【2014年9月30日】
桜新町駅からブラブラ歩きで向井潤吉アトリエ館までやって来た。『向井潤吉 異国の空の下で』と銘打った平成26年度第II期収蔵作品展が開催されていることをネットで知って、街歩きと美術展を一緒にと計画して仙台から出てきたのだ。
向井潤吉アトリエ館。 (2014/9/30 12:28)
街歩きなどと構えない方がいい。散歩の途中で立寄って、しばしの間、向井潤吉の絵を眺めている、そういうふうな訪ね方がふさわしい美術館だ。向井潤吉アトリエ館は、1993年(平成5年)、画家92歳の時に、自宅兼アトリエを展示館として開館したという。『向井潤吉アトリエ館銘品図録』 [1] の冒頭に、開館に際して記された画家自身の言葉が載っている(以下、カッコ書のページは銘品図録から)。
私の住んでいるところは、つい一昔前まで雑木林に覆われていたタンチ山と呼ばれていたところですが、縁あって、その面影をわずかに残している旧居(アトリエ)と私が収蔵する作品の全てを、文化振興や自然保護に熱意のある世田谷区に寄贈させていただくことになりました。 (p. 8)
こうして、世田谷美術館別館となったということだ。たしかに、アトリエ館は坂道の頂上付近にあって緑に囲まれていた。門から大きな植え込みの下を大きく湾曲する階段道を通って玄関まで歩く短い時間の間に、世間の気分と騒音が少しずつ我が身から剥がれていくように感じる。とても素敵なロケーションなのである。
《ふもとの老樹(山梨県北巨摩郡小渕沢町)》昭和44年(1969年)、油彩/カンヴァス、50.0×60.5cm(p. 39)。
《山居立春(神奈川県足柄上郡山北町世附)》昭和50年(1975年)、油彩/カンヴァス、91.1×116.8cm(p. 51)。
《沢内村六月(岩手県和賀郡沢内村)》昭和63年(1988年)、油彩/カンヴァス、41.1×53.2cm(p. 60)。
「異国の空の下で」と名付けられているように、若いときの名画の模写ばかりではなく、《トレド新春》や《パリの風景》、一連の《ヨーロッパ風景》など画家58歳頃に描かれた異国の風景画が並べられていたが、どうしても私は日本の古民家のある風景に惹かれてしまう。
《ふもとの老樹》には民家は描かれてはいないが、農村の道端の老木越しに山並みが見えるというのは、なにか日本の普遍的な景色のように思えてしまう。かつて農地整理などという事業が施される以前は、桜に限らず、畑や田などの農地の脇には様々な木が残されていた。それらは、ときには「一本松」(東北の私の生地にあった)や「一本杉」などと樹種に応じて固有地名のように呼ばれていた。農村もまた近代化することによって、消えていった風景ではある。
藁葺きの農家というのも、いまは観光用として残されることはあっても、民家としてはほとんど消えてしまった。私は東北の農村の生れだが、私の故郷でも見ることがなくなった。
藁葺きの廃屋、民家というのを望郷とか懐郷とかに結びつけられる世代ももう多くはないだろうが、少なくとも私はその世代である。貧しさゆえに離農し、廃屋として残される藁葺きの家。その貧しさゆえに主人が住まっているときにも手入れもされず、捨てられた瞬間から廃屋であるような家。だから、懐郷と悲しみは同じ色合いをしていることもある。
《沢内村六月》の農家は、私の故郷のかつての農家に似ている。屋敷林(田舎では「いぐね」と呼んでいた)がないので、おそらくは貧しい農家である。家の前の小さな小屋は「木小屋(きごや)」と呼ばれる薪木を雨雪から守るだけの小屋である。寒い東北の冬を越すために、どんな貧しい農家にも木小屋はあった。骨組みだけに屋根を張った簡便なものが多かった。《沢内村六月》の木小屋の屋根は錆びたトタン葺きのようだ。
画家は、いろんな地方の民家を描いている。おそらくはその作品の中のどれか一つは、見る者の懐郷にすっぽりとはまるのではないか。向井潤吉の風景画のそれぞれに対応する、それぞれの人の記憶と感傷、そういうものがあるような気がする。
もちろん、東北生れだから東北の風景画だけに興が湧くなどということはない。その風景だけの個別性というものがあっても、かならず風景画が持つ抽象化された一般性とあいまって私たちを撃つのだから。
向井潤吉が描く日本の農村の風景を、機会があるごとに少しずつ見て行けたらとてもいいだろうと思う。まとめてたくさん見るのではなく、少しだけ見るのである。どの絵にもきっと私たち一人ひとりの懐郷が喚起される要素があって、それを味わいながら、いつか最大の懐郷をもたらすたった一枚の絵がみつかる。そんな物語を想像しながら見終えたのだった。
《夜の街》昭和3年(1928年)頃、油彩/カンヴァス、
80.0×54.1cm(p. 23)。
向井潤吉の日本の風景画に満足しながらも、じつはまったく別のことを考えてもいた。パリに留学していた時代、名画の模写を熱心に行なって自らを鍛えるとともに、自らの創作にも意欲を燃やして取り組んでいたという。そのような一枚が《夜の街》である。この絵を見ながら、この絵の先にある向井潤吉を見たい、と思ったのだ。無い物ねだりだが、フォービズムや表現主義的な作品のそのままずっと先にあるものを見たいなどと妄想したのである。
[1] 『向井潤吉アトリエ館銘品図録(世田谷美術館 向井潤吉アトリエ館、2012年)。