雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

ああ失言

2012年11月30日 | ポエム

 ああ失言
 
 失語症と言ったら、本当にその病気で悩んでいる方にまったく失礼だと思いますが、私は、ときどきすぐに言葉が出てこないときがあります。
 だから、電話でのやりとりはとても緊張します。
 プァーストフード店のドライブスルーのインターホンでの顔の見えない注文もプレッシャーです。
 道で思いがけない知人に出会ったときにも、気の利いたことが言えず、別れた後で「ああ言えば良かった」と思う場合がほとんどです。
 会話をしている時の言葉の選択も、書いている時に較べると、反応が鈍いし、なかなかベストの選択ができません。あげく、思わぬ失言もしてしまいます。
 話すことの苦手意識は、さらに増すばかりです。
 歳をとり、1本だけ歯が入歯になったことと、全体的に歯と歯の隙間が広がってきたことで、もともと明瞭ではなかった発声がさらに不明瞭になったように思います。
 またあきらかに遅くなった頭の回転の影響も否定出来ません。
 例えば、家人と二人でテレビを見ているときに、家人が私に質問をしたとします。私は、それが聞こえていながら、先に頭の中で質問に対する答えを探し始めるために、口から言葉が出て来ないのです。それがテレビの画面を見たままの状態なので、相手にすれば明らかに無視されたことになり、家人を悲しませたり立腹させたりしてしまいます。
 このようなことを何度も経験しているのに、話しかけられ質問をされても、何の反応もせずに、なぜか返答の内容について考えてしまい、「あっ、これではいかん。何か言わなければ」と思うと、ますますあせって言葉が出ません。
 他にも、何か失敗をしたときに、最初に何を口にするかで、その後の成り行きが大きく違います。これまた経験で分かっているのに、そのときに直面すると、最初の一言で、家人に対し下手な言い訳や逆切れをしてしまい、自ら墓穴を掘ってしまいます。
 瞬間湯沸かし器で、かあーとなると、言わないでいいことを言ってしまい、言った次の瞬間には「しまったあ」と思います。
 これが失言と言うのでしょうか。
 何度経験しても反省が身に付きません。
 家人は失言ではなく、それが本心だとよく言います。
 しかし、喧嘩のときに「かあー」っとなって口から出る言葉が本心なら、喧嘩の相手に「お前の母さん、デベソ!」と言っていたことは、何でしょう。喧嘩相手の母親がデベソなんて考えたこともありません。(ああ、説得力ないし)
 前回登場したKちゃん夫婦と私の家族が、よく一緒に遊んでいた頃の話。土曜日から南阿蘇村の山小屋に泊まりがけで来ているときに、私とKちゃんで明日は川で魚釣りをしようという話になりました。
 南阿蘇村には、渓流が何本もあり、特に白川は、フライフィッシングのメッカだと聞いたことがあります。だけど、そんな本格的な釣りをするつもりはありませんし、道具も腕もありません。
 子どもの頃に、竹やぶで手頃な竹を切り出し、よろず屋で釣り針と糸と、錘と浮きを買って、近所の池で小ブナを釣ったような釣りをしてみたいねという話になったのです。
 食後にも飲んでいたお酒の勢いもあり、何を思ったか、Kちゃんはそこで失言をしてしまいました。
 「釣りに女子どもはいらない」
 すると、即座にKちゃんの奥さんが反発しました。
 「あらっ、じゃあ釣りのエサは誰がつけるのかしら」
 「あっ」。うなだれたKちゃんは、前回の話に出たように、ヘビ嫌いの関連で、魚釣りのエサのミミズだとかゴカイだとか、一切手にすることが出来ず、夫婦二人で行ったことのある魚釣りでは、すべて奥さんにエサをつけてもらっていたらしいのです。
 「わかった。わかった。じゃあ、みんなで行こう」
 Kちゃんは、威厳を取り戻そうと、右手を高く突き出し、おもむろにみんなに宣言しました。というか、こう言いたかったのです。
 「朝8時に、一糸乱れず全員集合!!」
ところが、Kちゃんは、さらに皆のヒンシュクを買い、冷たい視線を受けたのでした。
 酔ったKちゃんの口から出た言葉は、こうだったのです。
 「朝8時に、一糸まとわず全員集合!!」
(2012.11.30)
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年賀状と巳年と蛇嫌い

