かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (15)

2024年10月07日 | 脱原発

2015年9月19日

   「9月18日 国会前で」
 2015年9月19日午前2時を回った頃、参議院で安全保障関連法案が可決された。国会前から早めにホテルに戻った私は、テレビもつけず、いくぶん神経が高ぶっていたのか眠れないままに本を読んでいた。
 ハンナ・アーレントの『過去と未来の間』という20年も前に出版された本だが、あまり頭には入らないのだった。ただ、昨日から今日にかけて、「過去」と「未来」を隔てる事態が起きたのだろうかなどという思いがちらっと頭をよぎった。
 18日午後早くからの会議が30分ほど予定より早く終わって地下鉄でホテルへ向かう途中、「国会議事堂」駅で「9条壊すな!」というプラを持った数人が乗ってきた。国会前には、昼も夜も人が集まって抗議していて、もう帰り足の人もいるのだ。
 ホテルで背広を脱ぎ、急いでデモ仕様の服装に着替える。朝、家を出るとき「2足の草鞋だからたいへんね」と妻にからかわれたが、替える靴も含めるとけっこうな量の荷物を担いできたのだった。
 「霞ヶ関」駅を上がると、もうその辺りにも警察車両が何台も止まっている。交差点ごとに大勢の警察官がたむろ(?)しているが、「南側歩道が空いています」と案内しているものの、とくに行き先を規制している様子はない。
 国会前の北側歩道に入ると、スムーズには前に進めないほど人が集まっている。SEALDsらしい青年がコールをしている付近はほとんど身動きできないほどだ。
 車道には警察車両がびっしりと並べられている。車と車の間は人が通れないほどくっつけて並び、その前に警察官が1m間隔で並んでいる。8月30日や9月14日のようには車道には絶対に出さないという構えである。
 憲政記念館の前から北庭を抜けて、最初に入った北庭沿いの歩道から「国会前」交差点を渡って、南庭沿いの歩道に入った。交差点付近は確かに空いていたが、中程からは混み出した。
 不思議なことに、参加者のほとんどの人は警察が設置した鉄柵の前に並んで、警察車両の前に並んでいる警察官と対峙しているように見える。だが、けっして怒鳴り合っているわけでも揉めているわけでもない。じつに静かな示威行動なのである。
 「国会正門前」交差点の角まで辿りつくと、そこから北庭の本部前への横断舗装は閉鎖されていて、何人かが猛烈に抗議していた。たぶん、この交差点が決壊に対して最弱の場所なので警察も必死なのだろう。
 「国会前」交差点から南側歩道に入る。こちらも歩道沿いの1車線が開放されていて交差点付近はまだ空きがあったが、すぐ上で詰まってしまった。そこでしばらくスピーチを聞いていた。午後7時くらいで4万人の参加者だというアナウンスがあった。
 しばらくすると、進行がSEALDsに委ねられ、全体が一斉に若いコールに応えはじめる。私の隣で声を上げていたご婦人が「1枚いただけませんか」というので「戦争させない」というプラを渡し、私は「強行採決ゼッタイ反対」というプラを掲げて声を出した。
  SEALDsのコールが終わる頃がそろそろ引き揚げ時だと判断した。国会内は緊急状態で、多くの人は遅くまで残るだろうと思ったが、年寄りは明日以降のことも心配しなければならないのだ。
 戦争法案は強行採決されたが、国会前に集まった人々の中ではまだ何も終わっていない。国会前に個人個人が自発的に集まって、その数が10万人を超えたということは、大きな意味を持っている。
 その一人ひとりの心の中に本当の民主主義が発動したのだ。「民主主義って何だ。民主主義ってこれだ」というSEALDsのコールの通りなのだ。これまでの私たちは、民主制という制度に安住して民主主義を生きるという姿勢に欠けていたのではないか。
 そして今、これから、一人ひとりの国民の自覚によって、日本の「民主主義」と「近代」は始まるのではないか。そうすることで、近い将来、私たちは日本国憲法、とりわけ憲法9条を体験的に新しく獲得し直すことができるのではないか。そう信じることができる。今日はそういう日だ。
 精神において民主主義を体現し、政治的制度において民主主義を実現することは、私たちが政治的にも精神的にも「自由」を獲得することを意味する。
 疲れたままホテルのベッドにもぐって読んだアーレントの一節を記しておく。

自由の現われは、〈原理〉の顕現と同様、パフォーマンスの行為と時を同じくする。人びとが自由である――それは自由の天分を所有することとは違う――のは、人びとが行為するかぎりのことであり、その前でも後でもない。というのも、自由であることと行為することとは同一の事柄だからである。 [1]

 自らの意志によって国会前に集まり、自らの行為として明晰な声を上げ続けた人びとは、「自由である」ことに決定的に踏み出しのだ。ここから始まる。青臭かろうが何だろうが、そう信ずる。

 [1] ハンナ・アーレント(引田隆也、齋藤純一訳)『過去と未来の間』(みすず書房、1994年) p. 206。


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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(20)

2024年10月05日 | 脱原発

2015年2月22日

 金曜日のデモは休みで、2日遅れての月1回の日曜昼デモである。いつもより早めに昼食を作って家を出たのだが、嫌なニュースが続いて気分は良くない。
 沖縄では辺野古の基地反対の運動が続いているが、その弾圧に米軍が出てきた。米軍シュワブゲート前で抗議行動を行なっていた沖縄平和運動センターの山城博治議長ら二人が、基地の警備員によって拘束されたというのである。二人は名護署に身柄が移されたが、3000人近い人々によって不当拘束への抗議が続いている(東京新聞)。 
 この事件は、基地反対運動に対する自公政府による弾圧に加えて、日本に駐留するアメリカ軍も弾圧の前面に現れたということを意味している。
 報道では沖縄県警名護署も勾留理由はよく分らないのだという。米軍に身柄を引き渡されたので、引き続き拘留しているという。つまり、米軍は日本の法律によらず二人を拘留したということで、アメリカ駐留軍は日本の法律を越えて行動していることを意味している。
 もう一つの反吐が出るようなニュースは、「防衛省が、内部部局(内局)の背広組(文官)が制服組自衛官より優位を保つと解釈される同省設置法一二条を改正する方針を固めた」(東京新聞)ということだ。
 いわゆる、「文民統制」によって軍部の暴走を防ぐというのは、太平洋戦争の悲惨な敗北から学んで築いた重要な制度であるが、それを放棄しようというのである。安倍自公政権らしく戦前の軍事国家をめざすらしいのだ。
 この二つのニュースは、日本の現状の本質を顕わに示してはいないか。沖縄では、アメリカのために基地を作ろうと自公政権は警察権力(暴力装置)を駆使している。反対運動が強く、業を煮やしたアメリカ軍は直接弾圧の手を下すようになる。
 しかし、米軍の直接暴力は植民地支配への反発が強まるので得策ではない。そこで、アメリカの走狗である自公政権(官僚)は軍事国家化を図り、いずれ警察に代わって日本の軍(自衛隊)独自の判断で国民弾圧の前面に出られるように策動しているのではないか。アメリカの意のままに政策を動かす日本人が政権中枢に居座っているのである。それこそ真性の「反日」ではないかと腸が煮えくりかえるのだ。
 思えば、長く自民党政権が続いた日本は不幸な国である。ドイツやフィリピンは第二次大戦後の植民地的な占領支配をすでに脱したというのに、独立国家を装っているものの日本はいまだ戦後の占領支配のシステムのままである。「戦後レジームからの脱却」などと安倍晋三は語るが、それは単に戦前のような軍事国家に戻ることしか意味していない。
 日米安保を通じたアメリカの支配を脱して、アメリカによって大幅に制限されている日本の主権を回復して真の独立国家になることがほんとうの意味で「戦後レジームからの脱却」を意味するはずだ。集団的自衛権などという幻想で、アメリカが世界で繰り広げる侵略戦争に国民を送り込みたい安倍晋三には、到底理解できないことだろうが……
 脱原発デモは、当然ながら、原発推進を強引に進めようとする安倍自公政権に対する反対運動に連動する。脱原発というシングル・イシュウの運動でも、その含意するところは本質的なのである。



