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光が丘公園のこと

2016-12-04 07:40:24 | ブログ
 私は、都内杉並区の住民です。ほとんど毎日、善福寺川緑地を歩いています。時には、神田川沿いの道を歩き、塚山公園、三井の森公園と柏の宮公園に立ち寄ることもあります。

 東京都23区の中で、緑化率のトップは練馬区、次に世田谷区で、杉並区は第3位だそうです。

 杉並区でもこれほど緑が多いのだから、練馬区ではどのような風景が見られるのだろうかと、にわかに練馬区に興味をもった次第です。実は、小学校の頃、石神井公園や豊島園に行ったような記憶がありますが、それ以来、練馬区の土を踏んだことがありません。

 そこで、まず杉並区から交通の便のよい石神井公園へ行ってみました。樹林の中に埋まるかのように残されている石神井城跡など、よく緑地が保存されており、期待以上でした。

 次に、東京都立光が丘公園を訪れました。そのスケールの大きさと原生林かと思うほどの深い樹林に圧倒されました。

 医学的な効果が実証された森での森林浴は森林セラピーと呼ばれ、すでに全国で62ヶ所の森が認定されているそうです。東京都23区には認定森はないと思いますが、それに近い森がこの公園の原生林ではないでしょうか。

 光が丘公園には、野鳥を観察できるバードサンクチュアリも設けられており、そのガイドさんから、やってくる野鳥についての説明を聞くこともできます(その観察舎の解放は土日と祝日のみ)。埼玉県の森林公園や東京多摩地区では、外来種のガビチョウの声を聞くことがあります。杉並区では聞いたことがありませんが、練馬区ではどうなのか、興味のあるところです。

 こうなると、なぜ今日に至るまでこの原生林が残ったのだろうか、という疑問が生じてきます。そこで、光が丘公園の沿革を調べてみることにしました。

 日本が敗色濃い戦時中の頃、旧陸軍(今は陸軍がないので、旧の修飾語は不要ですが)は、首都圏を防衛するために、一部農民のものであった広大な土地を強制買収し、成増飛行場を建設しました。

 飛行場には、戦闘機や高射砲が配備されたようですが、B29による東京大空襲を防ぐには、ほとんど役に立たなかったようです。

 戦後になって、日本がGHQの占領下に置かれると、この土地は米国に接収されて、グラントハイツの名で呼ばれる米軍の施設が置かれ、治外法権が適用されました。

 日本側のグラントハイツ返還運動が実ったのか、昭和47~48年にこの土地が日本に返還されて、その跡地利用が検討されることになりました。昭和52年には光が丘公園が着工され、昭和58年には運動施設が利用開始され、バードサンクチュアリが造成されました。

 私は、東京で生まれた者ですが、戦時中には東京空襲を避けるために、富山に疎開していました。当時の富山市に近い場所であったために、富山市の中心街が空襲に会うのを目撃することになりました。戦争が終わって東京に戻り、よく焼け跡で遊んだことを憶えています。そのためか、長く東京に住んでいるにもかかわらず不覚にも光が丘の史実を知りませんでした。

 今、公園で憩う人々の幸せそうな姿を見るにつけ、多くの戦争犠牲者を出したあの時代を経て、今日の平和な日本があることを改めて思わざるを得ません。

 再度公園を訪れ、「光が丘公園のあらまし」の掲示には、成増飛行場とグラントハイツが存在したことが簡単に説明されていることを知りました。また、「平和への祈り」の記念碑が設けられているのに気付きました。その意義について、これ以上説明する必要はないでしょう。

 参考文献
 加藤竜吾著「光が丘学」(練馬区役所所蔵)

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