われわれは言葉をつうじて世界と接する。だから、言葉が高貴なものたることを望んでいる。 エマニュエル・レヴィナス [1]
いつも「日本語が通じない。日本語が聞きたい」と言って電話をかけてくる先輩がいる。私より15年も早く定年退職となって遠く彼の生れ故郷の近くで暮らしている。若い人と言葉が通じないのか、社会全般との意思疎通が難しいのか、しばらくの間、私の仕事や遊びの話など近況報告のようなとりとめのない話をして電話は終る。月に2,3度の声だけの交流である。
いま、日本はバベルの塔の建設に失敗して、互いに言葉が通じなくなった世界のようだ。身の程知らずに建設しようとした「もの」は何であったか。日本国憲法前文や第9条に描かれた世界に類例のない「不戦国家モデル」であろうか、それともその国家モデルを掲げてきた「戦後民主主義」であろうか。たぶん、それはポストモダニティとしてネオリベラルな資本主義によって期待(強制)された「消費社会」なのではないか、と私は思う。
本書の「はじめに」において、著者は、「日本国憲法が一九四七年に施行され、民主主義の世の中になってから70年近くに」なる「わが祖国が民主主義以外の政治体制に移行することを、どうにも想像することが難しい」と思い、「日本国民の大半は、僕と同じような感覚でいるのではないでしょうか」 (p. 2) と述べている。
1945年8月15日を母の胎内で迎えた私もまた、「戦後民主主義」の生成・変転と完全に同期して生きてきて、日本の国家・社会の揺るがせにできない根幹として「民主主義」というものを考えてきた。もちろん、大塚英志が敢然と戦後民主主義擁護を主張している [2] ことを通じて、逆に、「戦後民主主義」を小バカにするような言説があるということも知ってはいる。
そしていま、「民主主義」と私たちが言葉を発しても、そこに込められた政治的・社会的な意味(価値観)が通じにくくなっている、あるいは、もっと直截に「民主主義」の実質的意味の大衆的廃棄が進んでいるのはないか、という危惧がある。そして、それが本書の主題である。
本書の言説のベースになっているのは、ほとんど著者の具体的な経験である。一方の登場人物は、安倍信三や橋下徹などの政治家や選挙関係者(の言説)であり、もう一方の登場者は、そのような政治家を支持する人々や政治的システムの末端で右往左往する人々、つまり、「民主」の「民」たるべき人々(の言説と行動)である。
そこから、非民主主義的というよりも反民主主義的、民主主義破壊的な振る舞い・言動を的確に描き出している。「映画を作ることを本業とする、政治については素人」 (p. 6) を自称する筆者とは思えぬほど、その分析の的確さは心理学的・社会学的に優れているように思える(かく言う私は、心理学にも社会学にもまったくの門外漢だが)。
本書は、岩波ブックレットの一冊で、とても読みやすい。人に薦めやすい本ではあるが、切実に読んでほしいと思うような人たちはこういう本を到底読まないだろう。「民主主義」にまったく頓着しない人々は、しかるがゆえに、外的にも内的にも本書を読むような契機を持たないのである。それがまた、筆者が民主主義を強く危惧せざるを得ない人間の挙動として顕われてくる最大の要因となっている。残念ながら、そういう状況的不幸の中に本書は置かれている。
三つの章で構成されている本書の第1章は、「言葉が「支配」するもの――橋下支持の「謎」を追う」と題されていて、橋下徹大阪市長(前大阪知事)の政治的言説と彼を支持する人々の言動を取りあげている。2年ほど前から私もツイッターを始め、著者がツイッターで橋下批判を展開していることは知っていた。この章で展開されている理路は、ツイッターを通じてごく部分的にではあるが知ることができていた。
正直申し上げて、「なぜ、これほどまでに橋下徹氏が支持されるのか」という疑問に対する明確な答えを、僕は持っていません。その最大の理由は、明白です。僕が橋下徹氏に政治家としての可能性や魅力を感じないばかりか、危険だとさえ思っているので、支持する人の気持ちが分からないのです。
