結果として冒険教育は僕の今の生き方を発見するための道具だった。
何の資格もなく、経験もスキルも中途半端な僕がとても大切なお仕事を任されてお金をもらっている。
僕にとっては一点の曇りがなく、素敵なツールであることは間違いない。
さらには冒険教育に真摯に向き合う人はとても素敵な人が多いという事。
だから僕もその名に恥じないように素敵な人になりたい。
当然、冒険教育自体は数ある教育手法のひとつである事も知っている。
だがその捉え方は、他のフィールドをたくさんもっている人とは少し違うと思う。
それは甲子園で母校を応援するような感覚に近い。
僕は自分のアイデンティティを形作ってくれた冒険教育がただのプロジェクトのひとつとは思えなくなっている。
やっぱり大切な母校であって、アクティビティのひとつひとつは思い出のひとつ。振り返りや失敗の体験は母校の廊下や体育館の落書きと同じである。
確かに時と共に母校の姿は移り変わるが、僕にとってはかけがえのない礎(いしずえ)なのだ。
そしてその母校で出会った人達はやっぱり僕の同級生(年齢は違えど)である。
いくら経験が違うとか年数がどうのと言われても僕には関係ない。
正確には全員同窓生である。
小学生から大学までの同窓生との関係がほとんどない僕にとっては本当に大切なコミュニティなのだ。
(何と寂しい人間関係…)
だから母校(冒険教育)を大切に扱わないことに対してかなり感情的になることもある。
それは母校(冒険教育)を扱う施設に対しても牙を剥いたこともあるくらいの凶暴さも持っている。
確かに僕は極端で凶暴なのかもしれない。
だから「それはホクトマンだからできるんだよ」と言われることもある。(見放されているで寂しい)
それは同窓会で「熱くなるなよ」「大人になれよ」と言われているような感じ。
(ちなみに本当の同窓会は1度も参加したことはない)
僕はいつまで経っても大人になれそうもない。
感情的になる事が良くなくて、冷静に物事を論理的に判断する事を推奨しようとするのは冒険教育の伝えたい事とはかなり距離があると思う。
遊び心や感動、悲しみや寂しさなどの感情をグループで共感したり、みんながハッピーになる方法を見つけ出そうとする事を通して、個々の成長を促すプログラム
それが冒険教育だと僕は思う。