えりも町郷土資料館ほろいずみ水産の館のBlogです。

襟裳岬やえりもの様子や資料館ほろいずみの活動を紹介しています。

第4回ほろいずみ・かふぇ報告(2/2)

2018年03月09日 16時21分39秒 | ほろいずみ・かふぇ
第4回 ほろいずみ・かふぇ 「猿留山道の紀行文を読もう!②」報告(その2)


当日の資料

 最後に、「様似山道 歴史の道活用整備事業報告書」(様似町教育委員会2017)から、幌泉会所~様似会所の「継送り書」について学びました。その一例をご紹介します。

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ホロイツミ会所継立書付

 宜鋪御座候ニ付、掛送磯船ニ而番人壱人・蝦夷人弐人に而継立候条、御改御受取可被成候、以上
            母衣泉
  八月十三日未之中刻  会所(印)

前書之通今申下刻到着仕、早速受取継立申候、以上
            砂馬荷
  八月十三日      会所(印)
    申下刻着

<参考>
 宜鋪:よろしく
 而:して
 候条:そうろうじょう(よって、ゆえに)
 可被成:なさるべく

 旧暦八月十三日に、母衣泉(ほろいずみ)会所から、磯船を使い番人一人、アイヌ二人が輸送し、砂馬荷(シヤマニ)会所に送られたものです。

 母衣泉会所から発送された時間「十三日未之中刻」が記録され[印]が押されています。
受け取った様似会所の[印]も押され、到着時間「十三日申下刻」が記録されています。

 「未之中刻」は、14時頃。「申下刻」は17時前。約3時間弱で、現在のえりも町本町から様似町会所町へ、磯船で運ばれたことになります。

 紹介した例は、磯船で輸送していますが、よほどの急ぎの知らせであったのでしょうか?どんな船だったのでしょうか?普段は海岸線や山道(猿留・様似)を使って継立されていました。


◆ 「ほろいずみ・かふぇ」次回は新年度になります。決まり次第お知らせします。

 

第4回ほろいずみ・かふぇ報告(1/2)

2018年03月09日 16時14分09秒 | ほろいずみ・かふぇ
第4回ほろいずみ・かふぇ「猿留山道の紀行文を読もう!」が3月8日開催されました。

2回に分けて報告します。その1



 今年は明治150年、北海道150年ということで、松浦武四郎が脚光を浴びています。今回は、全国区の伊能忠敬が、日本を測量する最初の旅、蝦夷地測量についての記述を中心に話題提供しました。
 
 忠敬は、猿留山道(平成30年2月13日国史跡指定)ができた翌年(寛政十一年1799)、新暦6月11日に江戸を出発、6月30日に青森県外ヶ浜町に到着するも、天候悪く津軽海峡を前に足止め。

7月9日蝦夷地福島町吉岡に上陸、箱館にて準備を整え、蝦夷地東海岸(東蝦夷地)を進みます。測量は、忠敬の歩測がたよりでした。

 様似町からえりも町にたどり着いたのは8月21日、猿留山道を越え、猿留(現:目黒)には8月23日、広尾には27日に到着。その間も、太陽・北極星・アンドロメダ座の星を観測し、緯度経度を記録しました。

 旅の東端、別海町西別に到着したのは、9月25日のことでした。忠敬はクナシリを見て何を想ったのでしょうか?
 
 伊能大図には、北海道の周囲が美しく描かれていますが、忠敬は、猿留山道を通過したため、襟裳岬周辺を測量していません。

そのため、寛政十二年(1800)の「松前距蝦夷行程測量分図」には、「不測量 エリモ」と図にきっちりと書かれています。忠敬の人柄がしのばれます。

 忠敬一行は場所(場所請負制度の区域、現在の市町村区分(合併前)に似ている)の会所(幕府の出先機関)などに宿泊していました。幌泉場所(現在のえりも町)にはどんな建物がったのか?会所(役人12人、御雇稼方13人)・旅宿所・板蔵・茅蔵(昆布・布海苔)・荒物小屋・大工細工小屋・厠などがあり、馬が23匹等の記録があります(幌泉場所大概書)。

「東蝦夷地より国後へ陸地道中絵図(函館市中央図書館蔵)に描かれている絵図と見比べました。

 忠敬、終着の地、西別。野付半島があり、その先端に通行屋「野付通行屋」がありました。その後、畑や鰊番屋もできました(19世紀半ば)。忠敬はそこに足跡を残していません。

 賑やかな最果ての町、国後から千島列島へ渡る拠点。別海町には「幻の街キラク」伝説があります。
「歓楽街があった」「夜じゅう、明かりが消えることがなかった」(別海町観光協会HP)・・・旅人は何を想いすごしたのでしょうか?

 歌手・新沼謙治さんが「まぼろしのキラク」を歌っています。Youtubeで聞くことも可能です。

(中岡利泰)