かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

〈読書メモ〉 在日を生きる(『金時鍾コレクションI~V』(講談社、2018~2024年)

2024年10月12日 | 読書

 

ぼくは船腹に吞まれて
日本へ釣り上げられた。
病魔にあえぐ
故郷が
いたたまれずにもどした
嘔吐物の一つとして
日本の砂に
もぐりこんだ。
ぼくは
この地を知らない。
しかし
ぼくは
この国にはぐくまれた
みみずだ。
みみずの習性を
仕込んでくれた
最初の
国だ。
この地でこそ
ぼくの
人間復活は
かなえられねばならない。
いや
とげられねばならない。
 「I 雁木のうた 4」 (『長編詩集 新潟』)部分 (III、pp. 33-35)

 帝国主義日本の植民地支配下の朝鮮で生まれ、日本語を母語のように使って生きてきた詩人は、故国から「共匪」として追われて日本に渡ってきた。日本語を教えられ、日本語で「はぐくまれ」生きてきた詩人は、その日本の地でこそ「人間復活は……/とげられねばならない」と言明する。これは、日本で生きる未来への確信だろうか、それとも決意なのだろうか。あるいはまた、願いなのだろうか。そのすべてを包含しているとも考えられる。渡ってきた日本の地で「ぼくの/人間復活」の確信と決意と切実な希求が込められていると考えるのが自然のような気がする。
 私には「在日」として異郷で生きる人間の心情をくみ取ることはかなり難しい。ただ、おおざっぱに概念的に括れば、ひとつはやはり日本ないし日本人との関係(それは在日が置かれている日本の政治的状況でもある)が もたらす心情だろう。もちろん、それは在日同胞(われわれ)と日本人(かれら)という関係も含まれている。もうひとつは、異国の地で祖国を思いやる心情、とりわけ軍事政権による長い圧政に苦しむ同胞、傷つき、なおその傷口が深くなっていく祖国・同胞を遠く離れた異国で思いやることしかできない状況がもたらす心情ではなかろうか。
 ひとつめの日本ないし日本人との関係がもたらす心情は、金時鍾の詩業全般に遍く沁み透っているだろうが、とりわけ同胞在日が暮らしている土地、猪飼野を主題にした『猪飼野詩集』(コレクションIV巻)に集約されている。猪飼野に暮らす在日が置かれている環境と日々の暮らしから主題を採った詩も多いが、そうした現実を超えたようにいわば在日哲学(私にはそう思える)と呼べるように語るいくつかの詩に強く惹かれた。

おしやられ
おしこめられ
ずれこむ日日だけが
今日であるものにとって
今日ほど明日をもたない日日もない
昨日がそのまま今日であるので
はやくも今日は
傾いた緯度の背で
明日なのである
だから彼には
昨日すらない。
明日もなく
昨日もなく
あるのはただ
狎れあった日日の
今日だけである。 
 「日々の深みで(1)」 (『猪飼野詩集』)部分 (IV、pp. 70-71)

まずうとまれることから
切れることを覚える。
秩序とはそもそも
切れる関係で成り立つものであり
区切られる こころもとなさは
へだたっていることの
つながりともなる。
それは愛情とさえいっていいほどのものなのだ。
考えてもみょう。
変わりばえのない 日日を生きて
なぜ平穏さが
俺たちの祝福となるのか?
ひとえに国が
海をへだててあるから安穏なのか?
さえぎられているものに
俺たちの通わぬ
願いがあるので
せめぎあう思想にも
俺たちの思いは
ひそんでいて平気なのだ。
つまり 壁は
俺たちに必然の対峙を強いる
対話であり
待機であり
まだ果たされてない出会いが
そこで切れていることの確認でもあるのである
 「日々の深みで(2)」 (『猪飼野詩集』)部分 (IV、pp. 87-89)

 「まずうとまれることから/切れることを覚える」のだ、誰(何)から疎まれるのか。在日の暮らし、労働などについて語った後に上の詩句が綴られているので、在日同胞ないしは日本人から疎まれるのかとも考えたが、すぐ後に「ひとえに国が/海をへだててあるから……」と記されていて、故国を追われるように来日した詩人の想いが強く重ねられていることが分かる。もしかしたら、二重、三重に「うとまれ」、「切れて」いることを畳み込んでいるのかもしれない。

切れる。
はなから切れる。
切れるまえから 切れているので
切ることからも
切れている。
耐えねばならないなりわいに
つながるなにかが
わからないほど
つながることから
切れている。
太陽がひとり
バス道の向こうでずり落ちていても
投げる視界がないから
思いみる国の色どりもない。
夜更けて星を宿す
運河でもないので
もちろん せかれて帰る
海でもない。
こもって切れる。
ともかく切れる。
主義から 切れ
思惑から 切れ
自足しているつもりの
くいぶちからも切れてみる。
 「日々の深みで(3)」 (『猪飼野詩集』)部分 (IV、pp. 122-124)

 徹底的に「切れている」のである。もう何から切れているのかと問うことは不可能に思えるほど「切れている」のだ。とりわけ「思いみる国の色どりもない」ほどに切れていることは、けっして在日としての孤独というわけではないだろう。むしろ、切れることで孤立し、孤立すること通じてのみ越えられることどもがあって、それが在日という存在の確認、確証につながっていくのではないか。絶望とははっきりと異なる言葉の勁さがそう思わせるのである。
 『猪飼野詩集』ではなく『日本風土記』に収録されている詩で、在日と日本人との関係性という点でとても興味深く読んだ「わかいあなたを私は信じた」という詩がある。

いや。
いや。
若いあなたが断るはずはない。
突然問われたので
とまどったのだ。
きっと。

それに
午後の
閑散な電車だったから
何人かの
好奇の目が
気になるってことさえ
ありうるではないか。

そうに決まってる。
いくらへんてこな
発音だと言って
老いた朝鮮の婦人を
若いあなたが
無視するはずがないのだ

あなたは答える。
今に答える。
まだまだ先ですから
どうぞ座っていなさい

あなたは答える。

私はあなたに
賭けたっていい。
京橋が過ぎたが
"ツルハシ ノコ?"
がくりかえされたが
あなたの母は
そっぽを向いても
あなたは まだまだ
はじらわねばならない
自分の目をもっている。

森之宫を過ぎたころ
母が立たれた。
それにせきたてられたように
あなたも立たれた。
これは何かの間違いだ。
顔だちのやさしい
あなたが
私の大好きな
日本の娘さんが
それほど偏見に
もろいはずがない。
それにもまして
若い世代を
裏切るはずがない。

賭けの余ゆうは
まだ残っている。
この電車の止まったとき
そのときが私の勝負だ。
私はあせらない。
母が大股に
私の前を通りすぎ
うつむきかげんの
あなたがそれに続いても
賭けはまだ終わったわけではさらさらない。

ゆるやかに
ホ—ムが止まる。
スピーカーが場所を告げ
自動扉が道をあける。
母が出る。
私が立つ。
老婆が外に首を出し
あなたの白いたびが
ホームの谷間へ浮き上がる

ツギが
ツ、 ル、 ハ、 シ、 ヨ。

瞬間の永遠。
あなたの示された
指先と
しきりにぺこべこ頭を下げる
老婆の間に
ガラスがはまる。
母はホームの端。
あなたは中央。
私は老婆と
動く電車の中。
たとえ私が負けていたとしても
母よ、あなたを私はなじりはしない。
 「わかいあなたを私は信じた」 (『日本風土記』)全文 (II、pp. 118-125)

 この詩を読みはじめてすぐ、吉野弘の「夕焼け」(『吉野弘詩集 幻・方法』(飯塚書店、1959年、p. 122))を思い出した。電車の中で詩人が若い女性の行動を見つめているというシチュエーションはまったく同じである。その若い娘と老人と間に起きることを見ているということも同じである。違いは、「夕焼け」では詩人も娘も老人も日本人で、上の詩では娘は日本人で詩人と老人は在日の人間であることだ。
 「夕焼け」では、満員電車の中で娘は老人に席を譲る。その老人が下りて、もう一度別の老人に席を譲る。その老人も降りて、別の老人が娘の前に立つが、「娘はうつむいて/そして今度は席を立たなかった。/次の駅も/次の駅も/下唇をキュッと嚙んで/身体をこわばらせて――。」。娘の優しさと恥じらいを思いやる詩人は「やさしい心に責められながら/娘はどこまでゆけるだろう。/下唇を嚙んで/つらい気持で/美しい夕焼けも見ないで。/と詩を結ぶ。
 一方、「わかいあなたを私は信じた」では日本人の母娘に片言の日本語で降りる駅を訪ねる在日の老婆に対する娘の恥じらいと勇気を詩人は見ている。その娘の勇気は、老婆に対する母親の態度(それは多くの日本人に見られることだろう)と対比され、詩は「たとえ私が負けていたとしても/母よ、あなたを私はなじりはしない。」と結ばれている。この最後の2行に在日として詩人の想いが凝縮されている。私なら母親へのもっと強い批判の気持ちが湧くだろうと思うのだが、ここには私に思い及ばない在日としての詩人のある「乗り越え」があったのだろうと思う。
 在日の心情のありようとして大雑把に二つに括ったもう一つ、異国から祖国で起きていることどもへの思いの詩は、とくに『光州詩片』(コレクションV巻)に収められている。そのなかで異国に生きる在日しての心情が際立っていると見えて心打たれたのは、次の「そこにはいつも私がいないのである」という直截な一行から始まる「褪せる時のなか」という詩である。遠い異国で帰ることのできない祖国、その国で同胞たちが闘い苦しんでいる場所に詩人はいつもいないのである。同胞たちの闘いや苦悩に共感しながらも共在することはできない。これは同胞たちの苦悩に共鳴しながらもまた在日としての別の苦悩だろう。