2015年2月27日


 少し古いニュースになってしまったが、2月18日の東京新聞の電子版に原子力規制委員会の田中委員長の次のような記事があった。

     「地元も安全神話卒業を」 原子力規制委の田中委員長

 原子力規制委員会の田中俊一委員長は18日の記者会見で「(原子力施設が立地する)地元は絶対安全、安全神話を信じたい意識があったが、そういうものは卒業しないといけない」と述べた。
 田中氏は九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県)と関西電力高浜3、4号機(福井県)が新規制基準に基づく規制委の審査に合格した際「運転に当たり求めてきたレベルの安全性を確認した」「絶対安全とは言わない」と繰り返し説明していた。東京電力福島第1原発事故を受け、電力業界だけでなく地元も意識改革が 必要との考えを示した形だ。(共同)

 この記事を読んで、少しびっくりした。原発立地の地元に「安全神話から卒業しろ」と主張しているのである。安全は神話に過ぎないと言い続けてきたのは、反原発、脱原発を主張してきた人々である。一方、「原発は安全だ」という神話を必死になって作ってきたのは自民党政府(と、その走狗の読売新聞)と電力会社であり、それに職業を賭けて全面的に協力してきた田中委員長のような原子力学者ではなかったのか。
 「安全神話」で地元住民を騙してきた人間はいったい誰だったというのか。この鉄面皮、無責任ぶりをなんて評していいのか分からない。
 奇妙な気分だが、「(原子力施設が立地する)地元は絶対安全、安全神話を信じたい意識があったが、そういうものは卒業しないといけない」という文言自体は、しごくもっともで、私たちが「原発は安全ではない」と主張してきたこととほとんど同じである。
 その同じ文言が、高浜原発が再稼働に必要な安全対策の基準を満たしているとする「審査書案」を規制委員会が了承した17日の翌日に当の機制委員長から発せられたのである。
 この事実はとても重要だ。福井の人たちに「高浜原発の再稼働を認めるが、原発は安全ではないから、地元の人間は覚悟しなさい」と原子力規制委員長が宣言したに等しい。もちろん、原発が安全でないということは正しい。その原発を再稼働する自民党政府へ職責を賭けて協力している原子力規制委員長がそう語っているのである。人間の論理的行動(そして、行動倫理)としては破綻しているが、言わないよりマシだとしておこう。


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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (14)

2024年10月03日 | 脱原発

2015年8月14日

 先週の金デモは仙台七夕の中日(7日)に当たったのでお休みだったが、9日の日曜日にはSEALDs_TOHOKUが主催する集会とデモ「戦争法案反ヤバいっしょ! 学生デモパレード in 宮城」があった。花京院緑地公園に満杯の参加者(600人くらい)に入って、いつもの金デモより長いコースのデモを歩いた。
 若い人のコールはリズミカルでテンポが良く、すっかり乗せられてしまった。戦争法案反対の強い意志も手伝って、張り切って声を上げ、歩き抜いて、その勢いのまま徒歩で帰宅したのだったが、どっと疲れが出てしまった。
 11日には九州電力川内原発が制御棒を引き抜き始め、再稼働に取りかかった。正式には「再稼働」ではなく規制委員会の起動後検査が残されているので「再起動」と呼ぶべきだが、ベッセル内の一部分とはいえ核分裂連鎖反応の臨界に達しているので、物理的には再起動も再稼働も差がない。再起動と再稼働を区別するのは、行政手続き上の問題に過ぎない。
 原発の運転上の危険は、臨界に達する時点で飛躍的に増大し、その後フルパワーに達するまでは徐々に危険が増すことになる。危険度の観点から言えば、臨界に達することと出力を増減させることは本質的に異なる。
 それにしても、戦争法案で世論が沸騰しているときに川内原発の再稼働に踏み切ったことに憤りが増す。あまりにも感覚がジリジリするので、できるだけ神経を押さえ込もうと、『哲学の使命』 [1] だとか、2段組で500頁以上もあるミシェル・フーコーの哲学的生涯 [2] とか、あえて生々しい政治や社会から距離のある本を読んでいた。合間に古い短歌 [3] を読み、画集 [4] を引っ張り出して眺めては己の神経を宥めていたのである。
 しかし、安保闘争を闘った1960年の暮れに自死した岸上大作の短歌なども読み直すことになって、必ずしも心は穏やかになったというわけではない。それでも次のような短歌を見つけた。どちらも1960年頃の窪田章一郎の作 [5] である。

信ぜよと首相語れる眼前に腕組む若者が放つ哄笑

軍事同盟に組みせじと面(おも)あげ拍手する少女(おとめ)らのきよき命を生かせ

 55年前に、あたかもSEALDsの若者たちを支持し、応援する歌が詠まれているようではないか。

[1] ベルナール・スティグレール(ガブリエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『現勢化――哲学という使命』(新評論、2007年)。
[2] ジェイムズ・ミラー(田村俶、雲和子、西山けい子、浅井千晶訳)『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』(筑摩書房、1998年)。
[3] 『現代短歌全集』(筑摩書房、1981年)、『現代短歌大系』(三一書房、1972年)など。
[4] 『生誕100年 靉光展』図録(毎日新聞社、2007年)、『生誕100年 松本俊介展』図録(NHKプラネット東北、NHKプロモーション、2012年)など。
[5] 窪田章一郎「歌集 雪解の土」『現代短歌全集 第14巻』(筑摩書房、 1981年)p. 271。

 

2015年8月30日

   「8・30国会10万人・全国100万人大行動」
 地下鉄霞ヶ関駅から地上に出たのがほぼ12:30だった。仙台を出るときは雨が降っていたのだが、低い雨雲が垂れ込めてはいてもまだ降り出してはいない。国会正門前に向かう人の列にしたがって外務省脇の坂を上がる。六本木通りに出て右折、「国会前」交差点へ出る。
 今回は警察の過剰警備が心配されて、どの駅からアプローチするのがいいなどという案内が多く流れてきたし、国会議員や弁護士による過剰警備にたいする監視団が結成されるというニュースもあった。多少は心配だったのだが、時間が早いせいかなにごともなく正門前に向かうことができた。
 国会エリア内のアプローチできるぎりぎりの範囲は歩いたし、それにそろそろ開始時間の14:00になるので、声を上げる定位置を決めなければと思いながら国会前庭を横切って行った。
 できるだけ正門に近い場所へ行こうと柵越しに眺めると車道にけっこうな数の人が出ているではないか。決壊したのだ。
 思わず急ぎ足になって公園出口付近でまわりの人と一緒に柵を越えようとしたら、近くにいた警官が制止に来た。もう少しというところで私服(公安?)がやってきて膠着状態になったが、「上が開いてるよ」と教えてくれる人がいて、7、8メートル上で車道に出た。
 社会学者の北田暁大さんが「「あの日あそこに居なかった」と後悔したくないから、いくね。」とツイートしていたのがとても印象的だったが、規制線が決壊して「国会前広場」ができあがった時が「あの日」の「あそこ」の象徴的な瞬間として思い出される日が来るのではないか、などと考えながら人混みの中に入っていった。

地下鉄の切符に鋏いれられてまた確かめているその決意
                        (III ・5月13日・国会前) [1]

装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている [2] 