もちろん、橋下人気の背景に、既成政党の無能・無策ぶりや、行き詰まった経済や福祉制度、原発政策などに対する、人々の鬱積した不満や怒りがあるのは明白でしょう。現状があまりに酷過ぎて、誰かを救世主に仕立てたくなる気持ちも分からないではありません。しかし、威勢はよいけど強権的で大した実績もなく、遵法意識が低く、発言内容がコロコ口変わり、ビジョンも稚拙といわざるをえない橋下氏を、なぜ救い主であると信じられるのか。僕は理解に苦しむのです。 (p. 8-9)
橋下という政治家が登場してから私自身が感じていたこともまったく同じことで、著者の感じ方に完全に同意するするしかない。だから、橋下が大阪府知事に当選したこと、大阪市長に転身し、知事選ともに維新の会が圧勝したことに驚くしかなかった。しかし、それはけっして橋下固有の問題ではなく、石原慎太郎が大量得票で東京都知事に再選されることと問題の本質は同じである。
なぜ大阪府(市)民は、政治家橋下を支持するのか。著者は、橋下支持者たちの「言葉」からその問題にアプローチする。誰でも気付くように、彼らの発言は「語彙も論理も文体も、橋下氏とそっくり」 (p. 10) なのである。
「大阪市の社長は市民が決めた橋下さん」というのは、橋下氏が「民意」を持ち出して自ら正当化したり、市役所を「民間会社」になぞらえて語るときによく使うレトリックですし「業務命令」「既得権益」「身分保障」などの語彙も、氏が好んで使うキーワードです。「嫌なら辞めろ」というのも、橋下氏の口からよく発せられるフレーズです。これらの文章の種語などを少しだけ書き換えて橋下氏のツイッターに転載したとしても、たぶんそのまま橋下氏の発言として通用してしまうほど、酷似しています。
つい最近(二〇一二年五月)話題になった「毎日放送記者の糾弾事件」でも、同様のことが観察できました。橋下氏が記者会見で、教職員の君が代起立斉唱強制問題について質問した毎日放送の記者を「逆質問」で糾弾した、あの一件です。
同事件では、その一部始終を記録した動画がユーチューブで広まり、橋下氏の尻馬に乗って記者を侮辱する言葉がネット上に溢れ返りましたが、彼らが多用したのは、「とんちんかん」「勉強不足」「新喜劇」といった言葉でした。動画を実際にご覧になった方なら分かると思いますが、これらはすべて、橋下氏自身が動画の中で発した言葉です。彼らは、「他人を罵る」という極めて個人的な作業にも、自ら言葉を紡ぐことなく、橋下氏の言葉をそっくりそのまま借用したのです。 (p. 10-1)
政治思想のみならず、人間の思考は言葉によって行なわれる。言葉を持たない者は、感情や欲情を持ちえても思考を獲得することはできない。そして、言語をフルに活用して思考することは精神的エネルギーや意志を必要とする。だから、いつの時代でも思考を節約しようとする、つまり、何も考えずに生きようとする人間は必ず存在する。
現代はソーシャル・ネットワークが発達している。コピペをするだけで言葉を発信できる。なにしろ、ツイッターにはリツイート機能があって、クリックするだけで他人の言葉をそのまま流すことができる。擬似的ではあるが、こうしたことを通じて、自分はちゃんと考えている、おのれの思想をきちんと発信している、私は意見をきちんと述べている、などと自己を欺瞞することは可能だ。
政治家の言葉をオームのように繰り返すだけで、自分の意見を表明したと思い込むにはそれなりの理由があるだろう。著者は、それを橋下流の政治手法にその「病態」 (p. 15) としての一因を見出している。橋下徹はツイッターで「民主主義は感情統治」と断言する。
橋下氏は、人々の「感情を統治」するためにこそ、言葉を発しているのではないか。そして、橋下氏を支持する人々は、彼の言葉を自ら進んで輪唱することによって、「感情を統治」されているのではないか。
そう考えると、橋下氏がしばしば論理的にめちゃくちゃなことを述べたり、発言内容がコロコ口変わったりしても、ほとんど政治的なダメージを受けない(支持者が離れない)ことにも納得がいきます。そうした論理的ほころびは、彼を支持しない者(感情を統治されていない者)にとっては重大な瑕疵に見えますが、感情を支配された人々にとつては、大して問題になりません。なぜなら、いくら論理的には矛盾しても、感情的な流れにおいては完璧につじつまが合っているからです。 (p. 19-20)
