ホクトマンのアドブログ

アドベンチャープログラムを愛するすべての人と、そうでもないすべての人へ。ひとりごと、今思うこと、泣き言、楽しか

僕は「現代哲学ファシリテーター(仮)」

2018-03-23 | 雑念
ベトナム帰国後の燃え尽き

大学生である参加者達が帰国後直面する周囲とのギャップに戸惑うという。

同じようにその体験をした僕は少しネガティブになっている。

熱い話ができる人と食事に行きたい。

「変態するとは」「本気とは」「人生って」「生きるって」

こんな話をプログラム未経験者にしても通じないよな。この疎外感というか、映画マトリックスで言う所の“違和感”というか。

本人がその輝いた体験や感動を伝えようとすればするほど、周囲の人たちにはうまく伝わらず嫉妬される。

共通言語がないのだ。

だから参加者同士が「また会いたい」と全国から東京や大阪などの大都市に集まったりするんだろう。

それでも「人が変わる」「チャレンジする」「自分で切り拓く」「自分自身のこと」「なりたい自分」など哲学的で現実的な「生き方」を問う学問があって然るべきなのに。

学校では教えてくれない。

戦後教育の「考えることを放棄させるような教育システム」の歪みが21世紀初頭に起こっている。

揺り戻すように「アクティブラーニング」などの主体的な学びを促すような手法を導入するも恐らく上滑り。指導者自体が雁字搦めの中で教え伝えられるような代物ではない。

ということから

小学生から「哲学」の時間をつくるべき!
評価もしない!

何故今まで「哲学」の授業が出来なかったのか?
それは「答えがないから」に尽きる。

「答えがないことを教えることはできない」

と勘違いしているのだ。特に文科省辺りまで上り詰める人達にとって、目に見えないものや答えのないものに価値を見出してこなかったはず。(偏見です)

もしくは「教員の力量に差が出る」という当たり前が導入を先延ばしにする理由だったのかもしれない。

僕の仕事ファシリテーターは「答えがない事を一緒に考えよう」という「哲学の授業」なのだと思う。

僕はどうやら「愉快な哲学者」なのかもしれない。