2012年11月27日 | ポエム
▲空に落書きしたみたいな飛行機雲は楽しい。撮るチャンスを前々からねらっていたが、カメラを準備する間にすぐに消えてしまう。

 年賀状と巳年と蛇嫌い

 年賀状が発売になり、町中にクリスマスソングが鳴り出すと、今年こそ年賀状を早めに書かなくてはと毎年のように思ってしまいます。年賀状をプリントする印刷機のテレビコマーシャルにせかされながら、年賀状の受付が開始されたニュースを見てあせりつつ、それでも結局、元日配達分の締め切りのギリギリの投函となってしまう毎年。郵便屋さん、スマン、スマン。
 十二支の中でも、私として最もてこずるのが来年の干支、巳年だ。紐みたいな単純な形状で面白みが無く、ごまかしが効かない。で、現在もあーだこーだと困っているのである。
 もう一つ、巳年と言うと男女二人の友人を思い出してしまう。
 巳年生まれでもない。蛇のコレクターでもない。その二人は、いずれも大の蛇嫌いなのだ。
 私自身は、もちろん蛇大好きという人ではないが、苦手という訳でもない。数年前に沖縄旅行をした時は、訪れたハブセンターで自らすすんで見学者を代表してハブを触らせてもらったことさえある。散歩をしていて、突然草むらから蛇が飛び出してきても、普通に「やあ、へびさん、こんにちは」と挨拶をしてしまいそうな位で、蛇を見てニッコリするような親密感までは無いが、恐怖感は皆無である。
 ところが蛇が嫌いの人は、形状が類似しているウナギや穴子やミミズまでも嫌うし、長い紐上の物体に敏感に反応してしまう。親類筋のトカゲなど、は虫類のすべてが苦手だという人も多いし、襲われるはずも無い蛇革の製品も、プリントの蛇柄さえも嫌う方もいるようだ。
 その点は、蛇嫌いではない私にも理解出来る。
 蛇を私が苦手としているカニに置き換えたら、私も同じ様なものだ。しかし私はカニの親戚筋のエビはまるで怖くはないし、カニの一部、タラバガニや松葉カニなどに対しては、怖さより食欲が勝ってしまう。
 二人の蛇嫌いの知人の女性の方とは、映画インディー・ジョーンズのシリーズの何作目かを映画館に一緒に見に行ったことがある。ご存知のように、あのシリーズには必ずといっていい程、サソリや蛇やムカデやゲジゲジのニョロニョロゴソゴソと這いずり回る中に主人公役のハリソン・フォードが手や足を突っ込む場面があり、その女性には大変気の毒なことをした。
 蛇嫌いの知人の男性の方は、友人であり、私の子ども達が小さい頃は、家族と言っていい位、週末はほとんど一緒に過ごしていたKちゃんだ。
 熊本県の南阿蘇村に建てた私の山小屋には、蒔きストーブがあり、10月の体育の日くらいから5月の連休くらいまでは、蒔きストーブが活躍する。
 子どもが小さい頃は、土曜日の午後から山小屋に行き、薪をがんがん炊いて部屋を暖め、日曜日に帰るまで、外は寒くても、家の中はTシャツ一枚で過ごせる程暖かだった。暖房という機能だけでなく、薪を焚く経過や、薪が燃える炎は、見ていて飽きない心休まる情景だ。
 薪は、薪屋さんに頼むのではなく、毎日のことではないので、使用量もしれており、知り合いの工務店に廃材をわけてもらったり、南阿蘇村で知り合った人に、伐採したドングリの木等をもらいにいったりして調達した。
 もらってきた木は、そのままではストーブに入り切れないので、チェーンソーで切る作業がある。
 ある日、蛇嫌いのKちゃんが、私から頼まれてチェンソーで、その薪作りの作業をしていたとき、
 「わーあーっ」というKちゃんの絶叫が聞こえた。
 近くで畑仕事をしていた私は、何事が起きたかと持っていた鍬をほおり投げ、Kちゃんのもとに駆けつけた。
 Kちゃんはすでに放心状態で、ある地点を指差していた。
「だ、だ、大蛇が、と、と、とぐろを巻いている」
 震えながらも、涙目で私に教えてくれた。
 アオダイショウでもいたのかな、と私は思った。
 そう言えば以前、子ウサギを頭から飲み込む途中のアオダイショウをこの付近で見たことがある。怖くはないが、毒蛇ならばいけないので、Kちゃんが指差した木材をそっとのかすと、いました、いました。
 全長50センチほどの小さな蛇が、それでも確かにとぐろを巻き、鎌首をもたげておりました。
(2012.11.27)
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誕生日とハトシ