つまり、こういうことなのだ。橋下徹は、あまりものを考えないで生きている人々の感情(けっして政治意識などではない)をうまくコントロールしたのだ。そして、橋下の言葉をリピートすることで刺激された感情を満足させる。いや、それ以上に、物真似言葉を発することで橋下徹と同じ政治的土俵で闘っているという幻想に嵌っているのではないかと思う。
著者は、橋下徹の言説は「論理的にめちゃくちゃなことを述べたり、発言内容がコロコ口変わったり」するけれども、感情的には一貫していると言う。
だから日頃からマスコミに不満を抱いていたり、ミソジニー(女性嫌悪)的な暗い思いを抱いていたり、あるいは単に誰かをいじめたい気分に駆られていた人々は、彼の演出する感情に波長を合わせ易かったし、合わせることができた。そして彼が発した「とんちんかん」などという言葉をそのまま惜用して、彼らの感情をネット上などでぶちまけた。これは、橋下氏の目指している「感情を統治する民主主義」が典型的に機能した例だと言えるでしよう。 (p. 21)
妬みや嫉み、憎しみのような感情を組織するには憎むべき敵を作ってやればいいのである。「既得権益」を持つ人々、「身分保障の公務員」、「税金で飯を食う官僚」、「自称インテリ」、「学者論議」などなど、橋下はつぎつぎと憎むべき敵を作り、率先して感情に満ちあふれた悪口を言ってみせる。橋下に卑しい感情を刺激された人々は、橋下の言葉をオーム返しに発信して溜飲を下げると同時に、大阪市長(府知事)と同じ政治的レベルで政治的発言をしているという自己欺瞞に陶酔する。そういうことなのだろう。
感情を政治的に組織するというのは、民主主義的統治にとってはあるまじきことだが、歴史的には重大な事例を引き起こした悪質な政治手法だ。2013年12月14日付けの 東京新聞の「デスクメモ」というコラムは次のような言葉が掲載されていた[3]。
ヒットラーの右腕だった高官が戦後の裁判でこんな趣旨の証言をしたという。「国民は戦争を望まない。しかし決めるのは指導者で、国民を引きずり込むのは実に簡単だ。外国に攻撃されつつあると言えばよい。それでも反対する者は愛国心が無いと批判すればいい」。だまされてはいけない。
日本の先の戦争もまた、同じような政治手法によって遂行されたのである。
第2章の「安倍政権を支えているのは誰なのか?」では、憲法改正を狙う安倍政権の憲法をめぐる見識の問題と、自民党を支持する人々が安倍信三(と政権)の無知ぶりすら擁護するということへの驚きが語られる。
安倍政権の憲法観は、著者が紹介する二つの例に顕著に表われている。一つは、著者と片山さつき参議院議員(自民党)のツイッターでのやりとりで、もう一つは小西浩之参議院議員(民主党)と安倍が首相との国会でのやりとりである。
片山 国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!
想田(片山発言について) こんな考えで憲法が作られたら戦前に逆戻りだってことに、本人も気づいてない。
片山(想田宛) 戦前?! これは一九六一年のケネディ演説。日本国憲法改正議論で第三章、国民の権利及び義務を議論するとき、よく出てくる話ですよ。
想田(片山宛) 国のために国民が何をするべきかを憲法が定めるなら、徴兵制も玉砕も滅私奉公も全部合憲でしょう。違いますか? また、ケネディの就任演説と憲法の前文を同レベルで論じることそのものが、驚愕です。憲法と演説は違います。つーか、そのケネディ演説ですら天賦人権説を採っているんですよw。あなたみたいな不勉強で国家主義的な政治家が出てくることを見越したから、第九七条が日本国憲法には盛り込まれたのでしょう。あなたがた自民党改憲チームが九七条を削除したのも頷けます。
片山(想田宛) 国家のありようを掲げ、国家権力がやっていいこと、統治機構などを、規定。私は芦部教授の直弟子ですよ。あなたの憲法論はどなたの受け売り?
想田(片山宛) だったら先生の本くらい読めばいいのに。 (p. 33-4)
小西議員 安倍総理、芦部信喜という憲法学者を御存知ですか?
安倍首相 私は存じあげておりません。
小西議員 では高橋和之さん。あるいは佐藤幸治さんという憲法学者は御存知ですか?
