雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

生き物の大きさ

2024年03月01日 | エッセイ
  3月になった。早咲きの桜の話題も聞かれ、近所の庭には沈丁花やコブシの花が咲いて春の足音もはっきりと聞こえてくるようになった。聞こえると言えばこの時期は時間を問わず発情期を迎えて雌猫ネコをめぐる雄ネコ同志の激しい争いの唸り声が聞こえてくる。この雄ネコの争う様子を見たことがありますか?猫パンチや噛みつき足蹴り、毛が飛び散りなかなかの迫力だ。
 その様子を見ていて、もしネコの大きさが今の倍くらいあったら、トラやライオンやヒョウなどのように人間もおちおち近づけない程の猛獣になったしまうのではないだろうかと想像する。ネコは人と共存する進化を選び、人に抱かれ、膝の上に乗って眠るのにちょうど良い大きさになったのだ。
 街でありふれて見かけるカラスが今より2倍ほど大きかったらどうだろう。今の大きさでも十分不気味なイメージがあり、人を襲うこともあるカラスだから相当な恐怖となるに違いない。
 J.K.ローリングの小説「ハリー・ポッター」シリーズには怖がる人の多い、ヘビや蜘蛛の巨大化したものが話の中に登場する。映画となった画面にも巨大なヘビや蜘蛛が登場し、嫌いな人はさぞや恐怖に慄くのではと想像する。
 私自身はどんな理由かわからないがヘビや蜘蛛の対しては、確かに可愛いとか積極的に見たいとか飼いたいとか思わないが恐怖は感じることが無い。まあ、それは実際に生存しているヘビや蜘蛛の大きさでの話で、巨大化したものに対峙したらヘビや蜘蛛、ネコやカラスも恐ろしいに違いない。
 私は実は苦手な生き物がいて、それはカニの一種で、同じカニ類でもワタリガニやタラバガニ、ズワイガニやヤドカリやヤシガニなどが確かに好きではないがそれほど恐怖は感じない。私が苦手なカニはアカテガニと呼ばれる体が黄色と灰色で大きな赤いハサミのカニに限られる。私の生まれ育った島の実家には、それこそありふれて姿が見られるし、下手すると家の中を歩いていたりするので、たまらない。恐怖からゾッと寒気がする。カニの方から勝手に逃げていくのであのハサミに挟まれてしまうことはないのだが、目の端に黄色と赤と灰色が写ろうものならなるべくそちらを見ずにそこから退散するのである。
 もしこのせいぜい10センチ前後のアカテガニが2倍の大きさだったら。生息数が減り以前ほど見かける機会が減ったとは言え、もう実家に帰る勇気があるだろうか。
 ところが昨年だったか、美術館で日本画を観ていたら、人の形をして着物を着た頭がカニのカニ人間が描かれていた。猿かに合戦の絵だったと思う。これが小さなマンガチックな絵だったらよかったけど、もし実写の映画なんかに出てきたら、間違いなく失神しそうな気がする。夢の中でも絶対に出会いたくないものだ。

(2024.3.1)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夕立

2023年04月06日 | エッセイ


夕立

 繁華街に近い停留所なのに、路面電車を降りたのは私と若い女性の二人だけだった。
 それよりも驚きたじろいだのは、路面電車を降りる直前に降り出した大粒の雨だった。
 幅の狭い停留所には幅の狭い屋根があったが勢いの強い雨は路面や停留所の構造物に跳ね返り飛沫となって顔にも降りかかってくる。私は急いで傘をさした。
 ところが私より先に電車を降りた若い女性は傘を持っていないらしく私の方に体ごと振り向いて困ったなという顔をした。
 太ももも露わな短いパンツに短い丈のTシャツでは、ヘソが丸出しになっている。さらにパーマをかけたおかっぱ頭の髪の毛は赤かった。およそ私とは接点のない生活環境と、おそらく理解できない価値観を持っているだろう二十歳前後の若い女性が目の前にいる。
 私は彼女の目を見て、芝居がかって「やれやれ」という顔をしながら肩をすくめた。そして黙って人差し指で左右に示して、広い道路の真ん中にある停留所からどちら側に渡るのかをたずねた。すると若い女性は私が渡ろうとしていたデパートの入り口のある右側を自分も黙って人差し指で示した。
 ちょうど停留所に接する横断歩道の歩行者信号が青になった。
 私は女性の方に傘を差し出し、二人一緒に雨の中を小走りに道路を渡り、そのままデパートのガラスの入り口に駆け込んだ。入り口に備えてあった濡れた傘を入れるビニール袋に傘をしまう私に彼女はにっこり笑って、ちょっとだけ頭を下げてデパートの奥に消えていった。
 ただそれだけの出来事だけど、なぜかいつまでも忘れずにときどき思い出してしまう。

