かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

〈読書メモ〉 『現代詩文庫34 金井直詩集』(思潮社、1970年)

2024年10月20日 | 読書


 金井直の詩はとても魅惑的だ。生意気な言い方だが、私好みと言っていい。目の前の日常の暮らし(それが病を得た日々であっても)を描く視線と情感がいいが、何よりもそこからごく自然の成り行きのように哲学めいた思念が語られるのがいい。その部分だけを切り出しても素敵なアフォリズムになっていて、ニーチェよりもはるかに抒情性のあふれた警句であったりする。次の詩でも、病院と病人を描きつつ、自分自身と病気をめぐる思惟が語られている(個人的なことだが、私もまた難病指定の病を得て入院生活を送り、今は自宅治療中の身ということもあって、この詩には切実に迫ってくるものがある)。

こちら側の建物の影が
いちめんに雑草の生えた庭を
半分にくぎっている
窓辺には
思いだしたようにきこえる
細い虫の声がある
時折 うすぐらい空気が
刃のようにひやりとする
あちら側の建物の
葭簣張のひよけがつづいている窓の下に
咲き残ったカンナの花が
黄色く憔悴している
この影と光の中庭で
くさりにつながれた羊が
しきりに草をたベている
明暗のあいだ
「生」はそのように
不確な場所につながれているのか
あけ放された窓と云う窓の中の
顔はぼんやり白く
影と光の境界を出たり這入ったりしている羊をみている
その視線はすべてに去られまいとするように
どこにでも向けられる
そしてあちらとこちらの顔が見合わされると
互いに自分の顔に気づいて
おどろいたように窓の奥に消える
やはりつながれているものは
羊ばかりではなかったと
見てはならぬものをみてしまったように思う
しかし 私の眼は見るだろう
人がなぜそのようにそこに在るかを知るために
私は去来するものをみるだろう
つねに薄明の中で
廊下の窓際におかれてある
木のかたい長椅子に腰をおろして
治療室からの呼掛けを待っている
幸福や不幸の順番をおとなしく待っている
所在なく
白壁の何かのしみに見入る
欠伸をする 静かな咳をする
物の本にこころをなだめすかされる
人はさまざまな仕種で
「時」を送り 迎えている
人が「時」に気づくときは
人がいれかわったり 去ろうとする人の足もとに眼をおとしたり 物音におどろいたり
立上った人のけはいを頬に感じたりするときだ
そのとき人は時計の針がどこを指しているかを知ろうとする
そして 治療室に這入っていく人の背中から
人は人生の裏側をのぞいたように思う
治療室から出てくる人の胸もとから
いつ止るかもわからない振子の様子をみせられる
ほんとうは待っているのではなく
何かを待たせているのだと
待っているのは人ではないと思う
ふりかえると長い廊下を
寝台車が音もなくすベっていく
私の眼が行方を追う
ふとひらかれた一つの扉のなかに吸込まれる
扉の内には周到な用意があるにちがいない
けれどもあの冷く光る器具にもまして
人の裡の準備は既に済んでいるだろう
ああ しかし
あの羊をつなぐくさりにもまして
確かなところにつなぐものがあると
それゆえに人のへだたりのふかさは
つながりのふかさに等しいと
私は病んだ人から学ぶ
そして私は
私も病んでいる人だった
人は死なない
人は何ものかの手でくびをしめられるのだ
そのとき 人は人の形に憎悪のくぼみを残す
そのとき 人は愛をめぐらす
透明な花を咲かせる
そのとき私はみるだろう
その現実を支えているものの姿を
眼の高さにある太陽を
 「病舎で」(詩集『非望』)全文(p. 18)

 「しかし 私の眼は見るだろう/人がなぜそのようにそこに在るかを知るために/私は去来するものをみるだろう」とはじめはジョブのように少し軽めの思惟が語られ、「去来するもの」を見ることによって、「人が「時」に気づくときは/人がいれかわったり 去ろうとする人の足もとに眼をおとしたり 物音におどろいたり/立上った人のけはいを頬に感じたりするときだ」と、いわば生の時間のありように思い至る。
 そして、この詩は「ああ しかし/あの羊をつなぐくさりにもまして/確かなところにつなぐものがあるといくぶん/それゆえに人のへだたりのふかさは/つながりのふかさに等しいと/私は病んだ人から学ぶ」と、それに続いて「死」をめぐる思惟が語られて終わるのである。思惟が深まっていく展開と構成が抜群で、すっかり感心してしまった。
 一冊の詩集を読み終えたあと、その中から気に入ったアフォリズム風の詩句を拾い出していくのは、妙に楽しいことに気付いた。そんないくつかの詩句を掲げておく。

急に離れた ために
その手の形に真空が残った そこに猶
こころは保たれている しかし
それをどこか思い出のない場所に
捨てなければならない
そのぬくみに気付かぬうちに
なげきと傷口を持たぬうちに

引込めた手は もう
真空の位置にはかえらないのだから
 「別離」(詩集『飢渇』)全文(p. 11)

不意に冷いものが
くびすじにふれる
死者の手のように
仏陀の息のように
俺の背すじをしきりに寒気がはしる
肺臓の空洞をさかんに風が吹きぬける
俺は額に手をあてる
熱がある もえている
もえつきようとしているものがある
夜なかの火鉢の前に居ると
それがよくわかる
 「現在」(詩集『非望』)部分(p. 26)

僕は なおも生のふちに立ちつづけている
なぜなのか僕にはわからない
だが 立たねばならぬ理由が
どこにもないということを僕は知っている
 「濠をめぐる風景」(詩集『疑惑』)部分(p. 39)

かつて血を流したようにあざやかな
夕映えをみせてくれた水の
藻をかきわけるようにぼくは
悪い思いをはらいのけてたしかめる
まだ生きられる時間のながさみじかさ
 「水の歌」(詩集『無実の歌』)部分(pp. 72-73)

 金井直のこの詩集は、私にとってはときどき引っ張り出して読むような詩集になるだろう。いや、きっとそうするに違いない。このような詩集が見つかることはありがたい。この詩集について、語ることがあるとすれば、「きっとまた読む詩集だ」ということに尽きる。



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