そこにはいつも私がいないのである。
おっても差しつかえないほどに
ぐるりは私をくるんで平静である。
ことはきまって私のいない間の出来事としておこり
私は私であるべき時をやたらとやりすごしてばかりいるのである。
だれかがたぶらかすつてことでもない。
ふっと眼をそらしたとたん
針はことりともなくずつあの伏し目がちな柱時計の
なにくわぬ刻みのなかにてである。
(中略)
あの暑い日射しの乱舞に孵ったのは
蝶だったのか。
蛾だったのか。
おぼえてもないほど季節をくらって
はじけた夏の私がないのだ。
きまってそこにいつもいないのだ。
光州はつつじと燃えて血の雄叫びである。
瞼の裏ですら痴呆ける時は白いのである。
三六年(*)を重ね合わせても
まだまだやりすごされる己れの時があるのである。
遠く私のすれちがった街でだけ
時はしんしんと火をかきたてて降っているのである。
 *三六年=「大日本帝国」が朝鮮を直接統治した植民地期間の年数。
 「褪せる時のなか」(『光州詩片』)部分 (V、pp. 43-46)

 この祖国の事象現場に不在であることについては、金時鍾自身のエッセイのなかで述べられている箇所がある。

 私に即して言えば、国が奪われるときも、国が戻るときも、私の力の何ら関与することなしに奪われ、戻されてきた。今度こそはと思われた七・四南北共同声明も、がそこにいないだけでなしに、またしても民衆そのものが不在なのだ。この白んだ無力感。問題が大きければ大きいほど、個人の関わりはうすらいでゆく。そして各個人はその不条理に身もだえながらも、それに対処する方法は民衆の手の遠く及ばないところにあるものと決めこんでしまう。
 「南北朝鮮「融和」の中の断層(コレクション V巻、p. 180)

 『光州詩片』は、文字通り「光州事態」に主題を採ったものだが、詩集の「あとがき」に光州事態の歴史的事実についても述べられている。

 韓国にもようやく政治の和みがくるかに見えた"しばしの春"があった。十八年もの長い間、軍事独裁による「維新体制」をほしいままにした朴正熙大統領が、高まる民衆の民主化要求に惧れをなした腹心によって射殺されたあとの、新しい政治体制が敷かれると喧伝されていた数力月のことだ。いわゆる「光州事態」はこのさ中の一九八〇年五月十八日に噴出した。維新体制継承を叫ぶ陸軍保安司令部司令官全斗煥少将は、この日の未明、遂に全土非常戒厳令を布告し、即刻国会を閉鎖させたばかりか、時を移さず民主化運動指導者の容赦ない逮捕を開始した。大統領死去後の新しい事態に逆行するこのような非常戒厳令の撤廃を求めて、光州市民は都市ごと胸をはだけて立ちはだかったのだ。自由への、それこそ無残なまでも美しい散華であった。
  (中略)
 かくして五月二十七日未明、道庁を死守する市民合同武装部隊の壮絶な抵抗が一万七千名からなる戒厳軍との三時間に及ぶ決戦で終息するまで、吹きすさぶ軍事強権の嵐の中で光州はただひとつの民衆の手の中にあった小箱のような「自由都市」であった。この間、光州「暴動」を背後から操縦してきたとして金大中氏が再逮捕され、ウイッカム将軍指揮下の軍使用まで許可されていたばかりか、空母コーラル・シー、ミッドウェーが急拠回航してくるという、異常なまでの極東緊張がかもしだされていた。このような緊張のただ中で、分断された弱小民族の同族相食む惨劇は血しぶいていたのだ。
 
あとがき」(『光州詩片』)(V、pp. 130-132)

 そこ(光州事態の現場)にはいない詩人は、事態のありようを事実に即しつつも想像力を駆使して想世界の中であたかも共在しているかのようなリアルさで描き出そうとする。

まだ生きつづけているものがあるとすれば
耐えしのいだ時代よりも
もっと無残な 砕けた記憶。
それを想い返す瞳孔かも知れない。

この霜枯れた日に
まだ死なずにいるものがあるとすれば
奪いつづけた服従よりも
もっと無念な 青白い忍従。
弾皮(*)が錆びている野いちごの
赤い 復習かも知れない。

