中村純:東京生まれ。詩集『草の家』、『海の家族』。詩と思想新人賞、横浜詩人会賞受賞。3・11後、京都に移住。
「女に生まれるのではない。女になるのだ」と言ったのはボーヴォワールだったか。それでは、女はどのように母親になるのだろうか。世間の愚かな大人たちは「親になる覚悟が大事だ」と言ったりする。たぶん、これは欺瞞だろう。人類が生まれて数百万年、累々と続く親と子の切れ目のない血類の繋がりが、無数の親たちの覚悟の結果だとでも言うのか。
人間は、その生まれた自然体で、つまり何の覚悟もなしに、十全に親でありえるはずだ。いや、ありえるはずだった、と言うべきか。
子を産むこと、それだけが母親が「母親であること」の十分にして無欠な契機である。どんな社会的な(言説の)飾りあるいは汚れも、母親が「母親であること」をそれ以上に称揚することも貶めることもできない。
裸の凛とした肢体で私たちはただの母だ
裸の凛とした肢体で私たちは君たちを産んだ
……(中略)………
君を産んだあの日
素足で世界に降り立って
世界と和解した夜
何度でも君を産みたいと願ったあの夜
「もしも、私たちが渡り鳥なら―すべての母たちへ」部分 [p. 10-11]
「裸の凜とした肢体」だけで女は母親になる。それ以外に何が必要だろう。だからこそ、「君たちを産んだ」ことで「世界と和解」できるのだ。そして、「何度でも君を産みたいと願」うほどに、永遠に母親であり続けようとする。それが、「君を産むこと」で「母親になる」ことと「母親である」ことが一瞬にして同時に完結する機制である。
人は村落共同体や国家を作りあげ、それを支える共同幻想を発達させることによって、あらゆることに覚悟が必要になったのだ。人は覚悟をしなければ親になれなくなってしまったのだ。今や、国家が「あらゆる覚悟」を強要していると言える。
国家が近代とともに「生政治」に目覚め、「剥き出しの生」を人口として管理するようになってから、国家は、母親に「母性」性を強要するような言説、権力システムを構築する。「母性」性は、近代の国家戦争のための兵士生産の原動力とみなされる。
そのようにして、社会は母親に薄汚れた「覚悟」を強いるのである。
それでも、親は(父親も母親も)遠い父祖からそうであるからのように家族を形づくり、食卓を囲む日々を営むのである。
さかさに雨の降る水底の食卓よ
赤ん坊のやわらかな足の裏に触れて
乳を与える母の安堵
見つめる父の静謐な幸福
つつましくはじまったばかりの家族の時間
津波にはぎとられ放射能の雨が降り探し出してあげることもできなかつた
この港に放置された魚の匂いの風が吹くとき
海の底に家族の幻影を視る
「水底の家族」全文 [p. 17]
その家族に「国家」は新しい異様な「覚悟」と「決意」を強要する。かつて喧伝された「母性」性の言説は、母親のその子だけを犠牲にせよ、という要求であった。しかし、放射能被爆がもたらす「覚悟」とは、子の命ばかりではない。子の子、そのまた子の子、未来へ繋がる血類のすべての命を犠牲にせよ、と強いる「覚悟」である。「子を産む」母親の類における自らの本性を自ら否定する「覚悟」である。
きみのやわらかなほほに
吸い込まれる光の粒子は
きみのやわらかなてのひらに
きみのやわらかなあしのうらに
触れる砂は
いのちをはぐくむものか
いのちに傷をあたえるものか
きみたちの幼い時空によぎった放射能の雲を
どうしたらよけることができる?
「やわらかな者たちへ」部分 [p. 15]
かつて国家が強要した覚悟は、人種(または民族)殲滅への強要であった(ナチスがユダヤ人を殲滅しようとしたように)。いま、国家が強要する放射能被爆は、人種を越えて、類への殲滅戦に駆り立てるもののようだ。地球に拡がっていくであろう放射能汚染に母親はどう立ち向かえばいいのか。
国家からもこの社会からも強要されない、母親が母親であることのおのれ自身の「覚悟」と「決意」で、子の手をひいて歩いていくしかない、ということか。
見えない毒から子どもを守るために
幼い子どもたちの手をひいて
見知らぬ土地に行く新幹線に飛び乗ったあなた
世界がたとえあなたを悪しざまに言おうとも
あなたはひとりではない
「たとえ世界が悪しざまにいおうとも―勇敢な女に」部分 [p. 31]
(写真は記事と関係ありません)