がけている。その前に目的地に早く着きたいという願望も少なくなった。どんなに急いでも所用時間はそれ程違わない。急ぐことで起きる事故のリスクやイライラも考えて、ゆっくり走る選択をした。
 渋滞は嫌だし、信号には引っかからない方がラッキーだと思うし、60キロ制限の道を60キロ越さないで走るプリウスに腹が立つこともあるけれど。
(2013.5.21)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トタン屋根のスズメとパン

2013年05月14日 | エッセイ

▲数年、咲き続けるナデシコはエラい

 トタン屋根のスズメとパン

 昭和49年の春、熊本の高校を卒業して都内の美術系予備校に通うために、女子大の4年生だった姉と千葉県の市川市で1年間同居した。翌年の春に姉が卒業して熊本に帰ってからの一人暮らし程ではなかったが、住み慣れた故郷や家族と離れて暮らすことは、正直寂しかった。
 日曜日に、私達の木造アパートの2階の窓をあけ、窓辺に置いていた小さな卓袱台で一人遅い朝食を食べていると(姉は早朝から何処かへ出かけていたらしい)、窓のすぐ下にあるひさしのトタンの上にスズメが数羽降りて来て鳴き始めた。ふと思いつきで、ひとかけらの食パンをそっとひさしの上に投げた。当然、スズメは驚いて飛び立ってしまった。が、すぐに舞い戻った。そして数羽でパンのひとかけらをめぐって何やら鳴き交わしながら、パンの奪い合いを始めた。その騒ぎを聞きつけたのか、次々にスズメが舞い降りて来て大騒動になった。



 私が食べていたなら一口、そして数秒で飲み込んでしまうパンのひとかけらをたくさんのスズメ達が鳴き交わし奪い合う様子に、いっとき寂しさを忘れて見入ってしまった。狭いトタン屋根の劇場で繰り広げられる劇の観客になったようだった。その後も味をしめて、私はトタン屋根のスズメ劇を観劇した。
 故郷を離れて暮らし始めて、いろんなことで故郷との違いを感じたが、スズメに関しても、都会と田舎の違いを感じた。熊本のスズメは、かなり離れていても人の姿が視界に入った途端に飛んで行ってしまう。ところが東京のスズメは、道沿いの家の塀の上にとまっているスズメのすぐ横を私が歩いてもすぐに逃げない。こちらが知らぬふりをしていると、2メートル程の至近距離であってもそのまま塀の上に留まっていることさえある。これには「えっ」と驚いた。
 近年はスズメの評価が変わり、稲などを食べる害鳥から稲などの農作物に被害を与える虫を駆除してくれる益鳥となっているが、当時スズメは害鳥とされ、農業と関係の無い動物好きの私でさえ、それだけで何だかスズメをにくたらしく思っていたし、子ども達は脅かして追ったり、石を投げたりした(害鳥、益鳥という区別も人間の利己的な区別で鳥には全く罪はないのだが‥‥)。一方、代表的な益鳥であるツバメに対しては、子どもながらに常に感謝の気持ちを抱いていたし、大人も家の軒を貸してヘビなどから守ってくれていた。さらにスズメに対しては、空気銃やかすみ網でスズメを捕獲し、焼き鳥にして食べることも行われていたのだ。従ってスズメの方も、人間を恐れる習慣が深くしみ込んでいたものと思われる。そんな熊本のスズメに対し、都会では、スズメを嫌う農家が少なく、また忙しそうな都会の人達がスズメの相手をする暇がないので、スズメの方も人に対する警戒心が薄れてきていたのかもしれない。
 東京よりスズメと人間の関係がさらによい関係なのが、ヨーロッパで出会ったスズメ達だ。若い頃、パリに2年間住んでいたが、休日はポケットにパンを忍ばせて公園に行き、ベンチに座ってスズメと遊んだ。人に対する警戒心が薄く、私がパンを持っていると知ると、たくさんのスズメが肩や手に舞い降りてくるのだ。やや模様の違う種類もいたが、日本と同じ茶色い帽子のスズメが初対面の私の掌でパンをついばむことは、不思議な感じと同時にやはり異邦人としての寂しさを紛らしてくれる小さな楽しみだった。
 それから30年以上が過ぎても、熊本のスズメ達は人間への警戒心が薄れずに人との距離間は変わらない。きっと熊本のスズメにはDNAレベルで人への警戒が深く刻まれているのだろう。いつか熊本のスズメも掌に乗ってくれる日がくるのだろうか。
 数日前の報道で、愛鳥週間に関係したものだろうが、ツバメが巣をかけたら壊さないで見守ってほしいとの呼びかけが行われていた。近年はツバメが巣をかけると糞が落ちて迷惑と巣を作りにきたツバメを追い払う人が増えているそうだ。そんなことも一因となってツバメの数が急激に減ってきているとのこと。若い人にはスズメが害鳥と言われていたことやツバメが益鳥という認識も無くなっているのかもしれない。
(2013.5.14)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トンビと巣箱と愛鳥週間

