雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

電熱器とチキンライスと赤ご飯

2013年03月26日 | エッセイ
▲バタバタと満開になった印象の今年の桜と熊本城の長塀と飯田丸。

 電熱器とチキンライスと赤ご飯
 
 学校の理科の実験室では、現在も電熱器を使っているのだろうか?
 コンセントを入れてスイッチを押すと、渦巻き型に巻かれたコイルが赤くなって発熱する調理器具のことだ。試験管の中身や小さな金属などを熱する時は、アルコールランプを用い、電熱器はビーカーの水を沸かすときなどに使われた。高校の頃は、美術部で自作のカンバスを作る行程で、棒ニカワを水に溶かす際に電熱器を使った。その部室の電熱器と鍋は、ふだんは部員がインスタントのラーメンや焼きそばを作る時も重宝した。
 家人の実家の茶の間は、畳の部屋で、中央に大きな卓袱台がある。
 その卓袱台の真ん中には、炉が切ってあり、いつも電熱器とその上に小さめの薬缶が置いてある。義母は長らく茶道を趣味の中心に生きて来ており、私や私の家族が訪ねると、決まって薄茶をたててくれる。
 そのために、炉の付いた卓袱台を使ってきたのだと思うが、茶の間で煎茶を飲む時は電気ポットを利用し、薄茶をたてるときは、すぐ横の台所のガスレンジで沸かしたお湯をつかっているようだ。恐らく、電熱器はかつて使用していたものをあえて取り外すこともなく、そのままになっているのだと思われる。
 昭和30年代前半の私が小さい頃に、祖母に連れられてよく訪ねていた佐賀県唐津の叔母の家は、工場に勤める叔父が田んぼや畑も作る半農の家庭で、家には農耕に使う馬をはじめ、牛や羊やニワトリがいた。
 家は、玄関を入ると土間があり、右手の高い段差を昇ると仏間とさらにお座敷、玄関と土間続きの奥には台所があった。台所の横には仏間と続きの茶の間があり、台所に立つには茶の間からいちいち高い段差を上り下りし、下駄やサンダルを使わなければならなかった。
 広い土間の台所には、竃があったはずだが、薪で調理をしていた記憶が私には無いので、恐らくプロパンガスのコンロを使用していたのだろう。私がはっきり記憶しているのは、そこに渦巻き型電熱器があったことだ。
 その電熱器とセットの記憶は、その電熱器で叔母が作ってくれたチキンライスだ。当時の私はそのケチャップライスのことを「赤ご飯」と言っていた。
 今、私が作るならタマネギやマッシュルームなどのキノコを炒めてチキンライスを作り、最後に卵で包んでオムライスにすることが多い。あればケチャップだけではなくトマトピューレを半分混ぜて、よりさらっとした味に仕上げる。オムライスにかけるソースは、ケチャップ単独ではなく、ウスターソース、トンカツソース、マスタード、醤油、赤ワインなどをケチャップに混ぜて一度煮立てたものをかける。それより上等なときは、ドミグラソースをたっぷり。ビーフシチューやハッシュドビーフを作ったら、ソースを多めにして後日オムライスを作ったときのために冷凍しておくのだ。
 鶏肉とごはんの組み合わせは、私の大いなる好みであって、オムライスや親子丼、鶏そぼろのかかった三食ごはん、それから釜飯屋では、エビカニ類よりも鶏釜飯を選んでしまうし、奄美にある鶏飯、駅弁なら折尾のかしわ飯が大好物。思えば我ながら「お子ちゃま」嗜好なのだ。
 叔母の赤ご飯は、私にとっては心躍るメニューだったが、材料は鶏肉とケチャップの記憶しかない。ご飯はベトベトでお焦げもあり、溶けたマーガリンの独特の香りがした。その赤ご飯こと叔母さんのチキンライスとセットになっている強烈な記憶がある。
 それは叔母の家で飼っているニワトリをつぶすシーン。首を切られた鶏が庭を一直線に駆けるシュールな情景だ。ニワトリは、お祭りか来客のご馳走を作るためにつぶしたのであって、赤ご飯ことチキンライスは、そのおこぼれで幼い私のためのメニューになったのだろう。
 その次の思い出は、ぬるま湯につけた首のないニワトリの毛をプチプチとむしる感触。私はたぶん少し手伝っただけだろうが、もしかしたら毛をむしりながら涎をたらしていたかもしれない。(2013.3.25)
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遠くで汽笛を聞きながら

