夏に開かれた『松本竣介展』に較べれば、さすがに『東山魁夷展』は圧倒的に人出が多い。いつも思うのだが、展覧会の人出は画家の人気と線型の関係があり、見事なバロメーターになっている。ただ、それが美術の審級と線型性を持っているかどうかは知らない。
画家の人気もマスコミでの露出度と強く相関しているのは、現代では当然のことだ。なにしろ、政治の世界ですらそうなのだから。政治家になる手っ取り早い方法は、芸人かテレビタレントあるいはアナウンサー、ただの評論家ではなくテレビコメンテーターになることで、政治学や政治思想なんて関係ない。テレビの露出度と投票数との線型性が明確である。テレビで見知ってることが、日本人の「知」なのである。
話題があらぬ方向に曲がってしまったが、東山魁夷の人気がマスコミでの露出度によるなどというつもりは毛頭ない。東山魁夷の絵は観る機会が多いし、新聞、雑誌、テレビでも取りあげられることの多い日本画のビッグネームであることは間違いないけれども、その高い評価は、ポピュラリティとは関係がないだろう。
それにしても、私などは、日本画家というと「老大家」というようについ老人をイメージしてしまう。もちろん、それはお粗末なイメージには違いないが、それもまたメディアによって私たちに紹介される日本画家が大成した画家、つまりそれなりの経験を重ねた画家が多いということによるのだろう。
一方、対極にあるようなモダン・アートの場合には、メディアによっても比較的若い画家たちが紹介されることが多い。メデイア自体がそのようなイメージで芸術家たちを見ているのかもしれないが、そういう情報のなかで私(たち)のイメージ(偏見)が形作られてきたのだ。
だから、86才になったダダカンこと糸井貫二が仙台で若い時と同じように意気盛んに暮らしているという話を聞くと、凡庸な偏見でしか芸術家を見ていない私のような人間は(理不尽なことに)驚きを感じたりするのである。ダダイストだって年を取る、という当たり前のことに驚いているのである。
『東山魁夷展』はこのような私の偏ったイメージを確実に一つ潰した。戦後生まれの私にとって、東山魁夷はずっと「日本画の大家」、つまり老大家なのであった。しかし、実際には、東山魁夷が「東山魁夷」となる時期が(私の想像を越えて)かなり若い時なのである。それは、《自然と形象》三部作を描いた時なのだと、展覧会を見終えて私は確信した。
《自然と形象 秋の山》 1941(昭和16)年、紙本彩色・額装、
149.9×150.1cm、個人蔵。 [1]
《自然と形象 雪の谷間》 1941(昭和16)年、紙本彩色・額装、
120.5×120.5cm、個人蔵。 [2]
《自然と形象 早春の麦畑》 1941(昭和16)年頃、紙本彩色・額装、
120.6×120.6cm、個人蔵。 [3]
「形象」というような抽象画でよく見られるようなタイトルをつけられた東山作品は後にも先にもこの三部作だけではないかと思う(少なくとも、図録には見当たらない)。たぶん、この三部作が厖大な東山画業における特異な位置を占め、重要な意味を持っているのではないか。そのような印象を受けた。
この「形象」三部作は、描かれた具体的な土地が表示されていて、 いわば写生画、風景画として展示されているらしいのだが、私にはどうしても具体的な風景の写生には思えないのである。実際の風景がいったん画家の心象に写し取られ、その上で一般化された形象、抽象化された風景として「東山魁夷化」されて、再表象された絵だと思うのである。
「東山魁夷化」されたと表現したが、正しくはこの三部作によって画家は「東山魁夷」となったのではないか。この三部作以前の写実性とは明らかに異なっていて、その後の数々の大作の芽がここに含まれているように思う。
《秋の山》の裸木や《早春の麦畑》の明瞭な線による空間の区切りは、裸木だけで構成される《森のささやき》や《森の静寂》、《薄暮》などに繋がっていく。《秋の山》の色彩は、はっきりと《秋映》や《黄耀》の先駆けであろうし、《雪の谷間》はそのまま《たにま》であるばかりでなく、魁夷特有の緑青の世界に拡がっていく契機たりえたのではないか。
いったん「形象」として抽象化された風景は、すでに写生ではなく東山魁夷の想世界となって具象化(再表象)される。芸術は本来そのようなものだと言ってしまえば言えるのだが、そのプロセスを《自然と形象》三部作のように、方法論的に意識化され、実験的に試みられ、そして成功した例というのは珍しいのではないか(私のあまり多くない鑑賞経験からの推測に過ぎないが)。
《春兆》 1982(昭和57)年頃、紙本彩色・額装、130.0×180.0cm、
長野県信濃美術館 東山魁夷館。 [4]
どの絵も感心して眺めるばかりだったが、長く足止めさせられた絵があった。《春兆》である。 デンマーク・コペンハーゲンの風景ということである。
描かれているのは、常緑針葉樹のトウヒの林、画家の背後から頭上に覆い被さっている落葉広葉樹のカツラ(ダケカンバやシラカバの可能性もあるが大木を想定しにくい)、そして薄雲の空だけである。
カツラの木の小さな若葉、萌える若緑によって北欧の春を描いたものであるが、端的に言ってしまえば、日本画の「凄さ」を感じた。主題となるべき春の萌をこのような構図で描き込むような西洋画の記憶がない。展示されている作品の象徴的な日本の風景とは明らかに異なる風景でありながら、日本画に内在する力というものを感じる。それは東山魁夷の力だろうけれども、背後に累々と受け継がれた日本の画家たちの美意識の積分された力でもあるだろう。
あえて展示中の一作品を、ということになれば、この《春兆》である。
《白い朝》 1980(昭和55)年頃、紙本彩色・額装、147.0×205.0cm、
東京国立近代美術館。 [5]
《春兆》の前で立ちすくんでいたら、妻が追いかけてきて引き戻された。《白い朝》が気に入ったというのである。自宅の庭の風景だという解説にいたく感心している。
《夏に入る》も気になった作品である。やや大きくなったたった一本のタケノコが初夏を象徴している孟宗竹の林の絵である。
《夏に入る》 1968(昭和43)年頃、紙本彩色・額装、88.6×129.6cm、
市川市東山魁夷記念館。 [6]
正直に言えば、竹林の日本画としてはとりたてて特徴があるとは思わなかったのが、絵から目を放す(絵から焦点がはずれる)瞬間にザラッとした感覚が走ったのだ。その感覚の原因が分からなくて、絵を眺め、目を外す、という動作を繰り返してみて、どうも竹の節が神経に障るらしいということに気がついた。
絵に私の視線の焦点が合っていないと竹の節が浮き上がってきて、その空間配置のリズムが私の生理にうまく対応しない、ということらしい。竹それぞれの節は問題なく正しく描かれているが、明るく描かれた幹には暗い節、暗く描かれた幹には明るい節、なかには明と暗の2色で描かれる節もある。その多様な節だけが浮き上がって見えるときに不安定感のような感覚が私のなかで生まれるようなのだ。
東山魁夷の絵の謎だと面白いと思うが、私の神経の問題という可能性のほうが強そうだ。
[1] 『東山魁夷展』(以下、図録)(日本経済新聞社、2012) p. 35。
[2] 図録(日本経済新聞社、2012) p. 34。
[3] 図録(日本経済新聞社、2012) p. 36。
[4] 図録(日本経済新聞社、2012) p. 136。
[5] 図録(日本経済新聞社、2012) p. 128。
[6] 図録(日本経済新聞社、2012) p. 98。