(2022.10.8)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チョイ悪親父

2022年01月13日 | エッセイ




 2020年からの新型コロナの世界的なパンデミックにより、ほとんどの人がそれ以前の想像とは違った日々を過ごされていることと思う。
 同じ年に高齢者という括りの仲間入りした66歳の私などは、死亡や重症化のリスクが高いことを除けば、年下の皆様に比較すると様々な影響や問題や不安は少ない方だと思っている。旅行業や飲食店に関わる人や家族の不安。修学旅行や運動会、文化祭など一生の思い出になるような楽しい行事が中止されたりした中学生や高校生。大学に合格しても思い描いていた楽しいキャンパスに通えない大学生。目標の大会が中止となったスポーツ選手。コンサートが開けない演奏家たち‥‥。想像するだけで気の毒だが、本人はそれ以上に悔しくやるせない思いをしていることだろう。
 私自身は、二つの非常勤の勤務を掛け持ちしているが、そのどちらもイベント関係なので、新型コロナの影響をモロに受けて仕事が激減してしまった。幸いにすでに年金受給者となっているし、国のコロナ対策の支援もあって大きな不安を感じることも無く、どうにか生計を維持している。
 ただ65歳になったら始めようと思っていた鉄道ひとり旅や、文句なしに楽しいこと間違いない友人や知人達との集まりの多くが中止となったことが辛い。自由に行きたい所に行き、会いたい人に会いたいという夢描いていた楽しみの二つが新型コロナの影響で思う通りに出来ないことが辛いし悔しい。あとしばらくの我慢であるとは思うが、健康で誰にも迷惑をかけずに動き回ることが出来るのも75歳位までかと想像すると、残り10年の3年間の貴重な時間が奪われたことは大きい(80代、90代でもお元気な方はたくさんおられて勇気をもらうが、私の父や叔父達を見ているとそう思う)。でもそれくらい‥‥。私より若い様々な年代の人に比べたら、贅沢な悩みかもしれない。
 昨年の11月から12月にかけて、全国的にも感染者が急減した中、今ならと我慢していた友人達との二つの集まりに参加した。集まりと言っても、3人と4人の少人数だった。
 一つは友人夫婦と出かけたコンサート。サックスとピアノのデュオの小さな音楽会であったが、生の音楽の素晴らしさを久しぶりで堪能した。会場の誰もが同じ思いを共有したことだろう。昼の演奏会だったので、その後にまた久しぶりに「ハッピーアワー」で飲もうと約束していた。私はハッピーアワーというお店の名前かと思っていたら、午後から格安でお酒を提供する時間帯のことを言うらしい。
 コンサート会場から繁華街まで歩き、ワイン酒場に到着。早速スパークリングワインをボトルで注文した。まだ世の中明るいうちからお酒を飲む、この背徳感がたまらない。そして久しぶりの友人との会話も弾み心浮き立つ時間が過ぎていく。
 私は60歳前に定職を辞してから、それまで出来なかったことをやりたいと、顎髭を短めだが伸ばしている。自分では「チョイ悪親父」になった気分でなかなか気に入っている。マスクを外して見えたその私の顎髭を見て、飲んでいた友人夫婦のK君が「顎髭もいいねえ。自分も伸ばそうかな」と言った。
 私は「そうそうチョイ悪親父」と答えたら、奥さんが「この人はチョイ悪じゃなくてチョー悪よ」と横から口を挟んだ。
 穏やかなK君の何処がそんなに悪者なのかと驚いていたらさらに奥さんが言った。
 「この人、最近おなかが弱くてどうも腸が悪いらしいの。だから腸悪親父」
 「ああ、腸悪親父!」
 久しぶりに笑って涙が出た。

(2022.1.10)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

反対の意見を聞くこと

2021年06月12日 | エッセイ
 私が人生のパートナーとして家人を選んで良かったと思うことの一つに、私の意見や発言に対して、安易に賛同しないことがある。
 私の家人は私の意見や発言を聞いてから「でもね」と反対意見を言うことが多い。
 若い頃は「なぜ一番近いパートナーの言うことにそうだねと同意してくれないんだ」と口を尖らせたこともあった。が、家人は私の意見や発言に仮に賛同の立場である時も「でもね」と反対側の立場に立った意見や発言を必ず付け加えることを忘れない。
 自分の一番の理解者に全面的な同意を得ることが出来ない苦しさやもどかしさは確かにある。が、その家人の反対意見によって私は自分が考えつかなかった意見を知り「なるほど」と思うことも少なくないのだ。さらに自分の言動を反省し立場を逆転してしまったり、立場は変わらずとも反対の立場を考慮した意見や発言をすることが出来る。
 この家人の態度は私に対してだけに向かっている訳ではなく、テレビの報道や情報番組などの出演者、政治家、登場するあらゆる人に対してもそうである。
 一方、私はどうか。
 小さい頃から周囲の大人を信じ、学校を信じ、テレビの報道を信じ、国を信じ、疑うことを知らなかった。鼻から正しいと信じて本当に自分の頭で考えて来たのかも怪しい。
 さらに鵜呑みにした意見をさも自分の意見であるかのように振る舞い発言をしてきた傾向がある。
 例えば、ある自治体の首長、議会の関係で考えてみる。
 議会の議員の構成が首長を支持する政党で占められていたとする。首長の政を誰か批判するのだろうか?大きな利権が生じるであろうある「作りもの」を作ろうとなった時に、そのことをチェックすべき議会が「いいね、いいね」で終始しては終わないだろうか?逆にもしかしたら、その「作りもの」の提案自体が同じ政党の議員達からの提案に首長が「いいね、いいね」で提案したものではないのかと勘繰ってしまう。
 そこに本来はチェックし批判する立場の野党議員の発言があれば、報道を通じて我々市民もその「作りもの」の提案をより深く知ることができる。それが仮に市民のためになる「作りもの」であったとしても、反対意見に耳を傾けることで、さらに良いものを作ることができるのではないか。
 安倍長期政権は、彼の健康問題で幕を閉じた。
 与党の独占状態である自治体と同じく、国民の自民党支持を背景にあまりに強硬な政権運営、国民に耳を傾けない不遜な態度が見てとれた。以前は与党の自民党内でもいろんな考えがあり、軌道修正が行われていたように思うが、安倍前首相の強さが周囲の誰もが何も言えなくなっていたように思う。それが私は怖かった。
 政治に対するいろんな疑問があったが、最近読んだ元熊本市長の幸山政史さんの本「下手と呼ばれた男の流儀」には県政だけでなく国政や政治や政治家そのものに対する答えがいくつか見つかって少しスッキリした。
(2021.6.12)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やってはいけないことをしてしまう