 時代は変わり、今日は踏みつける装甲車はないのだが、この二首は55年前の60年安保闘争を闘い、その年の暮れに自死した学生歌人、岸上大作の歌である。今日のこの日を詠む歌人や詩人もきっといるに違いない。群衆の中で声を上げながらそんなことも考えていた(「群衆」という言い方も古いな。ボードレールか朔太郎の時代みたいだが)。
 しばらくは近くであがるコールに応えて声を上げていたが、スルスルと前方や後方に移動している人がいる。びっしりと人が詰まっているように見えるが、人が移動できる見えない筋があるようだ。
 私も前方へ少しずつ移動して、最前線のコールが合わせられるところまで辿りついた。仙台でもSEALDs_TOHOKUが主催するデモが2回あったので、すこしは慣れているテンポよい若い人のコールが続く。


[1] 岸上大作「意思表示」『現代短歌全集 第十一巻』(筑摩書房、1981年) p. 292。
[2] 同上、p. 291。


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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(19)

2024年10月01日 | 脱原発

2014年12月21日

 12月14日の衆議院議員総選挙の当日に見た「もう一つのヘイ・ジュード」というテレビ・ドキュメンタリーは、チェコのマルタ・クビショヴァという歌手の話である。
 マルタは、1968年に「プラハの春」と呼ばれた旧チェコスロバキアの民主化運動を弾圧するために進入してきたソ連軍とチェコ共産党政権に抗議するために、民主化運動を行う民衆を励ます曲であるもうひとつの「ヘイ・ジュード」をレコーディングして60万枚という大ヒットを生んだ。
 そして、当然のごとく、レコーディングの3ヵ月後、ソ連当局によってレコードの回収と販売禁止が命じられる。さらに、マルタは監視下に置かれるばかりではなく、音楽界から永久追放されてしまった。
 もうひとつの「ヘイ・ジュード」の歌詞の作詞者は、ズデニェック・リティーシュという人で、次のような歌詞だという。

ヘイ・ジュード 涙があなたをどう変えたの
目がヒリヒリ 涙があなたを冷えさせる
私があなたに贈れるものは少ないけど
あなたは私たちに歌ってくれる
いつもあなたと共にある歌を

ヘイ・ジュード あなたは知っている
口がヒリヒリする 石をかむような辛さを
あなたの口から きれいに聞こえる歌は
不幸の裏にある<真実>を教えてくれる

ねぇジュード あなたの人生を信じて
人生は私たちに傷と痛みを与える
時として 傷口に塩をぬり込み
棒が折れるほど叩いて
人生を操るけど 悲しまないで
 ブログ「もう一つのヘイ・ジュード(Hey Jude)/ビーバップ!ハイヒール」から 

 テレビ画面に映るプラハのバーツラフ広場を見ながら思いだしたことがある。国際会議のあいまに若い研究者や大学院生5、6人とバーツラフ広場をぶらぶらと歩いたとき、この広場をソ連軍の戦車が蹂躙した「プラハの春」の話をしたのだった。
 若い人には遠いことでも、1968年に22歳だった私には「プラハの春」は切実だったのである。1956年の「ハンガリー動乱」などとともにマルクス主義や共産主義国家について深刻に考え込まざるをえないような事件だった。
 バーツラフ広場を歩いてから4、5年後、大学院生から研究者になっていた一人が、私が話した「プラハの春」のことをずっと覚えていると語っていて、少し嬉しかったことも思い出した。
 そして、「もうひとつのヘイ・ジュード」を見た頃にちょうど読みかけていたのは、アルチュセールの『マルクスのために』 [1] のなかの「マルクス主義とヒューマニズム」という章だった。1968年以前に書かれたものだが、今になってみれば、じつに脳天気な共産主義国家ソ連についての言で、どんなふうに言葉を継いでいいのか分からなくなってしまう。

……この〔社会主義ヒューマニズムの〕願いにもとづいてわれわれは、暗闇から光明へ、非人間的なものから人間的なものへ移りつつある。現にソ連邦が入っている共産主義は、経済的な搾取のない、暴力のない、差別のない世界であり、――ソ連邦の人びとに、進歩、科学、文化、食料と自由、自由な発展、こうしたものの洋々たる前途をきり開く世界であり――暗闇もなく、葛藤もなくなるような世界である。 (p. 423)

 [1] ルイ・アルチュセール(河野健二・田村淑・西川長夫訳)『マルクスのために』(平凡社、1994年)〔旧『甦るマルクスI・II』(人文書院、1968年)〕。


2015年1月23日

 今朝の毎日新聞のニュースに「柏崎刈羽原発:東電常務「避難計画不十分なら再稼働無理」という見出しの記事があった。

 東京電力の姉川尚史常務は22日、新潟県柏崎市内であった東電柏崎刈羽原発に 関する住民向け説明会で、同原発の再稼働について「(原発事故の際の)避難計画が不十分であると、自治体の方が思われる段階では、稼働はできない」と述べ た。会田洋・柏崎市長は市の避難計画について自ら「課題が多い」と改善する余地があることを認めている。避難計画の完成度が、再稼働できるかどうかの重要条件になる可能性が出てきた。

 九州電力の川内原発では、鹿児島県知事や川内市長がまともな避難計画もないまま再稼働を容認したことと比べれば、このニュースはいくぶん「まとも」に思えてしまう。川内原発の避難計画についてはさまざまな案が出されたが、結局まともな計画は策定されていない。それにもかかわらず政府の交付金や九州電力のばらまく金ほしさに避難計画なしでも再稼働を認めるというのは、十全な避難計画そのものが不可能だということの自白のような行為だった。金目当てだけの行動指針しか持たない地方政治家の無能さは無惨なばかりである。
 一見「まとも」そうに見える柏崎刈羽原発についての東京電力常務の発言にもみごとな落とし穴がある。「避難計画が不十分であると、自治体の方が思われる」場合には再稼働はできないということは、どんな避難計画であれ地方自治体の長が「十分」だと主張すれば再稼働できると言うことである。これまでの言動からすれば、新潟県知事が再稼働に同意することはとうてい考えられないが、立地市町村長は川内市とおなじく金目当てに「避難計画は十分」と虚言を申し立てる可能性は十分にあるのだ。
 しかし、私には避難計画などというのは瑣末な問題にしか思えない。ニュースでは触れていないけれども、「避難計画が不十分なら再稼働は出来ない」という文言には決定的で重要な前提がある。「原発事故は起きる」という前提抜きでは、成立しない言葉なのである。
 「原発事故は起きる」→「だから、十分な避難計画は必要だ」→「避難計画は不十分だ」→「事故が起きる原発を再稼働できない」という論理の筋道になっているのだ。
 原発事故が起きても避難計画が十分なら大丈夫なのか。福島の悲惨は、避難計画が十分だったら起きなかったのか。そんなことはない。避難計画が十分だったら、確かに現状よりも福島県民の被爆線量は少なくすんで、将来の死亡や健康被害は予想よりはいくぶん減るかもしれない。だが、事故から4年経った現在でも、10万人を越える福島県民が職も家も故郷も失ったままである事実は、避難計画がどうあろうと変わりようがない。
 フクシマの後では、「原発事故は起きる」という前提から導き出される唯一の答えは、「事故を起こす原発を廃止する」以外にあり得ようはずがない。柏崎刈羽原発周辺の新潟県民は、避難さえ出来れば何の問題もないとでも言うのだろうか。しかも、日本全国に原発があって、いずれ避難する土地すらなくなってしまうかも知れないのに。


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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (13)

2024年09月27日 | 脱原発

2015531

 採択されたデモの集会アピールには「沖縄への連帯をこめて」という言葉が添えられていた。沖縄・辺野古は、日本の民主主義の闘いの最も突出した現場であり、もっとも鮮烈な象徴の場所である。
 石川為丸という詩人がいる。本土で生れ、沖縄で暮らし、悲しみと憤りを言葉にした詩人だ。私が初めて手に入れることができた1冊の彼の詩集『島惑ひ 私の』は、石川為丸の最後の詩集であった。

仏桑華の赤は あくまでも鮮やかに 島での悲しみはまだ、
終わってはいけないとでもいうかのように 降りそそぐ
ひかりのなかに、顕つひとが見えていたのだ 樹の宿題を
残したままの島惑い 私はそのとき、どこにも属すると
ころのない 異風な声の、なにものかによばれているよう
だったから

       「樹の宿題」(部分) [1]

 20141116日の日曜日、沖縄県知事選挙の日、オール沖縄の闘いが実って翁長雄志さんが勝利した日、沖縄県民の喜びが沸騰し、新たな闘いに踏み出した日、その記念すべき日に、那覇の自宅で石川為丸はこの世を去った。沖縄の闘いに連帯し続けた64歳の孤独死だった。
 沖縄は遠いが、集会のなかで石川為丸の詩の言葉を少しばかり反芻していた。あいかわらず、デモが進む日曜日の一番町は祝祭のように賑わっている。蕩尽の祝祭と言ったら、すこし民俗学ふうで意味ありげに聞こえるが、ただの消費の祭りだ。沖縄の現在とどうイメージを繋げばいいのだろう。

八月の園芸は 水やりが毎日の作業となる
鉢植えの花木は 一日でも水やりを忘れると
強烈なダメジを受けることになる
だから土砂降りが待たれるのだ
雨乞いの祈り
二ューギニアのどこそこの部族には
必ず雨が降るという方法があるそうだ
それは続けること 雨が降るまで祈りを続けるということ
沖縄の八月
空から雨の降らない日は続くけれど
空から異様なものが落ちてくることがある
米軍のへリコプターだ
二〇〇四年八月一三日 大型輸送へリコプターCH53D
沖縄国際大学の構内に墜落
今年二〇一三年八月五日 HH60ペイブホーク
キャンプハンセン敷地内に墜落
にもかかわらず、欠陥機の垂直離着陸輸送機オスプレイは
強行配備され訓練飛行しているのだ
雨乞いの祈りはそれを続ければよかったが
では米軍機の墜落を避けるにはどうすればよいか
簡単だけれど難しい
難しいけれど簡単なこと
米軍機を飛行させないことだ
沖縄の園芸家は額を上げる
怒りに燃えるようなホウオウボクの花々!
沖縄の八月は
今日も水やり
明日も水やり
つづけることだ

       八月の園芸家」(部分) [2]

発芽抑制物質をとばす方法を 内地の人に教えたうえで
園芸家はガジュマルの種子を配布する
受けとった諸君は
播種して七日めにはとても小さな双葉を発見するだろう
生まれたものの弱々しさと
生きようとする意志の不敵なひらめきを諸君は見るだろう
そして そのとき 諸君の耳に
はてしなくつづく芽の行進のどよめきが
かすかにきこえるだろう
そう 沖縄の地から発せられる 芽の行進のどよめきが

     「四月の園芸家」(部分) [3]

 私たちのデモ、アピール行進は、「沖縄の地から発せられる芽の行進」に連なっているだろうか。私たちのコールは、「芽の行進のどよめき」を伝えることができただろうか。
 連なっていると思いたいし、伝えることができたと信じたい。たとえ、そうでなくても、「今日も水やり/明日も水やり/つづけることだ」。それはきっとできる。

[1] 石川為丸(石川為丸遺稿詩集刊行委員会編)『島惑ひ 私の』(榕樹書林、2015年) pp. 8-9
[2]
同上、pp. 97-9
[3]
同上、pp. 110-1

 

2015731

 古い友人から暑中見舞いが届いた。東北大学理学部を卒業し、東京で職業人を終え、今は故郷の北九州で暮らしている。厳しく労働運動を生き抜いた友人らしい葉書だ。涼しげな花火模様の暑中見舞葉書の中央に朱文字で書かれているのはたった2行だけだ。

 安保法制断固反対
 原発再稼働許さじ

 暑中見舞などほとんど書いたことのない私は、さてどんな返事にしたものか思案中だが、この2行以外はすべからく枝葉末節に思えてしまうのが辛い。
  (中略)
 広瀬通りを渡ると、フォーラス前でSEALDs_TOHOKUのメンバーが街宣していたのだが、顔見知りがさきほどのチラシを配っていた。どちらかといえば「ミドルズ」なのだが、応援を買って出たらしい
 SEALDs(シールズ:Students Emergency Action for Liberal Democracy-s)が主催する「戦争法案に反対する国会前抗議行動」が圧倒的な動員力を発揮し続けている。それをきっかけに学生を初めとする若者たちが全国各地で声を上げ始めた。
 仙台でもSEALDs_TOHOKUが発足し、89日(日)に最初の抗議行動を起こす。私はミドルズをさらに越えていて「ジールズ」とでも呼ばれるべき年齢だが、せめて後方からでも応援したくて花京院緑地公園には行ってみるつもりだ。
 SEALDsのめざましい動員力をマスコミが積極的に報道するようになったせいか、一方でSEALDsに対する卑劣な中傷、恐喝が始まっている。ネトウヨ市議がSEALDs に参加する学生は就職が難しいなどという脅迫じみた内容をフェイスブックに投稿したり、堀江貴文なる人物が「私なら採用しない」などと、その脅迫投稿に便乗したような発言をしている。挙句の果てに、SEALDs は革マルから資金提供を受けているなどいうデマを政権中枢で口走っているというニュースまで流れている。
 こうした動きは、自公政権がSEALDs を初めとする広範な国民の反対行動に恐れをなして、焦っているためだろうというのが大方の見方である。その辺のことは、730日付けの朝日新聞や31日付けの日刊ゲンダイが取り上げている。
 朝日新聞の記事では企業の人事採用担当者がデモに参加することと人事採用とはまったく関係がないと断言しているし、日刊ゲンダイの記事はこのような権力サイドの誹謗中傷で国民の抗議行動を抑えるのは難しいというコメントで締め括っている。いずれにせよ、安倍自公政権ないしはその周辺の悪あがきに過ぎない。
 私も定年間近の2年間、学科の就職担当教授なるものを引き受けて、多くの企業の人事担当者と話をしたり、就職活動する学生の推薦書を書く仕事を担当いたことがある。その経験から言えば、SEALDsのような活動を立ち上げたり、それに参加するような学生ほど就職に有利だとしか思えないのである。
 優良な企業ほど学生を見る眼がしっかりしていて、学生の社会性、積極性、自発的な解決能力などを高く評価する傾向にある。そして面接などを通じてそのような人材を見抜く目を持っている。短期的に使い捨てるような人材なら何も考えないような学生でもいいだろうが、長期的な視野を持つ会社ほどその傾向が強い。
 多くの人間を組織し、社会のルールに則った抗議行動を企画し、そのうえで自治体や警察ときちんと交渉して公園の使用許可やデモの許可などをもらうという一連のことができる能力を持つ学生をまともな企業が放っておくはずがないのだ。
 証券取引法違反で自らも有罪判決を受け、ライブドアを上場廃止にした堀江貴文が、抗議活動をするような学生を「私なら採用しない」と言ったことは、学生を送る側の立場からは歓迎すべき発言なのだ。そのような経営者がいる企業に優秀な学生を就職させたくはないのだから、経営者の方で採用しないというのはたいへん喜ばしいのである。ブラック企業に就職したい学生なんていないのだから。


 


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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(18)