2012年11月20日 | ポエム
▲季節は進んでも、霜が降りる日まで、まだ夏の花が残っている熊本。

 誕生日とハトシ

 昨日は私の57回目の誕生日だった。
 身体の機能はあきらかに退化しつつあるが、精神の成熟は40年前の高校生の頃とほとんど変わりがなく、私のようなものを「馬齢を重ねた」と言うのだろうな。
 最近は様々な会合に顔を出した時に、列席者の中でおそらく最年長か2番目あたりかと思うことが多くなってきて、そのことに戸惑う。
 速くなるばかりの時の流れの中で、歳をとっていくのは当たり前のことだが自分のために何か一つでも夢が実現するように、具体的な行動をしたいと誕生日に改めて考えた。
 自分の誕生日はやはり1年の中でも特別な日で、今でも印象に残る誕生日がいくつかある。
 異国の地で、まわりの誰にも告げず、一人で赤ワインを飲んで祝った誕生日。
 出張で訪れた奄美大島で迎えた誕生日。民謡酒場で、歌手の方に今日が誕生日だと伝えると、サンシンの弾き語りで祝いの歌を歌ってくれ感激した夜。
 誕生日に訪ねたピアノバーで、店内にいた皆で歌ってくれた「ハッピーバースディ」。
 それまでに見たことが無かった大きな美しい流星が、赤やオレンジや青や紫に色を変えながら、次々に流れた誕生日。
 従姉に子どもが生まれるというので、女の子の名前ばかりいくつか提案していたら、女の子が私の誕生日に生まれたと連絡が届いた誕生日。後日、私の提案した名前の中から名付けてくれたと聞いた。その従姉の子も考えたら昨日で37歳だ。
 中学校の2年生の頃、クラスにとなりの鹿児島県から転校生がやって来た。ひょろっと背の高い色黒の男子生徒だった。自分達、熊本県民も方言を使い、発音にも訛りがあることを棚に上げて、私達は転入した彼の鹿児島訛りになかなか馴染めなかった。
 美術の授業でポスターを制作した。私は、燃え盛る赤や黄色の炎を全面に、下の方に真っ黒なシルエットで花や木を描き、平和を訴えるポスターを描いた。
 ところが転校生の彼が描いたポスターは、デザインが私の作品にそっくりだった。私自身も明らかに似通っていると驚いたが、そのことを私以外のクラスメートが問題にし、ますます彼は孤立してしまった。
 その転校生の彼から、自分の誕生会をするから家に来て欲しいと申し出があった。あまり気が進まなかったが、断る勇気も無く私は出席した。当日彼の家に行くと、出席者は私一人だった。他に誰か誘われたのか、誘われた人が誘いを断ったのか、私は知らない。彼の誕生会で何をして過ごしたのか、どんな家だったかも忘れたが、一つ覚えていたのは、誕生会のメニューの中にあった食パンにひき肉のタネを挟み油で揚げたハトシのこと。
 その夜から始まった下痢と嘔吐で、無遅刻無欠席だった私は、学校を2日も休むことになった。確かに油臭かったがハトシが原因かどうかは分からない。
 それがまた、クラスメートの中で噂になった。
 私が転校生の彼の誕生会に行き、その夜からお腹の調子が悪くなったことで、彼の家で食べた食事が食あたりの原因であるかのごとく悪意で語られ、3日目に登校した私もそのことを否定しなかった。
 後で考えると、彼は何も悪くない。
 休んだ2日目だったか、転校生の彼が心配してお見舞いに来てくれた。彼はいい奴だった。私に興味を持ってくれ、私と友達になりたかったのだ。ポスターも偶然だったかもしれないし、マネしたとしても、他の人の間でもよくあることだった。
 私に関わる二つの出来事が、彼をますます孤立させたとしたら、私は彼に悪いことをした。ポスターも食あたりも、私は表立って彼を非難した訳ではないが、同時にまた彼をクラスの噂から積極的にかばうことも無かったのだ。
 転校生の彼との思い出はそれだけしかない。
 その後に、彼と私を含めてクラスメートとの関係がどうなったか覚えていない。少なくとも、その後も友達にはなれなかったようだ。
 しかし、誕生日という言葉をキーワードに、40数年も前の彼の姿と声が思い出され、胸の奥が少し痛くなるのだ。
(2012.11.20)
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自転車の片手運転は危ない