2013年03月23日 | ポエム

 遠くで遠くで汽笛を聞きながら

 春分の日の雨があがった夕方ちょっとだけ趣味の庭仕事をした。
 5時過ぎ。庭にいた私の耳に蒸気機関車、SLの汽笛がかすかに聞こえて来る。アリスの「遠くで汽笛を聞きながら」という歌が浮かんできて口ずさむ。
 その朝は、前夜飲み会があったために実家でもある上天草市の仕事先に泊り、休日の雨音にがっかりしながら目を覚ました。豆腐のみそ汁と納豆、目玉焼き(片目)とトマトサラダの朝ご飯を食べ、洗濯をして熊本市内の自宅に向かう。
 途中、国道57号線沿いにある宇土市の宇土マリーナという道の駅に、蛤があればと寄ってみた。目当ての蛤はあったが、袋入りはすべて1000円近くして断念。夫婦二人にお吸い物の具に2個ずつあれば十分なのだが、4~5個入で価格設定を安くしたパックを作ったらもっと売れないだろうかと思う。代わりに350円のアサリ飯弁当を買う。アサリの出汁で炊いたご飯に甘辛く煮たアサリのむき身がいっぱいのっている。付け合わせにイモの天ぷらやレンコン、人参、大根、厚揚げの煮物と大きく黄色い沢庵が二つ付いていて(写真を撮って食べるべきだった)、小振りだが内容充実。ただし人気があるらしく、早めに買いに行かないと売り切れている。お昼に家人と長男と3人で食べた。 
 夕方聞こえた汽笛は、3年前に亡くなった父と同じ、大正11年生まれの58654機、通称ハチロク。JR九州の人気の観光列車「SL人吉号」だ。冬場の点検整備を終え、今年も先週土曜から元気に走り出していた。週4日の運転日には、朝と夕方、自宅にいてSLの汽笛を聞くことができる幸せを感じる。
 私の中学高校時代は、昭和40年代で急速に無煙化(SLを廃しディーゼル化や電化すること)が進みつつあった時代だが、熊本ではまだまだSLが活躍していた。真夜中にふと目が覚めたときに、耳を澄ますと数キロ離れた豊肥本線の南熊本駅にあった広い操車場で貨物列車の入れ替え作業をする蒸気機関車(多分C11)の音が不思議な程はっきりと聞こえてくることがあった。
 「ガチャン」という連結のときの音。
 「シュッ、シュッ、シュッ、シュッ」というドラフトの音。
 ブレーキがかけられ、レールと車輪がきしむ「キーッ」という音。
 そして「ポッ」と短く控えめな汽笛。
 当時、鹿児島本線を上り東京へ向かう寝台特急の「みずほ」や「はやぶさ」は、さすがに電気機関車の牽引となっていたが、まだ列車のことを「汽車」と言っていて(私は未だに鉄道のことを汽車と言ってしまい家人や子ども達にバカにされる)、東京に行くと言えば、汽車で行くことを意味していた。汽笛=列車=上京、みたいな公式があって、SLの汽笛には、今聞いても特別な感傷が沸いてきてしまうのである。アリスの名曲、「遠くで汽笛を聞きながら」もおそらくそんな似たような時代背景があるに違いない。
 汽笛と言えば、私の実家であり仕事先の上天草市は、海に囲まれた島である。橋で九州本土と結ばれてやがて半世紀。島であることを日頃忘れてしまいがちだ。だが朝方に近くの港を出港する船の汽笛が聞こえて来たりして、島にいることを再認識したりする。
 都はるみが歌ってヒットした「涙の連絡船」には、「今夜も汽笛が、汽笛が,汽笛が」とくり返すフレーズがある。作詞をされた関沢新一さんは鉄道好きで鉄道関係の著作も多く、その中で涙の連絡船の歌詞の中の汽笛は、もとはSLの汽笛だったという話しをされていた。だったらアリスの曲の汽笛も港町の話で、船の汽笛かもしれないなあ。いずれにしても汽車も汽船もその汽笛には心に響くものがありますね。
 昭和49年の春、私はそんな遠くで鳴る汽笛が聞こえる町を出て、上京した。
 この春も、同じように進学や就職などで、熊本から上京する子ども達も多いことだろう。汽笛も鳴らさずにあっという間に飛び去って行く飛行機で。
 家を出て数時間後には東京にいる現在と、一晩列車に揺られて上京した私達とは、故郷を離れる覚悟も寂しさもまた違うのかも知れない。
(2013.3.22)

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母黌の目標は、甲子園優勝!