2024年09月25日 | 脱原発

2014年11月21日

 選挙の話はいつでも楽しくないのだが、沖縄知事選は久しぶりに良いニュースだった。自民党(の一部)から共産党まで辺野古基地反対のオール沖縄が、自民党の現職知事を大差で破った。勝ったことよりも、オール沖縄という布陣ができたということの意味が大きい。それぞれの政党、団体が狭隘な党派性を乗り越えられたという意味は大きい。

 沖縄からはさらに良いニュースが届いた。22日の沖縄タイムスの記事である。

国政野党の社民党県連、共産党県委員会、生活の党県連は、知事選で辺野古反対の翁長雄志次期知事を誕生させた県政野党や那覇市議会保守系の新風会などによる「建白書」勢力の枠組みを衆院選でも維持。1区で共産が赤嶺政賢氏(66)、2区で社民が照屋寛徳氏(69)、3区で生活が玉城デニー氏(55)の前職3氏を擁立し、4区は新人・無所属で元県議会議長の仲里利信氏(77)を擁立する方針。 

 沖縄全ての選挙区で知事選のオール沖縄の枠組みで選挙協力が実現するというのだ。このような政治におけるきわめて現実的な決断は、沖縄の苦難の歴史なしには実現できなかっただろう。苦しみと悲しみが沖縄の人びとを鍛えたに違いないのだ。
 それに比べ、わがヤマトンチュウはどうだろう。沖縄を犠牲にしてノホホンと生きてきて、「よりましな政権のために選挙協力を」と「信頼できない政党と組む野合は間違っている」という争いの真っ最中なのである。
 うんざりするが、諦めてはいられない。今日のFBでも、次のようなやりとりがあって、私は元気づけられるのである。

Hiroshi Matsuura いいですね、肝に銘じたいです。否定的なことを言わない。不屈のオプティミストであるべきですよね。
小野寺 秀也 Matsuuraさん 「不屈のオプティミスト」、いいですね。使わせてもらっていいですか。「不屈のオポチュニスト」にならないように気をつけますので……
Hiroshi Matsuura もちろんです。しかし、「不屈のオポチュニスト」って面白い表現ですね。断固として「長いものに巻かれる」「勝ち馬に乗る」…… 考えて見ると、日本人のメンタリティーそのものですね。


2014年12月21日

 しばらくぶりで本屋に出かけた。そこでまだ読んでいなかったアガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』 [1] を見付けた。ついでに仙台市民図書館に寄って、1ヶ月ほど前に読んだスティグレールの『象徴の貧困』 [2] をもう一度借り出した。そのときアルチュセールの『マルクスのために』 [3] という本を見付けた。この本は、昔、『甦るマルクス』というタイトルで出版されていたものの再刊だというが、何十年ぶりかで読んでみようと思い立ってこれも借りてきた。家に帰って、スティグレールの本に関連するだろうと、納戸を掻き回してボードリヤールの『象徴交換と死』 [4] を探し出した。
 アガンベンの本は、アウシュヴィッツに収容された人びとの「証言」を取り上げて、歴史的な極限状況について言葉による証言の可能性(不可能性)を論じたものだが、そこに「der Muselmann」と呼ばれる収容者についての証言が紹介されている。
 ムーゼルマンは直訳すれば「回教徒」という意味だが、一般のモスレムではけっしてない。人間としての心を失い、飢えと病気で死に絶えんばかりの肉体がモスレムの祈りの姿のように地面にうずくまる姿勢からそう呼ばれたのだという説がある。
 ムーゼルマンは、「あらゆる希望を捨て、仲間から見捨てられ、善と悪、気高さと卑しさ、精神性と非精神性を区別することのできる意識の領域をもう有していない囚人」であり、「よろよろと歩く死体であり、身体的機能の束が最後の痙攣をしているにすぎ」 (p. 51) ない囚人である。ムーゼルマンは「ゴルゴンを見た者」 (p. 67) だ。ゴルゴンを見た者は人間ではなくなり、死に至り、 決して人間の側へ戻ってくることはない。
 ムーゼルマンのことを読みながら、気になる一節があった。日本の選挙の時期に、選挙のことどもを連想するというあまりに卑近な私の妄想を少し恥じ入りながら、あえて紹介しておく。W. Sofskyの著作からの引用である。

回教徒は絶対権力の人間学的な意味をきわめてラディカルな形で体現している。じっさい、殺すという行為においては、権力はみずからを廃棄してしまう。他者の死は社会的関係を終らせるからである。反対に、権力は、みずからの犠牲者を飢えさせ、卑しめることによって、時間をかせぐ。そして、このことは権力に生と死のあいだにある第三の王国を創設することを可能にさせる。死体の山と同様に、回教徒もまた、人間の人間性にたいする権力の完全な勝利のあかしなのである。まだ生きているにもかかわらず、そうした人間は名前のない形骸となっている。こうした条件を強いることによって、体制は完成を見るのである。 (p. 60)

 アガンベンも本の後半で論じているように、ナチスがアウシュヴィッツで成し遂げたことは、ミシェル・フーコーの「生政治」の極限の形態である。権力は人民の生殺与奪の権利として定義される。かつての専制権力は殺す権力であったのだが、近代の生政治は「生かしながら死ぬがままにしておくという定式によってあらわされる」 (p. 109) のである。
 私がSofskyの言葉から想像したのは、ムーゼルマンの過酷な運命でもなく、ましてや生政治に関する深遠な思想的考察でもない。「ムーゼルマン」は現代日本社会におけるいわゆる「D層」ではないか、そう思ったのである。

日本社会の階層図(ブログ「WJFプロジェクト」からの借用)

 上の図は、小泉内閣の政治戦略マーケティングのためにある広告会社が考えた日本社会の階層を表わしている。横軸を「新自由主義に肯定的(否定的)」とすればもう少し一般性が高まるだろうが、縦軸はもう少しなにか適切な基準があるかも知れない。
 IQは「生活年齢と精神(知能)年齢の比」として定義されるので、小学生レベルの漢字の読み書きに難のある60歳と74歳のIQはかなり低いと判定される。にもかかわらず、その二人がA層のもっとも象徴的な内閣総理大臣と副総理大臣だというのはこの図の信頼性を貶めている。もちろん、このようなカテゴライゼーションには例外が必ず存在するが、例外として首相と蔵相をA層から放逐したら政治的報復の怖れはないのか。
 憎まれ口はさておき、選挙を左右しているのはマジョリティであるB層だというのは間違いないだろう。そして、D層こそは、近代生政治によって「生かしながら死ぬがままにして」おかれた人びとだろう。D層の人びとは、湯浅誠が描く [5] ように、貧困と生活に追われて政治参画などは考えようがない。いわば、貧困によってあたかも政治からも社会からも隔離されるように生きている層ではないのだろうか。
 そして、安倍政権は「雇用が増えた」と誇るが、じっさいは正規雇用が減って非正規が増加しているということに過ぎない。つまり、安倍政権はB層の人びとをD層に押し出す政策に奔走しているのである。今、日本の社会はアウシュヴィッツのような生政治の極限に向かって走っているというしかない。
 にもかかわらず、将来のD層予備軍であるB層の人びとによって自公政権は衆議院選挙で勝つのである。どう考えても自殺行為だ。「時の権力のイメージ戦略のままに死の崖に突っ走るレミングの群れ」というのはさすがに言い過ぎで心苦しいが、B層こそが私たちがいつでも呼びかけるべき層であることは間違いない。現状の社会ステムでは、マジョリティであるB層が変わらない限り、政治状況を変えられないのだから。 