安倍首相 まあ申し上げます。私は余り憲法学の権威ではございませんので、学生であった事もございませんので存じ上げておりません。
小西議員 憲法学を勉強されない方が憲法改正を唱えるというのは私には信じられない事なんですけれども。今、私が挙げた三人は憲法を学ぶ学生だったら誰でも知ってる日本の戦後の憲法の通説的な学者です。 (p. 39)
「私は芦部教授の直弟子ですよ。あなたの憲法論はどなたの受け売り?」という鼻持ちならない物言いに「知」に関わろうとしない精神の饐えた匂いを感じるのだが、そのことはさておき、自民党の一議員がその指導を受けたことを自慢するほどの憲法学の権威である芦部信喜を、憲法改正の先頭を走ろうとする自民党総裁は知らないのである。いや、たまたま知らないということは問題ではない(日本では、一国の宰相たる人間が無知だという現象は珍しくない)。安倍首相の「まあ申し上げます」という言い方に、知らないことは何も問題ないのだという認識や、知ろうとすらしないことを恬として恥じない様子が露呈していることに驚くのである。
しかし、「病態」としてもっと危惧すべきは、そのような安倍信三を支持する人々の言説である。
僕の目をひいた「安倍擁護の論法」とは、例えば次のようなものです。
「でも芦部信喜とかどうでもいいよね」
「あなたもそんな憲法快晴に強硬に反対しているということは少なくとも憲法 学の知識は太丈夫なんですよね?」
「どうでもいいです。しっこい。私もそんな人知らんわW 知らない事を「恥ずかしいね」つて罵倒される可能性はだれにでもあるものです」
「まず貴方と総理では覚えなければならない知識量が膨大な差に登る(ママ)と思うんだけどちがうのかな?」
「阿部(ママ)総理が過去から現在までのあらゆる憲法学について網羅していなければならないのか疑問です」
これらの擁護論に共通する特徴は、内閣総理大臣という日本の最高権力者に対して要求する資質の、異様なまでのハードルの低さです。
支持している人に対しては、どうしても評価が甘くなるのは人間の性ですが、それでも「貴方と総理では覚えなければならない知識量が膨大な差に登る」などと僕と首相を比較するのはナンセンスですし、「私もそんな人知らんわ」などと、自分が芦部氏を知らないからといって首相を擁護する論法も、実に奇妙です。相の知識レベルや見識は、まるで「私たち庶民と同じでよい」と言わんばかりだからです。 (p. 41-2)
こうした安倍擁護論を著者は、「首相(や政治家)は私たち庶民と同じ凡人でよい」というイデオロギー、「一種の思想傾向」だと見る。著者は、それを「人間みな平等」とする民主主義のありうべからざる「成果」ではないかと危惧する。
しかし、これもまた橋下支持者と同じように、考えない自分、無知である自分を容認しながら生きる人々の心性として理解できるのではないか。「首相が無知であってもいい」と認めることは、「一介の国民である自分が無知であることはいっそう問題ではない」という自己是認の別表現ではないかと思えるのだ。
安倍首相が無知だから支持しているわけではなく、「押しつけられた憲法だから」などという感情的憲法論、あるいはまた反韓、反中国感情をベースとした「(戦争ができる)普通の国」論など、橋下支持者と同じく「感情」を掬い取られて支持をしているのだと考えられる。
だとすれば、橋下の口まねをすることで府知事や市長と同レベルで政治に参加している(既得権益と闘っている)と自己を欺瞞できたように、首相が自分と同じレベルの無知で問題ないと主張しつつ支持することで、自分も総理大臣と同水準で政治に関与している(憲法改正の政治活動に参加している)という自己欺瞞に陶酔しているのではないかと考えられる。
「第3章 「熱狂なきファシズム」にどう抵抗するか」は、おそらくもっとも重要な一章である。社会の様々な場面で見られる反民主主義的、非民主主義的言動が語られる。なかでも、最も印象に残ったのは「消費者民主主義」について語った箇所である。
法学者の谷口真由美さん、劇作家・演出家のわかぎゑふさんと僕の三人でトークした後、会場にいた若い男性から、僕の意識に奇妙に引っかかる発言がありました。
いわく、「政治は分かりにくいからハードルが高い。もっとハードルを下げてもらわないと、関心を持ちにくい」というのです。
一見、ごもっともな発言です。むしろよく耳にするありふれた台詞でもあります。
