『金時鍾コレクション』全12巻のなかの1巻から5巻まで読み終えた。第6巻に未完詩編が収録されているが、金時鍾の詩業の大半を読んだことになるだろう。第1巻から第5巻までのサブタイトル(刊行年)は、次のようになっている。
I. 日本における詩作の原点(2018年)
II. 幻の詩集、復元にむけて(2018年)
III. 海鳴りのなかを(2022年)
IV.「猪飼野」を生きる人々(2019年)
V. 日本から光州事件を見つめる(2024年)
金時鍾の詩作品を読んで、間断なく感情が動かされ続けたのは間違いないが、その感覚を率直に言えば「驚き」と「畏敬」の重畳した感覚である。日本の東北の一県で生まれ育ち、その土地を離れることもなく凡庸に生きてきた私には想像もできないような人生を詩人は生きてきた。詩人とその詩の読み手の絶望的な懸崖をどう処理すれば、読書が成立するのだろうか、そう思いつつ頁を繰ったのである。
5巻に含まれる詩を製作年代順に読んだわけではない(III、II、IV、I、Vと本を手に入れた順に読んだ)が、どの詩を読んでも詩人の人生のなかの事件(出来事)、背景なしにはその詩の意味、時空を共有するどころか、近づくこともできないと思われた。
第I巻に含まれる処女詩集『地平線』は後の方で読んだのだが、この詩人の詩としては奇妙に明るく、私などの胸にもすとんと落ちてくるような詩があって、それはこんなフレ-ズで終わっている。
働きものの 父が欲しいなあ。
ふくよかな 母の 乳房が欲しいなあ
それにありつける
私の育ちの 日日が欲しいなあ。
「あせたちぶさ」 (『詩集 夜を希うもののうた』)部分 (I、p. 16)
父と母、その子どもとしての自分のありようについての「願望」を率直に歌ったように見える。この感慨は、「電車に 乗る/街を 歩く。/映画を 観る。/はちきれんばかりの 女性にあい/モンローウォークの ヒップにおされ/のびきった脚の 八頭身に/心が おどる。」と書いた若い詩人の乳房への憧れのような思いから生まれている。
金時鍾の詩をそれなりに読んだ後で「あせたちぶさ」を読んだときには、この詩人にも私がほっとするような一面があるのだと受け取ったのである。しかし、もしかしたら私の理解はまったく違うのではないかという違和感もまたじわじわと湧いてきたのだ。
『詩集 地平線』が出版されたのは1955年なので、この詩が書かれた時期には詩人は故郷の済州島に帰ることは不可能で、両親に会うこともかなわない状況にあった。父がいて母がいて子供の自分がいる家族(詩人は一人っ子である)は絶望的に不可能である。現実の不可能性から過去へと遡及する父母と子の暮らしへの強い希求を、若い男性の乳房へのあこがれに仮託しているのではないか。絶望的な不可能事への想いが言葉の裏に隠されているのではないか。そう考えてもみるのだが、そしてそれは私の誤読かもしれないという思いもあって、違和感は残されるばかりなのである。
少し、金時鍾の経歴を辿っておく。金時鍾は、1929年朝鮮釜山に生まれ、元山市の祖父の家に預けられるが、7歳の時済州島の両親のもとに帰り、以後1948年まで済州島で暮らす。日本による植民地支配下にあって、小学校、旧制中学、師範学校における教育ばかりではなく、ほぼ日本語のみを母語のように使いながら育って、それが日本語で詩を書く原点(理由)になっている。
「僕は自分の国の言葉の素養といったら、賞味二年半の蓄えなんだよ。……一九四五年の八月から四六、四七年、一九四八年の時はもう追い立てられて、逃げ回っとったから。(I、p. 364)
太平洋戦争が終わり、金時鍾は学生運動を通じて共産党に入党し、1948年4月6日の済州島民の一斉蜂起(済州島4・3事件)に加わり、李承晩政権による大弾圧から逃れるように日本に渡ってきた(私は済州島4・3事件については金石範の長編小説『火山島』を読んだ程度の知識しかないが)。そのため、詩人は韓国に帰ることが不可能となり、父や母の死に目にも会うことは叶わなかった(1998年に金大中政権が発足し、翌1998年には墓参が許され、50年ぶりの帰国が叶った)。
