翻訳本
前回に続いて本と読書の話題。
「図書館に通う」と題した前回のブログの最後に、図書館から貸し出しを受けた本の1ページに子どもが書いたグルグル書きのマジックの落書きがあり、それを見て心があたたかくなったことを書いた。その後日談。
落書きのある本を借りていた他の数冊と一緒に返却カウンターに渡した後、図書館内でその日に新たに借りたい本を探していると、先程返却カウンターにいた担当の女性が私を追いかけてきた。返したばかりの本を手にしている。
「これは‥‥」とページを開いて見せられたのは、その落書きのあった本。私の行為ではないことを確認した後での注意は「今度から破損や汚れを見つけたら返却のときに教えてください」とのことでした。知らなかった。
ところで前回の貸し出しにはめずらしく翻訳本が一冊あった。村上春樹訳の米国の作家、レイモンド・チャンドラーの小説だ。
海外の作家の文学作品を読みたい場合、残念ながら私は翻訳に頼るしかない。一番勉強してきたはずの英語の作品でさえ原書では読めない。画集以外で原書を買ったのは、英国の作家J.K.ローリングの世界的ベストセラー、ハリー・ポッター。同シリーズにすっかりはまって、もちろん翻訳本を読んでいたのだが新作の「炎のゴブレット」の翻訳本の発売が待てずに無謀にも原書を買ってしまった。辞書を手に挑戦したが半分も読まないうちに日本語の翻訳本が発売になってしまい、唯一の原書読破は挫折に終わった。我ながら情けない英語力だ。
私の本好きは高校時代に日本の純文学から始まった。海外の作品は手つかずに年が過ぎ、世界的に有名な作家や作品もはずかしながら読んだことがない。
翻訳本を読むようになったのには、自分の目と足で外国を歩いた経験から海外の作品の舞台の情景や雰囲気が想像出来るようになったことが大きい。
二十歳の頃にヨーロッパを3ヶ月一人で旅行した。その時、日本語の活字に飢えてしまい、出会った日本人旅行者などと本や週刊誌を交換してそれらを隅から隅まで読んだことを機会に、日本の純文学のみだった私の読書の枠が強制的に広がった。日本語であれば大衆小説、時代小説、あやしい小説、そして海外の作家の翻訳本まで貪り、気がつくと本の垣根が無くなってしまった。
ただ未だに海外を舞台にした翻訳本などを読むことには難点がある。
それは登場人物の名前が覚えられないことだ。
英語圏の作品であれば、意味のわかる名前(ブラウンさんは「茶色」で、カーペンターさんは「大工さん」のことなど)もあり聞き慣れた名前も多い。でもほとんどの名前は私にとって意味のないカタカナの羅列でしかない。
その上に、ファーストネームとファミリーネームの問題がある。日本人作家の作品であればそこら辺は統一されていて、姓名で登場した人は最後迄姓名で書かれ、小説の途中で下の名前やあだ名で表現されることはない。ところが翻訳本を読んでいると最初にフルネームで登場し、その後ずっとジャクソンで表記されていた人物が突然マイケルと表記されていたりして、私の混乱を招く。
また名前に馴染みが無いものだから、似た様な名前の人物がごっちゃになってしまう問題もある。さすがに辻褄が合わなくなって「???」と、もう一度読み返して二人の登場人物を混同していたことに気がつく。気がついた時点ではもうすっかり混同された人物の言動によるメージが私の頭の中で固定されていて取り返しがつかないことにもなる。特に推理小説では致命的である。
また中国を舞台にした作品も同じ漢字表記ながら登場人物の名前をなかなか覚えらない。そう言えば中国の有名な三国志も人名で挫折してしまった。
うーん。これには馴染みの無いカタカナの羅列という問題だけでなく、どうやら近年急速な衰えをみせる私の脳の記憶問題もありそうだ。
しかしふと考えてみたら翻訳本の扉近くには必ずと言ってよい程、登場人物を説明した一覧のページがあるではないかい。私と同じように、読みながら登場人物の名前が混乱してしまう悩みを持つ人は少なくないのかもしれない。
(2015.4.30)