フリーランスがフリーランスになる理由
組織への嫌悪、
拒否反応がある。
みんなで一緒に決めるという時間ロス。
その必要性より自分で決断した方が早いという選択に負ける。
それは小学生がドッチボールよりも1人で滑り台をやった方が面白いと思う感覚に近い。
ルールがあり、
破れば叩かれる。
得意なやつだけが持て囃され
ドジをすれば笑われる。
褒められる事はない。
劣等感。
この負のループは大人になっても
仕事をしながら同じことが起こる。
一緒に話し合っているようで
様子を見て
相手の出方を読む。
その奥底に自分だけは損したくないという自己防衛の塊が言葉や態度に表れる。
そして本人が思うよりもそれは周りに大きく影響する。
「じゃあ私も不信感を持ってその場に存在しますね。」
それが連鎖する。
その場に何が足りない?
そのことだけに自分の心に聞いてみる。
それは「希望」である。
この未来に何があるのか?
その「希望」だけが大人をひとつにつなげていく。
答えを求める人は自分で希望を見つけられない人である。
だから僕は「希望」の種をみんなに伝えた。ここに集まった人たちはとても素敵で価値がある人たち。
だからそのみんなで集まって何かをスタートすること(ドッチボールなど)には価値があるんだと。
そしてそのために僕は自己投資をします!と意思表示もした。
アイデアよりも意思表示が必要な時もある。
隣の誰かは何を考えているかわからない。
しかし答えを求め続ける人は、自分がその場に積極的に参加しているように見せて、実は意思表示に価値を持っていない。
とにかく自分以外の人たちの正体を暴きたいだけである。
それは不信感なのだろう。
チームビルディングは難しい。
しかしこれからの時代の働き方において、あまりにチームビルディングの大切さを軽く見られているような気がする。
学校の先生がよく生徒に言う「協力」や「絆」も何となく表面だけを捉えて評価して、対策も言葉やイベントで教え込もうと強引だ。
しかし一部の教育者たちはその難しさに気づき、僕たちがやろうとしていることに少しずつ理解を示し始めているような気がする。
軽く「僕たち」と言っているが、
今、「ひとつのプロジェクト」で集まっているメンバーがやろうとしている「僕たち」である。
その「僕たち」は未熟でチームビルディングの最中である。
しかしそこから逃げない。
難しいのは分かっているからだ。
本当のチームビルディングは研究に値する宇宙の真理なのかもしれない。

ノソノソ
Walking leisurely
#どこへ
#長閑
#海でしょうか