帰れない故郷を想う詩句はたくさん見られるが、次の詩句の優しさと悲しみの色あいがとくに気に入っている。とはいえ、この詩句が含まれている「秋の歌」は、日本と朝鮮の間の悲劇的な関わりの歴史(その細部はまた多くの詩の主題ともなっている)が鳥瞰するように詠われている長編詩で、私にとっては読みごたえのある一編だった。
私は 秋が 一番好きです
秋には色とりどりの思い出が
たくさんあるからです。
私の瞳のおくに いりついた
祖国の色はだいだい色です。
唐がらしの赤くほされた わら屋根の家
澄みきった空の ポプラも色づき
柿の実は ひくく ひくく
軒下に 色をあやどります。
それは ちょうど
夕暮れどきの あかね色に似て
私の童心を 遠い家路へとゆさぶるのです。
○
私の家路は 落葉の 道です。
悲しい日々が うずたかくかさなった
茶褐色の 思い出の道です。
遠く ひくく 伝い来る鐘の音は
消え去った日々の 晩鐘です。
私の 父への 鎮歌を 奏で
私の 母への 弔歌を 奏で
しめやかに しめやかに
九月一日の 哀歌をかなでています。
十五円五十銭で 奪われた 命
秋の一葉よりも もろく散らされた 生命
私の親への つきない 哀歌です。
○
私が もの心ついてからの
秋の思い出は
灰色の 九月の歌からです。
秋始めにして 無理じいに散らされた葉
あまたの悲しみと 憎しみをおりまぜて
今日も心ふかく 舞い散っています。
その葉の青さは 永遠にあせない色
苦い樹液を 胸そこに充たし
九月の思いを 新たにさせるのです。
「秋の歌」 (『詩集 地平線』)部分 (pp. 170-173)
しかし、その故郷は「遠く ひくく 伝い来る鐘の音は/消え去った日々の 晩鐘です。/私の 父への 鎮歌を 奏で/私の 母への 弔歌を 奏で/しめやかに しめやかに/九月一日の 哀歌をかなでています。」というフレーズに明らかに示されているように、故郷の父母たちばかりではなく、日本で理不尽に死んだ父母たち(関東大震災時に虐殺された)への鎮魂の思いとともに想起されているのである(詩句のなかの「九月一日」には「関東大震災の同胞虐殺記念日」という注記が付されている)。
帰ることのできない故郷には父母が残されていて、ついにその死に目に会えないまま日本で生きざるを得なかった詩人は、父母への思いを何度も書き綴っている。
大通りを
うなりごえをたてて
ジープが去来するとき
ぼくの過去は
土中の迷路を
かきわけるのに終始した。
裏の垣根に
壕を掘り
大地の厚みに
泣いた日から
母はついに
一人子のぼくを
見失った。
裏の垣根に
壕を掘り
大地の厚みに
泣いた日から
母はついに
一人子のぼくを
見失った。
ぼくの過去に
道はなかった。
日帝に
苦役を強いられた
その道を
身がわりに
ひかれていった父でさえ
再び戻ってはこなかった
夜の跳梁がはじまり
夜行性動物への変身は
一切の道を必要としなかった。
「I 雁木のうた 4」 (『長編詩集 新潟』)部分 (III、pp. 20-22)
その夜更けもまた
遠雷は鳴っていたのです。
聞いたというのではありません。
白く虚空を割いて墜ちていった
音を見たのです。
窓辺にはいつしか雨がたかり
はてしないつぶやきが
やはり白くもつれていました。
なぜか消えてゆくものは
白い音をたてて吸い込まれるのです。
過ぎた夏が
網膜で白いように
たぶん 闇の芯で白んでいるのが
記憶なのでしょう。
音はいつもひとつの象(かたち)を刻みます_
夜更けの母は
とりわけ寡黙でした。
炒り豆をつめながら
ただ鼻だけをすすっていました
同じく生涯を分けたはずの夜に
死を期した若者は
洗いざらした肌着を母からもらい受け
私は母から
ひとり逃げをうつ糧をもらい受けていたのでした。
あの夜更けにもまた
遠雷はひきもきらずいなびかっていたのです。
誰の胸に刻んだというのではありません。
生きながらえても
在るべきものはとっくに消え去りました
夜更けてくずれてゆく
白い街や 白いバリケードの他は