2012年11月13日 | ポエム

 自転車の片手運転は危ない

 最近特に自転車のマナーが悪く、車を運転していて「危ないなあ」という場面や「親の顔を見て見たい」と思う場面によく遭遇する。
 狭い道路で右側通行をする。建物の影となっている路地からいきなり飛び出す。道幅いっぱいに横に広がってつるんで走る。女子中学生5、6人が、道路の角で自転車に股がったまま停まっておしゃべり。曲がれないで待っている車(私)を見ていながらもすぐに退こうとしない。自転車は押して通らなければいけない歩行者専用の道路を自転車に乗ったまま走っている。
 もうマナーが悪いという段階は越えて、あきらかな道路交通法の違反行為であることも多い。無灯火。信号無視。一旦停止違反。心臓または血圧に悪い思いをした私は、自転車も罰金を徴収する方法がないものかと思ってしまう。
 中でも毎日のように見かけるのが、携帯電話をしながらの片手運転。
 狭い道で携帯電話の画面を見ながらの片手運転のフラフラと走る自転車は怖くてなかなか追い越せない。後ろから来た車が追い越せないでノロノロ付いて来ていることに気がつかない。もしくは車に気がついても、避ける必要は無いと思っているのだろうか。しばらくは我慢して避けてくれるのを待つが、最後にはクラクションを小さめに鳴らすことになる。
 私が中学生か高校生だったか。我が家に九官鳥が迷い込んで来たことがある。
 私は帰宅してから空いていた鳥かごに入れられた九官鳥を見て、やや興奮した。鳩やジュウシマツ、カナリヤは飼ったことがあったが、九官鳥は飼育したことがなく、実はオウムか九官鳥を一度飼ってみたかったのだ。
 閉店前の近所の小鳥屋に自転車で駆けつけた。その頃、昭和40年代の後半までは、小鳥や鳥のエサ、鳥かごをはじめとする飼育道具一式を商う専門の小売店が近所にまだ残っていた。
 九官鳥のエサを求め、店のおじさんに世話の方法を簡単に習った。
 私は一時でも早くお腹をすかせている九官鳥にエサを食べさせたかったし、あこがれの九官鳥をじっくりと観察したいと思っていた。片手でエサの入った袋を持ち、夕暮れ迫る中、胸を躍らせながら力一杯ペダルをこいで家へと急いだ。
 皆さん。昭和40年代後半と言えば、私が住んでいた一地方都市である熊本市では、まだまだ都市基盤が整備されておらず、幹道以外の道は土ぼこりの舞うでこぼこ道か、すぐに穴が空く簡易舗装の道が多かったし、下水道もほとんど未整備だった。狭い道には側溝でなく地面を掘っただけの小さな溝があり、やや広い道には結構幅のひろい小川が道路に沿って流れていることが多かった。少し前までは、きれいな水が流れ水草の中にメダカやフナの群れが見え隠れしていたこのような小川も、下水代わりとなって、急速にドブ川化しつつあった。
 九官鳥が迷い込んだ喜びで、気もそぞろな片手運転。でこぼこ道。横を流れるドブ川。
 だんだん話が見えてきましたね。
 薄暗いでこぼこ道を片手運転で家へと急ぐ私の自転車は、道路左の住宅から右側のドブ川へと道を横切る排水用の、道路に半分むき出しになった陶器の土管に当たり、その当たった角度やスピードの具合で、ポンと跳ね上がった。
 その瞬間の衝撃で、片手でハンドルを握っていた私の右手もハンドルから離れ、ほとんどバンザイ状態になってしまった。
 しかも右のドブ川の方向に跳ね上がっている。川に落ちた自転車を飛び越えながら、オリンピックの体操選手のように、なんとかドブ川の対岸の草むらに着地できるのではないかと私は期待した。
 しかし、あと数十センチ勢いが足りず、私は臭いドブ川に両足からボチャンと着地してしまった。
 ケガ一つしなかったのは幸いだが、強烈な匂いと汚いドブに落ちたショックはしばらく忘れられなかった。
 以来、私は自転車の片手運転は絶対にしない。
 同時に自転車の片手運転を見ると、余計にハラハラしてしまい、いちいち声をかけたくなってしまう。「道が良くなったとは言え、何の障害物があるか分からない、いつ不測の事態が起きるとも限らないのだよ」と。
 九官鳥は数日後に探していた近所の飼い主に引き取られた。
(2012.11.13)
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男子クラスと一輪挿し事件