2013年03月19日 | ポエム

▲春霞か、黄砂か、PM2.5か、今日の空と雲(2013.3.19)

 母黌の目標は、甲子園優勝!

 サッカー女子日本代表のなでしこジャパンは、2011年ドイツで開催されたサッカー女子ワールドカップで初優勝。2012年のロンドンオリンピックでも初のメダル(銀)を獲得し、大震災後の日本に誇りと勇気をもたらしてくれた。
 「北京では、ベスト4を目標にしていた我々と、優勝を目指していたトップ3とで明らかなモチベーションの差があった。今大会は優勝を目指してきた」。ドイツワールドカップの準決勝戦の前日のインタビューで、佐々木監督が口にした「目標を高く掲げて試合に臨む大切さ」が優勝後にも印象に残った。
 世界とスケールが違う熊本県内の話しだが、毎年夏の全国高校野球大会の熊本県予選の組み合わせが決まり、県内の参加チームの紹介が新聞やテレビで報道される。各チームのキャプテンにインタビューが行われ、その中で県大会の臨む目標が必ず問われている。「ベスト16です」。「ベスト8です」。「2回戦突破です」。「1勝して藤崎台球場で校歌を歌いたい」など、それぞれのチームの実力や成績にあった目標をあげる。
 もちろん、九州学院や熊本工業といった甲子園出場の常連校や前年の秋の大会で好結果を残しているシード校に選ばれたチームが「甲子園出場」を目標にしていることは、むしろ当然で誰でも納得が出来る。
 その常連校やシード校に混じって、私の母黌の熊本県立済々黌高校野球部の目標も、毎年必ず「優勝。甲子園出場」なのである。
 ここ数年は秋の新人戦から始まる公式戦で、ほとんど2回戦くらいで敗退しているにもかかわらず、甲子園どころかその年の県内の実力校が選抜されて開催されるRKK旗大会、NHK旗大会などの地方大会の出場さえも遠のいている現実の中、もしかしたら関係者や高校野球ファンの失笑を買いそうな実力以上の高い目標である。
 「そこが好きたいねえ」と、元気を振るう済々黌の選手に私は拍手を送る。
 そして夏の県大会が始まると選手達は実力以上の力を出して、優勝こそ逃してきたが、毎年ノーシードながらベスト8やベスト4に駆け上って来る。多分、対戦相手は出来たら夏の予選では当たりたくないイヤーなチームだと思っていることだろう。それから目標を果たせずに敗戦した後に、球場の隅で号泣する選手達を見て「ああ、彼らは本気で甲子園に行けると思っていたのだ」ということを感じる。
 昨年の夏は、左腕大竹投手を擁して久しぶりのシード校にも選ばれて、堂々と優勝の目標をあげていることを関係者や高校野球ファン誰しも納得しただろう。実際の試合でも順当に第4シードの責任を果たして勝ち上がり、準決勝で格上の九州学院を1対0で破り、決勝も逆転勝ちをして目標を果たした。続く秋の大会の県大会では、夏に甲子園に出場したチームの風格さえ感じた試合運びで、決勝戦で熊本工業に完敗したものの、九州大会に出場。これがあの済々黌だろうかというような強さで決勝まで快勝し、決勝戦はエース大竹に連投の疲れが出て9回に打ち込まれて負けたが、みごと準優勝で春の選抜の切符を手に入れた。後で聞くと選手達は神宮大会を目標にしていたと知り感心した。
 ところで、済々黌野球部の選手達が目標を高く掲げることの理由は、綱領にある「元気を振るう」ところによるものだと先輩は「よしよし」と頷いていたのだが、実は他にも理由があることを知った。
 済々黌野球部の池田監督は、現役のときに甲子園に出場されたのであるが、その時に甲子園1勝を目標に出場、結果2戦目に敗退し、「自分達は、なぜ優勝を目標に臨まなかったのか。優勝を目標にしていたら結果も違っていたのではないか」と、後悔したというような内容の話をされている。自らの経験から選手達に優勝を目標にするように、指導されているのではないか。
 だから当然、彼らの春の甲子園の目標は優勝だ。事情通に失笑を買おうとも、それでいいのだ。我々OBを含めてた応援団も「甲子園を菜の花に」を合い言葉に、スクールカラーの黄色の大応援団を送り目標は大きく、センバツ応援団賞の最優秀賞を目指すのだ。
(2013.3.19)

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大震災と九州新幹線開業のその日の私

2013年03月15日 | ポエム

 大震災と九州新幹線開業のその日の私

 月曜日は、3.11。地元の防災無線放送から流れるサイレンに併せて黙祷をした。私はこの2年間、東日本大震災に関して何をしたのだろう。何ができたのだろう。テレビや新聞の報道や関連の番組などに触れる度に、正直うしろめたい心持ちがするのはなぜだろう。大震災や原発事故に対しての考えはまとまらないまま2年が過ぎ、とのかくその日と翌日の私のことを記録しておくことにした。
 2年前の3月11日の午後。私は勤務先である実家の事業所にいて、テレビもラジオも無い環境のなかで日常の仕事をしていた。
 九州新幹線の全線開業を翌日に控え、熊本県全体がお祭りの前夜の様相だった。鉄道好きの私自身にとっても、子どもの頃からの熊本駅に新幹線がやってくるという40年来の夢がいよいよ現実となるワクワクした心持ちだった。
 大地震の一報を聞いたのは4時過ぎ。事業所を訪ねて来る外部の方の口からだった。ほとんど前後してネットを通じた情報で知った兄からも。
 「何で今日なんだ。明日はお祝いなのに‥‥」
 東日本で何が起こっているのか把握していない私は、そう思いながら急いで居間のテレビを見にいった。
 テレビの画面で私自身が最初に見た大震災は、堤防を越えた津波が田んぼを走り、所々の家や道路を飲み込んでいるヘリコプターからの画面。生の映像には、津波がすぐ近くまで迫って来ている道路を走っている車が映っている。しかも中には津波に向かって走っている車もある。
 上空からの映像は淡々と現実とは思えない過酷な現実を追っている。
 「これは大変なことになった。どれだけの人が亡くなるか。未曾有の出来事だ。九州新幹線全線開業のお祝いどころの話しじゃない。日本と日本人は腹をくくってかからねば‥‥」とすぐに思った。
 その次に頭に浮かんだことは、原子力発電所のことだった。
 大震災の数年前に九州電力の玄海原子力発電所を見学した。何重にも備えられた危機管理と装置。
 「原発は絶対安全です」
 私の頭の中では、その時点ではまだその言葉を信じていた。
 ところが東京電力の福島第1原子力発電所に被害が出ているという報道が。私はその報道を知り、怒りを感じた。
 東北の太平洋側の海岸と言えば、我々素人でも一番に津波のことを連想する。想定外の津波の高さだった?そもそも海岸沿いの海抜の低い土地に原発を作ったらいかんでしょう。冷却のために大量の海水が必要であることは玄海発電所の見学の際にも学んだが、海岸沿いで津波の影響の起こり得ない海抜の高い立地は無かったのか。
 安全だという言葉を信じて、原子力発電所に関してあまりにも無知であり無関心だった。私を含めて多くの日本人が同じ罪を犯してしまったのだ。
 「日本はどうなるのだろう。家族を守っていけるのだろうか」
 大きなそして重い不安の中で、テレビの報道を見守りながらも、地震の影響の無い私達には、普段と何ら変わらない日常の生活がある。
 翌日は土曜日で、午前中で勤務が終わった。
 実家で勤務先の上天草市から熊本市内の自宅に車で帰る途中の緑川の河原のその日開通した九州新幹線の高架の側で車を停めた。
 全線開業を心待ちにし、準備をしてこられたJRをはじめ、沿線の関係者の方々も多いだろう。各駅での発車式、パレード。すべての祝賀が中止され、九州新幹線は時刻表通りにただ粛々と走り出した。それは当然の措置だが、3月12日の全国ニュースでは間違いなく主役だったはずの「みずほ」「さくら」「つばめ」。私は川の堤防に立ち高架を見上げて、やって来た上下2本の列車に「おめでとう」と声をかけた。
(2013.3.15)
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一つの駅弁と貧幸