2021年02月21日 | エッセイ
 ガソリンスタンドに行って給油をする時に、自分がある行動してしまうことをなぜか必ず想像する。もし現実にそれを実行してしまったら、大惨事になる可能性もある行動だし、決してやってはいけないことは十分に認識しているにも関わらず。
 以前はガソリンスタンドのスタッフの方に、給油をしてもらっていたので、まだ欲求を抑えやすく感じていたが、近年使っているスタンドはセルフ給油のシステムとなっており、ますますそれをやってしまいたい思いが募るのだ。
 その欲求とは、給油中にガソリンを注ぎ込んでいるノズルを付けたまま走り出してしまうこと。セルフスタンドになってからはガソリンを注ぎ込んでいる手に持ったノズルを給油口から外して、ガソリンを周りにぶちまけてしまうことだ。
 この際だから、もう一つの欲求を告白すると、火災放置を見た時に、もしそのボタンを押したらどうなるんだろうという想像だ。実際に、火災報知器が設置してある廊下を歩く際に、突然目眩がしてフラフラとよろめき、身体を支えようと咄嗟に手をついたところが丁度火災報知器のボタンだったらという具体的な場面を一瞬想像する。
 もちろん、この二つの衝動に対して、実行したこともないし、これからも実行することはないだろう。しかし、ガソリンを入れる度に、火災報知器のボタンを見る度に、かなりの確率でその衝動が起きてしまう私なのである。なんでだろう。
 例えば、街を歩いていて、先を歩く女性の腰に目が行き、歩く度にクネクネとした怪しい動きに誘われて、抱きついてみたい軽い騒動は男なら誰でも抱く。薄着の夏に、胸の大きな女性のあらわになっている胸の谷間を見て、ちょっと触れてみたいと軽い衝動が生まれることも健全な男子なら当然である。いい歳の爺さんになってからも変わらない衝動に我ながら情けない思いがしないでもないが、生まれてすぐに母親のおっぱいを吸った時から男は死ぬまで乳離れが出来ないものらしい。
 もちろん、これらの衝動に対して、私の理性は頼りないなりにも一応作用して、私は知らない女性に抱きつくことも、おっぱいを触ってしまうことも無く、犯罪者にならずに済んでいるのである。
 ところが、世の中の出来事を見聞きしていると、やってはいけないことをやってします人がたくさんいる。それも学校の先生だったり、お医者さんであったりするから「何でまたそんなことをしてしまったの?」と理解に苦しむことも多い。
 しかし「自分なら絶対にしない」「馬鹿なことを」と簡単に片付けていたことを最近よく考えてみた。もしかしたらその先生達は、やってはいけない衝動が何年も何十年もあったのかもしれない。同じ状況を迎えてもそれまで999回は、いや9999回は衝動を抑えることが出来ていたかもしれない。やってはいけないことをした人のニュースを見て私と同様に「何でまたそんなことをしたの?」と思っていた側の人かもしれないとふと考えついたのである。
 歳をとると、あちらこちらのネジが緩み、錆びつき、いつか私も自分を制御出来ない時が来るかもしれない。99999回や抑えられた衝動を抑えきれなくなる一瞬が自分にも来るかもしれない。そうなると180度違うと思っていた犯罪者と自分は案外それほど違わないのだ。
 以前働いていた職場には給食があって、調理員の女性が一人でスタッフの食事を作っていた。その方は、調理場に設置されていた消火器が日頃から気になっていた。
 あの消火器のヒモを引いたら、どうなるんだろう。
 そしてとうとうある日、そのヒモを引いてしまう。ちょっと引いてみて、水道の蛇口みたいにすぐに止めるつもりだったらしい。自身と調理場全体は、消化器からすごい勢いで吹き出したうすいピンクの粉だらけになってしまった。
 毎日のように8時間以上過ごす仕事場にある消火器を見て、何回目の衝動だったんだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする