20年近く前から、読んだ本のなかのフレーズや文章を抜き書きするようになった(抜き書きといってもハンドスキャナーとOCRソフトで取り込むだけである)。抜き書きを始めたそもそものきっかけは、定年退職直後にこれから読む本をそこそこまとめて購入したとき、そのうちの2冊は以前に読んだことがあって、きちんと本棚にならんでいるのを発見した時である。
興味があって、つまりは読みたくて読んだ本のことをすっかり忘れていたということで、かなりがっかりしてしまった。その時、忘れないためには、読んだ本のメモを取ればいいと思いついたのである。それまでも気に入った詩や短歌などはときどき抜き書きしていたので、それをもう少し広げて丁寧にすればいいと考えた。
とはいえ、どんな本でも抜き書きをすることにはならない。数ページで閉じてしまう本もあるし、読み終えてもどんな言葉も残らない本もある。読んだことが記憶に残らなくてもいいような本ももちろんある。結局、抜き書きは自分が気に入った本のなかでの気に入った文章やフレーズということになる(もちろん、思想書の類では思想の構成上重要な部分の抜き書きということもあるけれど)。
抜き書きした言葉は、私の人生の折々のシーンで私の心情をうまく表現してくれるのではないか、という期待もある。あるいは、そういうシーンがこれからの暮らしの中であってほしいという想いもある。ときどきは自分の文章や私信の中で引用もする。
だから、私の抜き書きのほとんどは「ありうべき情景」、「ありうべき情感」を表現するものに傾いている。そんな抜き書きをしていると、感動したにもかかわらず、一行も抜き書きができなかった本にも出合うことになる。
その一冊が表題の『阿部岩夫詩集』だった。詩を読む限り、1934年山形に生まれた詩人は、辛い生い立ち、悲劇的な民話のような故郷山形の物語、そして自らの病と獄舎の暮らしを苦しんでいる(私はそう読みこんでいる)。
例えば「生い立ち」についてはこんなフレーズがある。
顔とかさなって
見えかくれする
向こう側に立っている
父よ
やさしい呪文をとなえながら
巫女がいった
海と陸と出合うあの波のなかに
赤い夜をまとった哨兵の姿が
風景になったまま
自分のなかに還れないでいる
父と母は小さな声で呼びあっている
なにをきているのかえ
赤い夜じゃて
どうして父さんに見えないのかえ
顏をなくしだでなぁ
帰っておくれでないかぇ
死んだ仲間が帰してくれねぇんだ
どうしてかぇ
帰れなくなった
父の表情は凍りつき
唇だけが重く泳いでいる
巫女よ
向こう側の風景に
できるだけ父をかさねて下さい
父が殺した男もかさねて下さい
父を殺した男もかさねて下さい
「わらの魂」(詩集〈朝の伝説〉)部分 (p. 13)
例えば、獄舎暮らしはこんなふうに。
十時の点検のあと
金網のなかで運動がはじまる
見知らぬ隣人が
アイヌ語でうたを唄っている
看守たちがどなっている
アイヌの唄をうたってはいけないと
男は不意に
白刃をかまえたように
たちまち狂憤に陷り
衰弱した軀が
まるで弾丸のごとく
破壞力をもって看守のなかに
走りだしたのだ
「不羈者」(詩集〈不羈者〉)部分 (p. 31)
例えば、故郷山形の記憶(物語)はこんなふうに。
かき落とされてゆく
反撃の夢の手を
身体のなかで泳がせると
一つひとつの田畑の粒が
暗い七五三掛の地形になって
目じりからこぼれる
身体のなかに
出口の明かりがみえ
形も色も定まらないまま
村の座敷牢が
大きな口をあけて軋る
あれは一九五四年の冬
汚物が布に凍りつき
母の身体はひどく重くなって
病巣のなかで方位を失い
死のなかを浮遊する
「死の山」(詩集〈月の山〉)部分 (pp. 42-43)
そして、自分の詩業についてもこう記している。
すべては破片で
文字のない「かたち」に身体は
かさなりあわさって病み
詩が最後まで書きためらっている領域
完全な幽霊 <天皇〉の
片足を引き抜こうとすると
一方の足が吸い込まれてしまうのだ
(中略)
藤井貞和よ
殺傷力のある
日本の織り詩はどこにあるのか
おれは夢に耐えきれずに
失神を繰り返しながら完全な死体に近づく
夜(25日)を渡る身体の言葉に
『月の山』のミイラを再び殺し
夢遊病者のように疾走する
「かたちもなく、暦に」(詩集〈織詩・十月十日、少女が〉)部分 (pp. 108-109)
引用もしないで読み終えた後、この詩集を一週間ほど手元から離すことができずにうろたえていた。結局、詩集のなかから上の詩句を選び出して、この一文を書くことで蹴りをつけることにした。
そんな本もある。
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