2013年03月09日 | エッセイ
 一つの駅弁と貧幸

 3月8日の私の地元熊本日々新聞のコラムに「貧幸」という言葉が載っていた。
 脚本家の倉本聰さんが「豊かになったら幸せになったと思えない。豊かな不幸か、貧しい幸せか、僕はためらいなく後者をとりたい」と著書『倉本聰の姿勢』の中で書かれた文章がそのコラムで紹介されていた。
 「貧」と「幸」という相反するような二文字の熟語は、聖書の「心の貧しき者は幸いなり」という一説を連想させる。倉本さんの言われる「貧」は、物質的な貧しさであり、聖書に書かれた心の貧しさとは違っている。しかし、聖書の言葉も「物質的な豊かさに恵まれている人は、心が真に求めているものに気がつきにくい。心が求めているものをたくさん持っている人、つまり物質的にも貧しい人は、だから幸せだ」とも解釈できないでしょうか?
 いやー、今回はさすがブログ開設3年目に入り、いきなり高尚ですなあ。
 昭和51年。高校を卒業して、熊本から美大受験のために上京し、実際は千葉県の市川市に住んでいた頃。2浪目の年末年始の帰省を終えて、再び上京する際に、前年の春に博多まで開通したばかりの山陽新幹線を利用することになった。記憶では、1歳年下の同じ美大を目指す同郷の友人と一緒だった。岡山で一旦途中下車し、倉敷を訪ねて大原美術館を見学する計画だった。
 熊本から博多までは、在来線の急行で行った。
 急行電車の普通車は2人がけの椅子が向かい合わせで固定されたボックスシートと呼ばれる形態で、私と友人のボックスシートに同席したのは、質素で控えめな雰囲気の若い男女二人連れだった。
 夫婦だったのだろうか。二人ともほとんど会話も無く、旦那はしばらくして奥さんから手渡された駅弁を開いて一人で食べ始めた。
 「奥さんは食べないの?」と、他人事ながら気にするともなく見ていたら、旦那は半分程食べた幕の内弁当の蓋を開いたまま奥さんに手渡したのだ。
 受け取った奥さんはそれを食べ始めた。そして弁当はもう一度旦那の手に渡り、旦那が残りを完食して片付けられた。
 つまり二人は一つの弁当を二人で分けて食べたのだ。その理由を聞いた訳ではない。二人とも一つの弁当を二人で食べて丁度いい位の少食なのかもしれない。お昼ご飯には少し早い時間だったから、遅めの朝食代わりに半分ずつ食べて、お昼ご飯はまた別に食べるのかも知れない。美味しそうな弁当があったので、味見に買ったのかもしれない。
 しかし、その時の私には、若い夫婦は慎ましやかな生活をしていて、節約のために二人で一つの弁当を食べたのだと感じた。無言の内に箸と弁当が手渡され、人の歯形のついた半分の卵焼きを同じ箸でためらいもなく口にする二人の姿が、清々しく見えて感動した。そしてそこには幸福がにじみ出ていた。
 「これが夫婦なのだな」と、結婚に対する若いあこがれと共に、後々様々な場面で思い出すシーンの一つだ。
 そのときの帰省は、以前この私のブログに登場した国鉄に勤める伯父に新幹線の指定席を取ってもらったのだが、伯父から弁当を差し入れるからとの連絡をもらっていた。伯父は当時博多駅で助役をしていた。制服姿の格好いい伯父から博多駅で受け取ったその弁当というのが、後にも先にも食べたことが無い三段重ねの超豪華弁当だった。
 もちろん18、19の食べ盛り。伯父に感謝しつつ、博多まで同席した若い夫婦の弁当のことも思いつつも、ぺろりと食べ上げてしまった。
 現在に戻って、私と家人は、外食のとき、一人分を分け合って食べることもある。理由は食が細くなったからである。あの夫婦のように、お互いが口に付けた箸やコップを使い、食べかけの食べ物を何の躊躇も無く食べる。夫婦なら当たり前のことだろうが、ときどきふっと第三者的な目で、不思議に思う。
 あの時に垣間みた清貧の生活に今でもあこがれを感じる一方で、目の前の欲望には逆らえない自分もいる。
(2013.3.9)
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