2013年05月11日 | ポエム

▲天草の下島に仕事の用で行く途中、眺めがいいという広域農道を初めて走った。新緑のオレンジロードは、すれ違った車は2台だけなのが、もったいない程新緑がきれいだった(2013.5.2)。

 トンビと巣箱と愛鳥週間

 大型連休後半の4日に、その日は休日当番だったので実家である勤務先に出勤し、実家の玄関のカギをあけていると、視界の端に何やら大きな生き物の姿が映った。
 鳶(トンビ)だった。
 生きてはいるが、植え込みの陰でじっとして飛ぶ気配がないので、ケガをしているか病気だと思った。いったん家の中に入るとすぐに、「カアー、カアー」とカラスが大騒ぎを始めた。私はすぐに玄関先に戻り、カラスを追った。
 カラスに追われて植え込みの暗い陰から明るい場所に移動した鳶は、左目を襲われて負傷していた。その他には見た目には外傷は見当たらない。猛禽類の凛とした美しさがある。ただしかなり衰弱しているようで、私が近づいてもじっとしている。そのままではまたカラスに襲われてしまうので、ミカンの収穫用の大きなプラスチックの箱を鳶にすっぽりと被せて、ブロックを1個重しに載せた。ついでに気休めだが深めの皿に水を入れて箱の中にいれておいた。
 鳶が落鳥した原因は、カラスに襲われているうちに、ケガをしたせいだと考えられる。普段からカラスは、鳶を標的にしている。大きさや姿からは鳶の方が強そうに思えるが、大きな鳶が数羽のカラスにしつこく追われて逃げ惑う様子を日頃からよく目にしていた。つぶれた目は落鳥後にカラスにつかれたか、カラスとの空中戦で目をやられ、そのせいで落鳥したのか。ただ時期的に鳥インフルエンザのことが頭にあった。
 休日なので市役所の窓口は休み。まず警察に相談。折り返し電話があり「対応がわからないので、県の鳥獣保護センターに対応を聞いて」との回答。センターに電話し、状況を報告すると、鳥インフルエンザの心配は無いとのこと。死んだ場合の対応を尋ねると、ゴミ袋に入れて生ゴミの取扱になるそうだ。箱から出すとすぐにカラスか犬に教われるだろうから、そのまま箱の中で静かに死を迎えてもらうことにした。
 5日、6日の連休は、南阿蘇村の山小屋に泊まりがけで行き、朝一番に冬の間木から降ろしていた鳥の巣箱を掃除した。私が手作りした5つの巣箱は、ネジを外して屋根をはずすと3つの巣箱の中に、羽根や草で出来た営巣の跡があった。それらをきれいに取り出して、再び屋根をつけ、庭の木に4個取り付けた。1個は一部が腐っていたので補修する必要がある。そうやってもう20年近く、修理しながら使っている自作の巣箱で毎年ヒナが巣立っていく。一度は、一つの巣箱がヘビに襲われたことがあった。巣箱にある小さな穴から外を覗く顔がどうも鳥ではなさそうだと思い、双眼鏡で見るとヘビだった。
 毎年、巣箱をかけてしばらくすると、親鳥が出入りするところを見かける。ほとんどがシジュウカラだ。去年の新築の巣箱には、かけたその日にスズメが出入りしていた。鳥は飛ぶことの専門家だから当然なのかもしれないが、結構なスピードで飛んで来て、身体ギリギリの小さな穴にスポッと上手に巣箱の中に入るのには、感心してしまう。今年もいくつの巣箱に営巣してくれるだろう。
 考えたら5月10日から愛鳥週間だった。愛鳥週間にちなんだ訳ではないが、私の本棚から中西悟堂氏の古い随筆を見つけて先日から少しずつ読んでいる。随筆に書かれた氏の鳥に対する執着と愛情は少し常規を逸している。私も鳥は大好きだが、氏のような執着や愛情はない。ただ鳥の声を聴いて楽しみ、自分が作った巣箱に小鳥が出入りする様子や、エサ台のミカンなどをついばむ様子を見て喜ぶ。ただそれだけだ。
 かの鳶は連休明けには箱の下で死んでいた。ビニール袋に入れようと持ち上げると、カラスより二まわりは大きい身体の割に、軽いことに驚いた。私の仕事場でもある実家のある天草は、海に囲まれた島である。空を見上げる私は、鳶の姿を毎日のように見かける。時には、小さな点に見えるほど、空の高い高いところをクルクルと円を描いて飛んでいる。こんなに軽いからこそ、上昇気流に乗って,空高く飛べるのだと納得した。
 数日前まで、私のあこがれる空の高みで飛んでいたその死んだ鳶の元気な姿が一瞬頭に浮かんだ。(2013.5.10)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする