かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【メモ―フクシマ以後】 原発・原爆についての言表をめぐって(23)

2024年10月21日 | 脱原発

2015年5月31日

   いま、国会では戦争法案の審議が行われていて、1年と言わず1ヶ月という単位の重大な時期を迎えている。国会審議とはいうものの、議論はまったくかみ合っていない。姜尚中さんがテレビで「自公政権としては消化試合なので、議論する気はまったくないのだ」という意味のことを話されていた。時間を稼いで、時期が来れば多数で押し切ろうということだ。
 また、ある評論家が「戦争法案の中身を知っているのは、自民党に一人、公明党に一人、あとは数人の官僚だけだ」という意味のことを言ったとどこかに書いてあった。真偽のほどは確かめようもないが、中谷防衛相や岸田外務相の矛盾だらけのトンチンカンな答弁を聞いていると、戦争法案の意味をまったく理解していないというのはきわめてもっともらしいと思える。
 最近、政治における反知性主義についての言説が多く見られるが、安倍や中谷や岸田は反知性主義者などではなくて、非知性主義、主義と言うほどではないので「非知性」ないしは「無知性」なのではないかと思えるのである。つまり、反知性主義によって操られる「無知性」が表舞台で見せている言動が、今の国会の状況ではないかと考えると私なりによく理解できる気がするのである。
 白井聡さんが首相補佐官の磯崎陽輔参議院議員の「立憲主義なんて聞いたことがない」という発言を取り上げたうえで、東京大学法学部を卒業している磯崎を次のように評している。

 学歴者は一般に、少なくとも知性のある部分は発達している。いわゆる頭の回転の速さや知識量は標準レベルを超えており、またそれらを鍛える機会にも相対的に恵まれているだろう。礒崎にしても、彼が「立憲主義」という言葉を見たことも聞いたこともなかった(そのような機会に恵まれなかった)ということは、まず考えられない。だから、礒崎がこうした発言によって曝け出したのは、「自分が興味がなく知らないことは知るに値しない」という精神態度にほかならない。己の知の限定性を知る(ソクラテスの無知の知)ことこそが知的態度の原型だとすれば、この態度は知的態度の対極に位置するものとみなしうる。 [1]

 磯崎に反知性主義の典型を見るのだが、彼の言動から直ちに思い浮かぶのは、国家公務員総合職試験をパスしたキャリア官僚のことである。もちろん、自公ばかりではなく野党の多くにも反知性主義は蔓延しているだろうが、彼らこそが日本の政治における反知性主義の根幹ではないのか。
 いわば、官僚の反知性主義に操られる自公政権の「無知性」が猛威を振るっているのだと、私には思えるのだ。社会からの批判は「無知性」の政治家に殺到しても背後の官僚には届かない構図だ。無知性であるがゆえに政治家に対するどんな批判も実を結ばない。ナントカに説法である。
 だとすれば、最終的に闘うべき相手は行政官僚である。しかし、彼らは、彼らの政治(行政支配)を貫徹するためには、社会システム上、政治家という手段を用いるしか方法はないのである。結局は、日本の反知性主義の手足を奪うという意味で自公政府を倒すことは有効であるだろう。新しく立ち上がった政権が自公政権と同様に官僚に操られる「無知性」なら、ふたたびそれを倒すしかない。

[1] 白井聡「反知性主義、その世界的文脈と日本的特徴」、内田樹編著『日本の反知性主義』(晶文社、2015年)p. 68。


2015年6月5日

 二人の女性コーラーの元気さに引かれるようにデモは進む。「女性」といえば、今日の寝起き、私のかわたれどきの読書タイムに、高橋源一郎さんが 2001年の〈9・11〉の同時多発テロが起きた二日後に、スーザン・ソンタグが「これは『文明』や『自由』や『人類』や『自由世界』に対する『臆病な』攻撃ではなく、世界の超大国を自称するアメリカがとってきた、もろもろの具体的な同盟関係や行動に起因する攻撃に他ならない」と発言したことを紹介したうえで、高橋さんは次のように書いていた。

 テロの後、すぐに「復讐」や「報復」が唱えられだしたとき、ソンタグの脳裏に浮かんだのは(たぶん)、その「復讐」や「報復」の結果、夥しい砲弾や爆撃を受けることになる人たちのことだった。なぜ、ソンタグがそんなことを考えたんだろう、と思うかっていうと、ソンタグは女性で、女性はずっと「生活」を担当させられていて、男性たちは勝手に「正義」とか「報復」とか「戦争」とかいって怒鳴っていればいいけれど、そんなときでも、女性は家にいて、夕飯を作ったり、子どもの世話をしなければならないわけだからだ。「爆弾を落とされる側」のことがすぐに脳裏に浮かぶのは女性で、そして、実際に爆弾が落ちてくると、「ほんとうに迷惑だな」と思うんだよ。[2]

 高橋源一郎さんは、さらに『ゲド戦記』の作者、アーシュラ・クローバー・ル=グインの『左ききのための卒業式祝辞』という文章の中から「男たちは、ずっと「上」を見ていました。けれど、わたしたち「女」のルーツは、「闇」に、「大地」にあるのです」という趣旨の言葉を取り上げた上で、次のように記していた。

 この「下」へ向う視線こそが、ソンタグやル=グィンを特徴づけていて、それは、なぜだか「上」へ向かいっ放しの多数派の考え方とは正反対を向いている。そして、彼女たちは、自分の考え方が、世間の多数派のそれとは逆のベクトルを持っていることに十分に自覚的だったんだ。そして、それが可能だったのは、彼女たちが、「女性」であったから(もちろん、女性なら誰でも彼女たちのように考えられるわけじゃない。男性のように考え、男性社会に無意識に受け入れられることを望んでいる女性だって多い)で、この、男性中心社会の中で、どうしようもなく「少数派」(「左きき」はそのシンボルだね)であることを運命づけられていたからなんじゃないだろうか。
 だから、ぼくには、もしかしたら、いまや「知性的」なものとは、「女性的」であることをどうしても必要としているのかもしれないとさえ思えるんだ(ここに、ハンナ・アーレントの名前を付け加えると、ソンタグとアーレントはユダヤ系という、もう一つの「少数派」の条件が加わるね)。[3]

 「下」へ向う視線が女性特有であるかどうかは私には断定できないが、そのような優れた感性と思想を備えた尊敬に値する女性がいることはまったく同意できる。アメリカ空軍の無人爆撃機に取り付けられたビデオ映像に興奮する男の感性には敵を殲滅する英雄的な戦闘機乗りのイメージが重なり、同じ影像から爆弾の目標になっている母と子どもの姿を思い浮かべる女の感性を「下」へ向う視線と喩えたら、その違いがよく分るだろう。
 高橋源一郎さんが描いて見せた女性たちが、戦争法案を強引に通そうとする自公政権の男たち(と男になりたい女たち)に正しく反対できるのは間違いないだろうが、男たちだってやれるはずだ。少数派といえども、そういう男性がたくさんいることも知っている。

[1] 高橋源一郎「「反知性主義」について書くことが、なんだか、「反知性主義」っぽくてイヤだな、と思ったので、じゃあなにについて書けばいいのだろう、と思って書いたこと」、内田樹編著『日本の反知性主義』(晶文社、2015年)p. 111。
[2] 同上、p. 127。
[3] 同上、p. 128。




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