2012年11月09日 | ポエム

男子クラスと一輪挿し事件

 私の母校は、今年創立130年を迎え、夏の甲子園にも出場した熊本県立済々黌高校である。
 私の現役だった頃の昭和40年代後半は、男女共学ながら女子は1学年5百数十人の中の1割強だった。したがって質実剛健、バンカラの校風がまだ色濃く残っていて、腰に手拭を下げ、素足に下駄履きで登下校をする生徒がいた。
 私が入学する数年前まで男子は全員坊主頭の校則があったが、長髪解禁後に入学した私達の学年の生徒には時代を反映してロングへアも出現していた。済々黌の男子生徒の象徴であった「キナセン」と言われるスクールカラーの黄色の1本線が入った帽子を被らない生徒が出現しはじめ、校則の帽子着用が生徒集会で問題になったりした頃だ。
 今や校則は変わっていることと思うが、その前に入学の際に生徒が購入しているのか、そもそも買うことが出来るのかさえ怪しい。少し前に学生服の胸のポケットに1本、キナセンが入り、夏は白いシャツの胸に済々黌の校名が刺繍してあるようだ。
 自由の校風は変わらず、男子よりも女子に人気があるそうで、男女の比率は半々になったどころか、学年によっては女子の数が上回る年もある位で、前クラスが男女共学となっているようだ。
 私の現役時代は、圧倒的に女子が少なかったので、男子クラスと共学クラスがあった。共学クラスは学年に4、5クラス位だったと思う。私自身は、1年生が共学クラスで2年3年は男子クラスだった。
 1年生のときの共学クラスはやはり女子がいて華があり楽しかったが、2年生になって生まれて初めて経験した男子クラスは、また共学クラスでは経験出来ない別の楽しさがあった。
 その一つは、先生達が授業中に女子には聞かせられない下ネタを披露するようになったことで、先生によっては何となく男子クラスの授業の方がリラックスされて、くだけた雰囲気があって面白かった。
 その男子クラスの教室は、当然掃除等は形ばかりで、上履き無しの白いソックスで歩こうものなら、あっという間に黒く汚れてしまうことは間違いなかった。
 冬の寒い時期にインフルエンザが流行し、他のクラスが学級閉鎖になったことを知ると、単純な男子クラスは「休みになる」ということだけに心を奪われ、休み時間の度に「皆が早くカゼをひくように」せっせと窓を開放していた。結果、おろかな我がクラスだけ一人もカゼをひく者が出なかった。
 食べ盛りで、2時限目の授業が終わった休み時間には、弁当箱を机の上に出して女子に気兼ねなく早弁をした。
 マラソンの授業は、近くの立田山という山を登り降りするコースが設定されており、ただでさえ長距離走が苦手だった私は、「心臓破りの坂」と呼ばれる坂道を走りながら、その時だけは済々黌に入学したことを後悔した。不思議だったのは、マラソンの授業で黌門を出る時は、確かに私の後方にまだ3分の1の生徒が走っていたのに、立田山を登り下りし、途中、数人に追い越されもするのだが、黌門をくぐる前には、私はほとんどビリになっていたことだ。
 「おーい、大丈夫か。次の授業に間に合わんぞ」と自転車に乗った体育教師に毎回尻を叩かれた。
 私の後方にいたかなりの数の生徒は、いつどこで私を追い越したのか。
 まあおそらく教師にバレないように巧妙に近道をしていたんですね。
 そんな男子クラスの教壇の上に、ときどき一輪挿しが飾られたことがあった。
 水仙やフリージアやリンドウやキクの花。生花店で求めたものではなく、家の庭に咲いた花を一輪摘んで来て、素朴な細い花瓶に挿しただけのもの。
 先生達には好評だったが、クラスの生徒達は男子クラスに似合わぬ出来事をとても不思議がった。
「我がクラスの誰かを好きな女子がこっそり持って来ているに違いない」
 いつしかそういうストーリーが囁かれはじめ、誰が誰にという当事者捜しが行われたようだったが分からなかった。
 この事件は、とうとう迷宮入りのまま3年生に進級した。
 ずっとその真相を知っていたのは、私自身であった。卒後30年の2004年に開催された記念同窓会のときに、「今だから言えること」という告白企画があって、その真相を語った。
 私は美術部に属していて、自由な時間があれば、教室にいることより、図書室か美術部の部室にいることが多かった。
 そして毎日学校に来る事が楽しみで、早く家を出た。学校でも何番目かに、クラスでは一番早く登校していた。自転車置き場から玄関の靴箱で靴を上履きのサンダルに履き替えると、ホームルームには顔を出さずに美術部の部室で始業直前まで過ごすのが常だった。
 最初は絵のモチーフに家の庭から持ってきた花だった。
 たくさん持ってきた水仙を部室の花瓶につっこんだ後、ふと思いたって、部室にあった一輪挿しに1本の水仙を入れて、まだ誰もいないホームルームの教壇に置いたのだ。
 その後は、クラスメートの反応が面白くて、悪戯心で時々花を持って行った。
 覚えている人も少ないと思うが、これが40年前の一輪挿し事件の真相です。
(2012.11.8)
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