[1] ジョルジュ・アガンベン(上村忠男、廣石正和訳)『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(月曜社、2001年)。[2] ベルナール・スティグレール(ガブルエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代』(新評論、2006年)。
[3] ルイ・アルチュセール(河野健二・田村淑・西川長夫訳)『マルクスのために』(平凡社、1994年)〔旧『甦るマルクスI・II』(人文書院、1968年)〕。
[4] ジャン・ボードリヤール(今村仁司、塚原史訳)『象徴交換と死』(筑摩書房、1992年)。
[5] 湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版、2012年)。


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【メモ―フクシマ以後】 放射能汚染と放射線障害(9)

2024年09月23日 | 脱原発

2015年5月1日

 福島第一原発事故以降、低線量被曝による小児ガンのリスクは欧州でも関心を呼んでいる。こうした中、スイス・ベルン大学が2月末に発表した研究は、低線量でも線量の増加と小児ガンのリスクは正比例だとし、「低線量の環境放射線は、すべての小児ガン、中でも白血病と脳腫瘍にかかるリスクを高める可能性がある」と結論した。毎時0.25マイクロシーベルト以下といった低線量被曝を扱った研究は今でも数少なく、同研究はスイスやドイツの主要新聞に大き く取り上げられ反響を呼んだ。

 このような書き出しで始まるきわめて重要なニュースが「swissinfo.ch」に掲載された。ベルン大学社会予防医学研究所のグループは、スイス全土の宇宙線と大地放射線、及びチェルノブイリ事故後のセシウム137を4平方キロメートルごとに測定してマッピングした「Raybachレポート」を用い、1990年から2008年までの小児ガン患者1782人の住んでいた場所の環境放射線による毎時の放射線量と生まれたときから調査時までに浴びた総線量の両面からガンにかかるリスクを分析した。

 その結果、数値としては「生まれたときから浴びた総線量において、総線量が1ミリシーベルト増えるごとに4%ガンにかかるリスクが増える」を結果として提示した。

 スイス国民が受ける環境放射線量の平均は109nSv/hr(約0.1μSv/hr)、山岳部には0.2μSv/hrを超えるところもあって、この地域差はガン発生リスクに反映されている。チェルノブイリ由来のセシウム137による被ばくは約8nSv/hr(約0.008μSv/hr)に過ぎない。
 この結果は、福島の帰還区域の年間被ばくを20mSvとすることが、いかに国民の生命、健康をないがしろにする決定であるかを証明している。もちろん、100mSv(あるいは200mSvや500mSv)以下なら健康に影響がないとする「閾値仮説」がでたらめであることも証明している。いま、世界の趨勢は、発ガンや遺伝子異常は被ばく線量に正比例するという「直線閾値比例仮説」に従うようになっている。
 原発推進の国々に主導される国際放射線防護委員会ですら、一般人の年間被ばく限度を1~20mSvとして各国の裁量で定めるよう勧告しているのは、「閾値仮説」を採用できないことの証左でもある。閾値が存在するなら。その値を勧告すればいいのであるが、それができないということだ。
 「自然には放射能が存在しているのだから、低線量の被ばくは問題ないのだ」という俗説が流布している。文科省が作製した『小学生のための放射線副読本 ~放射線について学ぼう~』には、「放射線は、宇宙から降り注いだり、地面、空気、そして食べ物から出たりしています。また、私たちの家や学校などの建物からも出ています。目に見えていなくても、私たちは今も昔も放射線のある中で暮らしています」という、あたかも放射線は空気か水のようなものと思わせるような記述がある。そして、自然から受ける年間の被ばく線量が2.1mSvだと記している。
 これは、数mSvという放射線被ばくは何でもないことだという印象操作(悪く言えば「洗脳」)にしか思えない。「総線量が1ミリシーベルト増えるごとに4%ガンにかかるリスクが増える」のであれば、1mSvか2mSvかはとても重要な因子のはずだ。
 ベルン大学の研究が明らかにしたことは、自然放射線もまた発ガンや遺伝子異常のはっきりした原因となっているということだ。つまり、宇宙線や自然放射線も生命にとっては「危険因子」だということである。宇宙線や自然放射能は存在しない方が望ましいのである。残念ながら、生命はこのような地球に発生し、放射線を含むさまざまな種類の危険因子にもかかわらず生き延びることができたのである。
 原発推進論者の一部のホメオパシー信者が言うように「少量の放射線は体にいい」だとか、「自然放射線があるから健康なのだ」などというのは、「大地震や津波があるから人類は生き延びたのだ」というに等しいほどの愚劣な主張である。
 私たち人類は、大地震や津波の被害にもかかわらず生き延びてきたのだ。自然放射線にもかかわらず生き延びてきたのだ。大地震や津波と同じように、自然放射線も人類(生命)にとっては危険因子なのだ。ないほうがいいに決まっている。
 そして、人類はどれくらいの平均被ばく線量の増加に耐えて遠い将来まで生き延びることができるのか、現在の科学はその知見をまったく持っていないのである。


2015年10月2日

 『nature』523巻7558号に「放射線業務従事者を対象とした大規模研究で、低線量放射線が白血病のリスクをわずかながら高めるという結果が」報告されたというレポートが掲載されている。科学的な立場からはとくに驚くほどのニュースではないが、原発推進の学者の中には困ってしまう人間もいるのではないかと思う。「低線量被曝のリスクが明確に」と題する『natureダイジェスト』から抜粋、引用する。

国際がん研究機関(IARC;フランス・リヨン)が組織したコンソーシアム……は、バッジ式線量計を着けて仕事をしていたフランス、米国、英国の計30万人以上の原子力産業労働者について、その死因を検証し(研究の時点で 対象者の5分の1が死亡していた)、最長で60年に及ぶ被曝記録との相関を調べた。
 宇宙線やラドンによる環境放射線量は年間約2~3ミリシーベルト(mSv)で、対象となった原子力産業労働者たちは年間でこの値より平均 1.1mSvだけ多く被曝していた。今回の研究によって、被曝線量が高くなるのに比例して白血病のリスクが上昇することが裏付けられたのと同時に、極めて 低い被曝線量でもこの線形関係が成り立つことが証明された(ただし、白血病以外の血液がんについては、被曝線量の増加とともにリスクが上昇する傾向はあっ たものの、その相関は統計的に有意ではなかった)。
……
 調査で得られたデータの外挿により予測した結果、被曝線量が10mSv蓄積するごとに、労働者全体の平均と比較して白血病のリスクが約3%上昇することが分かった。

 ここで注意すべき点は、年間被曝量が誰もが浴びる環境放射線より平均1.1mSvしか高くない労働者の調査結果だということにある。このことは、福島の汚染地へ帰還が年間被曝20mSvを前提にすることがどれほど無謀で野蛮なことかを意味している。
 アリソン・アボットという報告者は次のようにも述べている。

「被曝量はどこかに閾値があって、閾値未満の低線量被曝なら無害であるに違いない」と信じる人々の希望を打ち砕くと同時に、科学者には、日常的な被曝のリスクの定量化に用いることのできる信頼できる数字が得られたといえる。

 「健康被害を与える放射線量には閾値があるので、低線量被曝は問題にならない」と、非論理的かつ非倫理的に主張してきた御用学者にとって、けっこうな気付け薬にはなるだろう(薬が作用する神経があれば、ということだが)。

 
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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (12)