しかし、何かが変です。
………
男性の発言は、政治家に対してのみならず、政治を論じている僕たち登壇者に対する「苦情」だったのではないか。そして、そういう苦情を僕たちが受けることに、僕は違和感を覚えていたのではないか。
なぜなら、僕ら登壇者も発言した男性も、「主権者」という意味では同じ立場なのであり、僕らが政治を分かりやすく語っていないと思うなら、彼がその役割を果たそうとしてもよいはずだからです。少なくとも、自分で「分かろう」と努力してもよいはずでしょう。
にもかかわらず、男性は僕らに政治を分かりやすく語ることを「要求」している。少なくとも「当然、要求してよいはずだ」という確信を抱いているようにみえる。なおかつ、「自分にはそれは要求されない」とも信じているようにみえる。
そう思い至った瞬間、僕は直観しました。
「そうか、あれは消費者の態度だ」
自らを政治サービスの消費者であるとイメージしている彼は、政治について理解しようと努力する責任が自分自身にもあろうとは、思いもよらなかったのではないか。
同時に、僕は思い至りました。
「もしかして彼のような認識と態度は、日本人に広く蔓延しているのではないか」 (p. 54-5)
そうなのだ。政治も民主主義も消費すべき商品なのだ。いまさらボードリヤールを引き合いに出すまでもなく、国民、民族、市民、大衆などというより「消費者」というアイデンティティを私たちは無自覚に生きているのではないか。多くの日本人にとって、民主主義はすでに社会の基底構造として所与のものであって、国民の努力や歴史的犠牲の上で形成されたものという受け止め方はないのではないか。
現在の民主主義が間違っているならば、誰かが正しい民主主義を並べて売りに出してくれる、それを買うから早く売りに出してくれ、と要求する。品揃えが足りないとクレームをつけることが「高い」政治意識だと思い込んでいる。
購うべき政治的商品が少ないということは、商品を選ぶだけの「消費者」には選択肢が少ないことを意味する。加えて、他人が買う品物を欲しがるのは消費者マインドとしては自然である。だからこそ、マスコミの商品レビューに煽られて、小泉自民党にいっせいに走りだし、次には手の平を返すように民主党政権に流れ、次いで日本維新の会に雪崩を打って押し寄せるのである。そして、そのマスコミはいまや「日本維新の会はそろそろ賞味期限切れ」などと新しい商品レビューを書きたてるのである。
そのように考えると、橋下大阪市長の口真似で「他人を罵る」のも橋下徹という政治家が売り出した商品を使い回しているだけではないのか、そんな思いがしてくる。あるいは、一国の首相も政治家もそのあたりの庶民程度の知識、教養でなんの問題と考える人々にとって、政治家が優れた知識・見識を有していたら政治的商品として消費することができなくなる、つまり、自分と同じ程度でないと難しすぎて使い回せる商品にはならないということなのだろう。
三章を通じて著者が描いて見せた現在の政治状況を下支えする人々、つまり、橋下支持者、安倍自民党支持者、あるいは「分かりやすい政治」を希求する熱心な市民、そして圧倒的な数の政治不参加者それぞれが、著者の語る「熱狂なきファシズム」を支えているのだろう。
著者は、憲法第一二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」を引いて、第三章を次のような言葉で結んでいる。
「憲法を書いた人は、僕がいま遭遇しているような事態が起きることを、きっと予測していたに違いない。なぜなら、その人もそのようにして、自由と権利を守り育ててきたからだ」
そう思うと、七〇年近くの時を超えて、憲法の書き手と、突然、心がつながるような気がしたのです。それはとりもなおさず、悪戦苦闘しながら民主主義を作り上げてきた人類の歴史とつながることでもあるのです
「熱狂なきファシズム」に抵抗していく究極の手段は、主権者一人ひとりが「不断の努力」をしていくことにほかならないのだと信じます。 (p. 77)
[1] エマニュエル・レヴィナス(合田正人編訳)「逃走論」『レヴィナス・コレクション』(筑摩書房、1999年) p. 164。
[2] 大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション』(角川書店:2001年)。
[3] 前澤一雄氏のフェイスブック投稿記事から。