まだあるとすれば
それは血ぬられた 石の沈黙。
いや石より濃い 意識のにこごり-
陽だまりで溶けだしている
その貧毛な粘液かも知れぬのだ

だからこそ
渴く。
ものの形が失われて知る
はじめての愛の象(かたち)なのだ。
まだ腐れない髪の毛をなびかせて
だからこそ春は
私の深い眠りの底でもかげろうているのだ

それでもまだ
つきない悔いがあるとすれば
日は変わりなく銃口の尖(さき)で光っており
海はたわみ
雲は流れる。
あの日 噴き上がったまま
まっさおな空に埋められた
私の
けし。
 *弾皮=「薬莢」の韓国語。
 「まだあるとすれば」(『光州詩片』)全文 (V、pp. 30-32)

日が経つ。
日日にうすれて
日がくる。
明け方か
日暮れ
パタンと板が落ち
ロープがきしんで
五月が終わる。
過ぎ去るだけが歳月であるなら
君、
風だよ
生きることまでが
吹かれているのだよ。
透ける日ざしの光のなかを。

日は経つ。
日日は遠のいて
その日はくる。
ふんづまりの肺気が
延びきった直腸を糞となってずり落ち
検察医はやおら絶命を告げる
五つの青春が吊り下げられて
抗争は消える。
犯罪は残る。

揺れる。
揺れている。
ゆっくりきしんで摇れている。
奈落のくらがりをすり抜ける風に
茶褐色に腐れていく肋が見えている
あおずみむくんだ光州の青春が
鉄窓越しにそれを見ている。
誰かを知るか。
忘れるはずもないのに
覚えられないものの名だ。
日が経ち
日が行って
その日がきてもうすれたままで
揺れて過ごす人生ならば
君、
風だよ
風。
死ぬことまでも
運ばれているのだよ。
振り仰げない日ざしのなかを
そう、そうとも。
光州はさんざめく
光の
闇だ。
 「骨」(『光州詩片』)全文 (V、pp. 51-55)

 同胞の惨苦に心を寄せつつも事態現場への不在の苦悩を通じて思索する詩人は、祖国の悲惨な歴史的展開に自分の思いを強く重ねながら、いわば絶望的な不可能性を乗り越えようとしているように見える。詩句はかなり哲学めいてくるのである。

まだ夢を見ようというのですか?
明日はきりもなく今日を重ねて明日なのに
明日がまだ今日でない光にあふれるとでもいうのですか?
今日を過ごしたようには新しい年に立ち入らないでください
ただ長けて老成する日日を
そうもやすやすとは受け入れないでください。
やってくるあしたが明日だとはかぎらないのです。
 「日々よ、愛薄きそこひの闇よ」(『光州詩片』)部分 (p. 107)

いましがたほの白い空のはしを堕ちていったのは 昨日である
闇は反転の間際でしかめくれあがらないので
今日はいつも 空白のすき間からだけ白むのだ。
いち早くうすい瞼を透かしてくるのもその明りである
老人は考える。
年に気どられないもののありかについて。
こうも余生が透けるばかりなら
場合によっては未知すらも 創りだすものであるかも知れないのだ。
さあ眠るとしよう!
私に明日は百年も先のまぶしい光だ!
 「遠い朝」(『季期陰象』)部分 (pp. V、159-160)

 人間は「やってくるあしたが明日だとはかぎらない」と語るためにはどんな惨苦や苦悩を経なければならないのか。無残に展開していく歴史の中でどれほど生きなければならないのか。詩人と私の経験の差、その隔絶感を不安に思いながら詩編を読み続けたのだが、「やってくるあしたが明日だとはかぎらない」というフレーズに納得するもののその思いに至るプロセスはなかなかに想像しがたいものがある。
 しかし、「未知すらも 創りだすものである」というフレーズには少しならず驚き、わくわくする感じがあった。「未知を想像する」といういくぶんポストモダン風の言述は、何か新しい思想的な可能性を生み出す始点になるのではないか、などと思ってみる。「百年も先のまぶしい光」の兆しとなる可能性はないのか、と。もっとも、このフレーズは、明日は百年先ほどにも遠いというある種の絶望を語っている可能性もないではない。「不可能性の可能性」などと言うとますますポストモダン風になってしまう。ポストモダンはとっくの昔に終焉を迎えたと言われているのに………。



街歩きや山登り……徘徊の記録のブログ
山行・水行・書筺(小野寺秀也)

日々のささやかなことのブログ
ヌードルランチ、ときどき花と犬、そして猫



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。