2024年09月20日 | 脱原発

2015522

 気が付いたら715分前である。慌ててホテルを飛び出した。
 午後3時に会議は終わり、急いでホテルにチェックインして、6時頃までに宿題を終わらせようとパソコンを開いたのが徒になるもとだった。宿題といっても自分で自分に課したものだから、いくら遅れても誰も困らないのだが、終りが見えだしたので少し夢中になってしまった。
 「首相官邸前抗議」は午後630分から8時までだというのに、官邸前に到着したときはもう730分だった。東京で反原発デモに参加できる機会は滅多にない。わざわざそのためにホテル泊にしたというのに、なさけない。
 官邸前の抗議列のできるだけ前の方に行こうと国会議事堂横の緩やかな坂道を急いだ。抗議の列は国会記者会館の車の出入り口で途切れていて、その向かうが先頭のグループで、そこまで行こうと考えていたが、第2グループの先頭に目良誠二郎さんを見つけた。
 目良さんは、高校の社会科の先生だった方で、『非暴力で平和をもとめる人たち (平和と戦争の絵本 4)』 の著者でもあり、フェイスブック上でも社会問題、政治問題について積極的に発言されている。それで、私からFB友のお願いをしたのである。
 つい最近、目良さんの奥様が交通事故に遭われたというのでとても心配していた。かなりの重症で自宅療養中だということだが、米良さん自身は今日の金官デモに参加すると表明されていたので、お会いできることを期待していたのである。その怪我をされ奥様は、ナオミ・クラインの名著『ショック・ドクトリン』の翻訳者の一人である幾島幸子さんである。
 昨年の628日に『さようなら原発 首都大行進』というイベントがあって、雨が降る明治公園で初めて米良さんにお会いし、そのとき金官デモのお仲間を何人も紹介していただいた。今日も見覚えのあるお顔が何人か参加しておられた。その場で、むとうちずるさんに憲法9条タグも頂いた。私のザックに下げていた「NO NUKES FRAGILE TAG」も彼女たちのオリジナルである。とても活動的で元気なグループなのだ。
 抗議列の先頭近くで、しばらくは声を上げるというのが当初の予定だったのだが、いかんせん大幅に遅刻してしまった。国会正門前の集まりも見ておきたかったので、挨拶も早々に国会正門前へ急いだ。
 抗議の列を横目に、先ほど歩いてきた道を下っていった。列が途切れるようになると、さまざまなパフォーマンスで抗議をしている人たちがいる。デモのように移動しない定点行動なので、いろんなやり方で意思表示ができるのがいい。デモが多量性の価値なら、こちらは多様性の価値と言えそうだ。
 一人で太鼓と読経で抗議している人もいる。大きな絵を何枚も並べて意思表示をしている人もいる。国会正門へ曲る交差点の角では、一組の男女が優しげな声で「おやすみ、原発」と歌っていた。
 国会正門前に近づくと、大きな行灯(ぼんぼり?)を囲んでタンバリンや小太鼓などの打楽器を演奏しながら無言で踊っているグループがいた。
 さらに進むと、歩道脇の低い石垣の上に小さな灯籠(キャンドルライト?)がたくさん並べられていた。いろんな言葉によって、多くの人の願いや希望、祈りがここに集められて、光を揺るがせている。
 正門前ではスピーチが行われていて、遠目で断言しにくいが、私が着いたときにスピーチを終えたのはミサオ・レッドウルフさんのようだった。
 もう、時間がない。正門前でのスピーチをじっくり聞くこともなく、官邸前に急いで引き返した。抗議列の途中に入り、少しばかりコールに声を合わせた。官邸前ということもあって、仙台での金デモとはコールの言葉がちがう。「原発ヤメロ。アベもヤメロ。原発もろともオマエもヤメロ」というコールは、官邸前だから意味がある。直截に「オマエ」と言えるのはここしかない。
 まもなく抗議行動終了の8時になるので、目良さんたちに挨拶をしようとさらに前に進んでいったら、行動終了のアナウンスがあって、きっかり8時に解散である。なんとか挨拶ができて、写真を撮りあってお別れをした。
 「仙台も頑張っておられますね。」と目良さんが言い、「いや、人数が減って、なかなか戻りませんね。」、「こちらもですよ。」というやりとりをした。
 民主党政権のときは、大飯原発の再稼働を決めたりしたものの、いずれ原発ゼロを標榜していたので、反原発も勢いがあったが、安倍自公政権になってからは原発を止める気がないことが明らかになったので、一挙に長期戦の様相を帯びてきた。
 闘いや運動が長引けば、人が減ったり増えたりするのは当然のことだ。それでもコアの人たちが状況の変化に耐えて行動を続けていれば、また多くの人が参加する機会の受け皿になることができる。「続けることが大事ですよ。」と目良さんはあっさりと言われた。
 仙台の金デモであれ、官邸前抗議であれ、ここにこうやって集まって声を上げている人たちを私のこの目で眺めることが、私自身の心の活性化に、あるいは精神の気付け薬としてとても有効だということだけは実感することができる。

 


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【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(17)

2024年09月17日 | 脱原発

2014年9月19日

 安倍政権になってからの政治状況は暗い話題ばかりになってしまった。フランスの哲学者ベルナール・スティグレールが2002年の4月21日のフランス大統領選で極右政党国民戦線のジヤン=マリー・ルペンが票を伸ばしたことに驚いて次のように書いている。

その日恐ろしいほどはっきりとわかったのは、大統領選でジャン=マリー・ルペンに投票した人たちというのは、私が共に感じることのない人たちだということである。それはあたかも、われわれがいかなる共通の感性的体験をも共有していないかのようなのだ。私にわかったのは、それらの男性たち、女性たち、若者たちは今起こっていることを感じとることができない、それゆえ自分たちが社会に属しているとはもう感じていないということである。 [1] 

 なぜそのようなことが起こるか、ということをスティグレールは『象徴の貧困』で論じている。私たち一人ひとりの「私」は、歴史的経験、思想、芸術などが作り上げた象徴を共有し、交換することで「われわれ」としてこの社会を形成しつつ存在している。樫村愛子は、それを「象徴的なものは、芸術に代表されるように、人の生の固有性を維持するものである。スティグレールは、象徴的なものの生産に参加できなくなると「個体化」の衰退が広まると述べる」 [2] と解説している。スティグレールの「象徴」は、樫村が言う文化がもたらす社会の「恒常性」に近いものだろう。
 ハイパーインダストリアル時代に私たちは消費者として画一的な価値観に晒され、「みんなが買ったから、私も買う」というような「みんな」のなかの一人としての「私」でしかなくなっている。しかし、「個体化」が衰退して象徴を交換できなくなった貧困者は「消費者社会の中心であり、彼らこそ「文明」なのだ」 [3] とスティグレールは言う。
 象徴の貧困者は、2002年のフランスでは政治的にはマジョリティとは言えないが、日本では石原慎太郎が都知事に圧勝し、橋下維新の会が大阪で圧倒的な支持を受け、いまや安倍自民党政権の支持者として重大な政治結果をもたらしている。日本における彼らの性向については、想田和弘の『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』 [4] が詳しい。
 象徴の貧困者が、スティグレールが言うように「消費者社会の中心」なら問題はかなり深刻である。しかし、スティグレールは、次のようにも語っている。

私がここで象徴の貧困と名付けたのは、まずこの極右政党に投票した人たちが苦しみ、投票という証言――その証言がどんなに醜悪なものであり、またそう見えたとしても――をしているその貧困のことである。ただし、その政党そのものと私が話し合うということは当然ながらあり得ない。
しかし、国民戦線との話し合いを拒むからといって、この政党に投票した人たちと話し合わないということでは決してない。それどころか私は誰よりもその人たちに向かって話さなければと考えている。 [5]

 そして、「国民戦線へ投票する人たちに異議を申し立てる闘いにおいて、私が彼らに何よりも言いたいのは、私の彼らへの友情なのだ」 [6] とまで断言する。スティグレールは、「ARS INDUSTRIALIS」なる国際運動組織を立ち上げて、消費者社会が席巻する現代文化の問題に立ち向かっているというが、その詳細を私は知らない。
 いま、スティグレールを含めて多くの人びとが、友情を持って「彼ら」に話しかける内容、方法を模索しているに違いない。私もまた何かを、と願ってはいるのだが。