私に残る懺悔はもうないのです。
その夜更けにも
遠雷はにぶくどよめいていました。
見たのではありません。
白く放たれた閃光がつらぬく
白い心が聞いたのです。
がらんどうの広場でうずくまっている
ひとりの母の しわぶきを聞いたのです。
「遠来」(『光州詩編』)全文 (V、pp. 26-29)
どの詩にも強い思いがこもっていて、初めて読んだときには何か多くのことを語れそうな気がしたが、こうやって改めて書き出してみると、私にはそれに見合うような言葉を紡ぐことができない。詩句を抜き書きしただけでもう十分だと思えるのだ。「死を期した若者は/洗いざらした肌着を母からもらい受け/私は母から/ひとり逃げをうつ糧をもらい受けていたのでした。/あの夜更けにもまた/遠雷はひきもきらずいなびかっていたのです。」という詩句に比肩すべき言葉は私のなかにはない。
会えないまま亡くなり、墓参もかなわない父母への想いを綴った詩も多い。
地所代がなくて
共同墓地に
埋めた。
妻よ。
墓が濡れる。
墓が。
父の。
家は並んでも
ポコポコと。
母は
その中に横たわる
生きてる
ミイラ。
おおこの南鮮(くに)は
なんと
見渡すかぎりの
無縁塚だ。
母よ。
山がけむってる。
海がけむってる。
そのはるかな
向こうが
野辺です。
「雨と墓と秋と母と――父よ、この静寂はあなたのものだ――」(『日本風土記II』)全文 (II、pp. 228-230)
二枚の附箋と
三本の朱線に
低迷した
韓国済州局発の
航空郵便が
一つの執念さながら
胴体滑行の
形象すさまじく
落手した。
炎天下に
かざされた
全逓同志の
手汗のしゅんだ
ハト口ン封筒を
開く。
これは
韓国製の
ひつぎだ。
伏して
うるしを常食し
生きたまま
ミイラとなった
母の
七十余年にわたる
告別の書だ。
ザラ箋の
紙質にしみた
においよ。
失なわれた故郷の
亡国の
かげりよ。
亀よ。
叫びよ。
墓もりができずに
やえむぐらの
おおえるにまかせた
父の
骨の痛みだけを訴えてきた
母よ。
思いは呪いに似て
暴虐と圧制の地に
生きうるものの証しを
ぼくはあなたに迫られる。
(中略)
母よ。
からからに干からびた
韓国で
ミイラとなった母よ。
宇宙軌道からの地球は
マリモのように美しいそうです。
しんそこ
あなたにいだかれた日々は
美しいものです。
不毛の韓国を抱いて
動かぬ母に
夜半。
いつか孵化するであろう
ういういしい青さを手向ける
母の
呪いと愛にからまれた
変転の地で
迎撃ミサイルに追いつめられる
機影のように
父の地
元山を想う。
一人子の
息子に置き去られて
なお
帰れと云わぬ母の
地の塩を
這いつくばってなめる。
――1961.8•14•夜
「究めえない虚栄の深さで」 (『詩集 日本風土記II』)部分 (II、pp. 234-240)
午前10時半。
妻とぼくは
街の中です。
午前10時半。
枯木のあなたがくずおれて
ミイラの母がうつぶせました。
そしてあなたが死んだのです。
そして母が叫んだのです。
泣いたのです。
わめいたのです。
声をかぎりと
ぼくを呼んだのです。
(中略)
なにぶんとも遠い海のあちらで
ぼくの手の
とうてい及ばない韓国で
母がひとり
葬った
父と
余生と
これからもありそうな
六十の生涯。
たしかにぼくに託されていた
その生涯。
「果てる在日(4)」 (『猪飼野詩集』)部分 (IV、pp. 184-187)
どうしても金時鍾の詩業についてメモを書き記しておきたいと思ったものの、詩人の人生と詩業を合わせ読み込んだうえで印象をまとめるというのは、端から無理だと思っていた。まずは、帰れない故郷と会えない父母への思いという点で詩を選んでみた。
次に考えているのは、「二つの祖国」という視点で、南ばかりではなく北からも拒否される在日朝鮮人としての詩を選んでみたい。その後に日本で「在日」として生きる詩人の日日の姿を詩群の中から探し出してみたいと思っている。
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