無関心(銭湯にて)
私が熊本の高校を卒業して上京したのは、その年の春に美術大学の入試に失敗し、都内にある美術系予備校に通うためだった。
上京と言っても実際に住むことになったのは千葉県で、大学四年の姉の卒業までの一年間は東京から江戸川を渡った国鉄市川駅の南口から歩いて十分ほどの二間の古い木造アパートに姉と二人で住むことになった。
一緒に上京した同級生のアパートは皆、風呂無しで共同トイレだったが、私と姉の部屋にはトイレが付いていて、それだけでもぜいたくなことだった。お風呂は歩いて数分の所にあった銭湯に通った。まだ内風呂の付いた賃貸アパートは稀で、友人知人のほとんどが銭湯を利用していた。
昭和四十九(一九七四)年。
前年に発売されたフォークグループ、かぐや姫の「神田川」が流行していた頃で、洗面器をカタカタ言わせながらサンダル履きで銭湯へ行く生活は三畳一間でこそなかったがその歌詞の世界と重なった。
銭湯に行くときは洗面器に石けんの他にシャンプーとひげ剃りを入れ、紙袋に着替えとタオル、週に何度かは脱衣場にある数台のコインランドリーで洗濯をするために、洗濯物の汚れ物も持って行った。入浴中に洗濯を済ませるのだ。番台の前で髪を洗うか洗わないか申告をして入浴料を払う。洗髪するかしないで入浴料がわずかに違っていた。
銭湯はいつ行ってもある程度混雑していた。多い時間帯は三、四十人分はある洗い場があくのを待つ程だった。
上京して数ヶ月。初めて家を出て、都会の暮らしにもすっかり馴染んでいた。
その日はめずらしく夕食前の早い時間に銭湯に行った。高い天井の高い位置にあるガラス窓から幾分黄色がかった陽が差し込んでいた。いつもと違って小さな子ども連れもいて、お湯の流す音やプラスチックの桶と浴場のタイルが当たる音が響く中に子どもの甲高い声が混じっていた。
私は身体が温まると空いている洗い場に向かい、小さなプラスチックの椅子を洗って座った。
水垢の付いたガラスに映る自分の顔を見た後、タオルに石けんをこすりつけ身体を洗い始めた。胸、腹、背中、腕、そして足。
身体を洗い終えて石けんの泡を流し、ふと左の腕を見ると十センチ程の切り傷があることに気がついた。
「あれっ。いつの間に切ったのだろう」
ケガをした記憶も痛みも無かった。
するとすぐに、同じ左手の甲にも細いけれどはっきりとした五、六センチの切り傷があるのに気がついた。さらに左腕を裏返してみるとそこには腕の上下にそって二十センチもの長さの大きなやや深い傷があった。これほどの傷なのに、やはりケガの記憶や痛みが無かった。
疑問に思ってあわてて右腕を見ると、そちらにもいくつかの大小の新しい傷や古い傷がある。
「えッ」と思い、よくよく全身を確かめるとあちらこちらに切り傷があった。
これだけの数の傷があるのかも不思議だが、なぜ痛みが無く、今までケガをしていることにさえ気がつかなかったのだろう。
左腕の裏にある一番大きな傷跡を改めて見ると、これだけの傷であれば、かなりの出血が避けられないはずだ。それより何よりケガをした時やその後の痛みが無いことが理解に苦しむのだ。
私がそうやって手を止めて鏡の前で呆然としていることに気がついたのか、となりで身体を洗っていた陽に焼けた痩せた三十代の男が、そんな私をじっと見ていた。
「兄さん。知らない内にケガしていたんだね」
私は突然声をかけられたことに驚きながらも「はい」と、素直に答えていた。
「そう。でも兄さんは早く気がついて良かったよ」
男はそう言いながら両手を私の目の前に拡げて見せた。その左右の掌の指はそれぞれ薬指が根元から無くて四本だった。
「ほらっ。あっしなんか気がついたら指が二本も無くなっていたんですぜ」
「で、どうしたら傷はできなくなるんですか」
私はすがるように思わず男にたずねた。
男はザブンと風呂桶のお湯を頭から被った後で言った。
「兄さんは傷のうちに気がついたんだから、これからは無くさないように自分の身体にいつも関心を持っときな」
(2016/3/24)