[1] ベルナール・スティグレール(ガブルエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代』(以下、『象徴の貧困』)(新評論、2006年) p. 24。
[2] 樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析――なぜ伝統や文化が求められるか』(光文社、2007年) p. 95。
[3] 『象徴の貧困』 p. 26。
[4] 想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波書店、2013年)。
[5] 『象徴の貧困』 p. 211-2。
[6] 『象徴の貧困』 p. 218-9。

 


2014年9月28日

 9月27日午前11時53分に長野、岐阜県境の御嶽山が突然噴火した。今月に入って火山性地震が頻発していたが、これまでの御嶽山の火山性地震が必ずしも噴火に結びつくわけではなかったことや、山腹膨張などそれ以外の予兆がまったくなかったこともあって、噴火の予知は不可能だったという。そのため入山禁止などの措置がとれなかったので、多くの登山者が被害に遭い、28日現在、27人負傷、うち10人意識不明(朝日新聞)とか、7人が意識不明、42人が重軽傷(NHK)、あるいは山頂付近で31人の心肺停止が確認(毎日新聞ニュースメール)と報道されている。火山噴火を予知できないことで、大きな人的被害が出ているのだ。
 御嶽山噴火は、川内原発が新規制基準に適合していると判断した原子力規制委員会の結論がきわめて危ういことをあらためて示した。
 九州電力は、川内原発の半径160キロ圏内に位置する複数のカルデラが、破局的な噴火を起こす可能性は十分に低いうえ、監視体制を強化すれば、前兆を捉えることができるとの見解で、それを規制委員会は容認した。
 しかし、「東大地震研究所の中田節也教授は、カルデラ噴火の前兆は確実に捉えることができるとの見方を否定する。中田教授はロイターの取材に対し「とんでもない変動が一気に来た後に噴火するのか、すでに(十分なマグマが)溜まっていて小さな変動で大きな噴火になるのか、そのへんすら実はわかっていない」と話した」(REUTERS)と報じられているように、火山噴火の専門家は「前兆を捉えられる」とする「素人」の九州電力、原子力規制委員会の判断を否定している。火山噴火予知連絡会の藤井敏嗣会長が、原子力規制委員会に予知する術はないと強く批判したのはまったく当然のことなのだ。
 火山噴火の一点を見ても、原子力規制委員は各分野の専門家と称しながら、専門家の学術的な意見に耳を傾けないのである。彼らの判断基準が、もはや学問的、専門的な知見に基づいているとは言い難いということだ。自分の専門分野以外のプロフェッショナルに敬意を払えない科学者というのは、科学者としてのアイデンティティを自ら否定しているに等しい。
 他人の専門性を尊重せずに、自分の専門性は尊重してほしいなどとは、合理的な理性の持主なら口が裂けても言えないはずだ、ガキじゃあるまいし。 
 私たちは、原子力規制委員会の川内原発に関する判断を否定し、安倍政権の原発再稼働の政治的策動に抗い、鹿児島県知事の再稼働推進を拒否するために、今日もデモに出かける。


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【メモ―フクシマ以後】 脱原発デモの中で (11)

2024年09月15日 | 脱原発

2014125

 しばらくぶりで加美町から参加している浅野さんのスピーチを聞いた。二つのニュースを取り上げての熱弁である。
 一つは、宮城県知事が福島県知事に指定廃棄物の最終処分を福島県で引き受けるように要望して一蹴されたというニュースである。東電福島第1原発から飛散した放射能の汚染された指定廃棄物を自治体で押しつけ合うのが筋違いも甚だしいという話である。国と東電が責任を持って処分すべきものなのだ。知事がものを申すべき相手は国と東電のはずだ。
 放射能から県民を守る意識があれば自ずと採るべき行動は明白なはずなのだが、見るべき方向が逆転している。
 もう一つのニュースは、原発立地自治体である女川町でのアンケート調査で、町民の過半数は原発反対だったという結果に対して、女川町長は「原発の問題は全体の立場から考えるべき政治問題で、1地方自治体が判断できる問題ではない」と発言したということだ。 ここでもまた、住民を向いていない政治の姿がある。地方自治体の首長は、選挙で選ばれた政治家ではないのか。政治家として全体の立場から原発という「政治問題」に対して採るべき政治的態度を決めるべきではない。もう少し厳密に言えば、女川町民に対して最優先の政治責任を有する女川町長として、(全体のことを勘案しようがしまいが)原発に対する政治的行動を明確にする義務があるはずだ。
 知事も町長も、県民や町民に対する本来の責任と義務にまったく関心がないようなのである。それでもその職業から放逐されないあたりに、政治家が「profession」には含まれない理由があるのかもしれないが。ちなみに、professionに含まれる職業は「知性」とか「専門性」を必要とするものばかりである(と、英辞典に書いてあった)。

 

2015年38

 14:20頃に国会正門前につくと大勢集まりだしているが、スピーカーのテストなどでまだ準備中である。「国会前大集会」は15:30からなので、早く着いた人たちは、歩道沿いの低い石垣に腰掛けて待機している。もう石垣に空きはないので、私は立ちんぼで待機である。
 開始時間が近づくと、国会に向けてコールがあり、続けて「ジンタらムータ+リクルマイ&The K」による演奏、歌、コールがあって大いに気勢が上がる。
 主催者挨拶に始まり、政治家が到着順に登壇した。社民党の吉田さんと福島さん、生活の党の三宅さん、共産党の志位さん、藤野さん、池内さん、吉良さん、民主党の菅さんと続いた。
 ミサオ・レッドウルフさんの挨拶は迫力あるコールで終ったが、福島瑞穂さんと吉良よし子さんも最後にコールで挨拶を終えた。
 政治家のスピーチの後で、一旦、シュプレッヒコールで勢いを整えて、ふたたびスピーチが始まる。
 映画監督の鎌仲ひとみさんは上映が始まった映画『小さき声のカノン』の話と、福島に住む子どもたちの保養の重要性を話された。
 絵本作家の松本春野さんは、さまざまな事情の中にある福島の人たちに寄り添うことの大切さについて、市民電力連絡会の竹村英明さんは再生可能エネルギーへの転換がもたらす脱原発への道について、それぞれ訴えられた。
 雨宮処凛さんもスピーチの後にコールの声を上げられた。続いて登壇した小熊英二さんは、学者らしくとても冷静な話しぶりだった。311以降、社会の空気は確実に変わったこと、原発再稼働を目論む経産省にしても最大でも56基の原発しか稼働出来ないと考えているということから、仮にどこかの原発が再稼働しても311前とは大きく変わったことは間違いない、という話だった。
 ただ、小熊さんの話に参加者の1部は不満だったらしく、ブーイングが出た。パーフェクトゲームではなくても前進している、ということに対して不満があったらしい。パーフェクトゲームを望むというのは間違いではないが、冷静な状況判断も必要だろう。どのような運動でも、行け行けどんどんの人たちはいるし、その人たちが運動を牽引するエネルギー源になることは否定しないが、完璧主義は原理主義であったりする。そして、困ったことに運動集団の中では過激な原理主義がしばしば説得力を持ったりするのである。
 私は、小熊さんのような冷静な状況分析を貴重に思う。ただ、このような集会では、政治家のように「ともに闘いましょう」とかシュプレッヒコールで感情をシンクロさせるような話しぶりが歓迎され、冷静で客観的な小熊さんのような話しぶりは好まれないのだろうとは思う。しかし、感情を煽る演説には大きな落とし穴があることは歴史が示していることも確かだ。情熱と理性がともに手を携えて、などということはきれいごとかもしれないが……



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