私は女郎花が好きだ。好きと言うより、気になる花と言ったほうがいい。
しかし、写真には撮りにくい。どのように撮ったほうがいいか、いつも迷っている。今回もいろいろシャッターを押してみたが、気に入ったものは一枚も撮れなかった。もちろん、女郎花のせいではなく、私のウデマエの問題なのだ。
女郎花という名前の由来は、幾つかあるようだ。たとえば、「をみな(女)をへす(圧す)」という説。美女を圧倒するということらしい。また一説には、粒状の花を粟粒と見立て、「女の飯(をみなへし)」とも言われている。
私が写真に撮りにくいのは、上手や下手は別として、この花の魅力を見出せずにいるということなのかもしれない。何処に着目すべきか迷っているのだ。
同じことが俳句の場合にも言える。魅力の中心を捉えることができず、圧倒されている。この花の優しさはなんとなく伝わってくるのだが、それが「何処の何」かが分からない。
黄色の花は沢山ある。代表的なもので菜の花。この花と接すれば、深い優しさを感じ、懐かしさがこみ上げてくる。山吹もその一つだ。なんとなく頼りなげで、ついいたわりたくなってしまう。
ところが、女郎花は違う。優しそうなのに、内側に潜む強さを感じてしまうのだ。いのちが輝いて眩しく、周囲を圧倒しているし、私も圧倒されてしまう。息苦しいほどだ。
先日、一句を捻り出した。
粒々に黄のいのちあり女郎花 鵯 一平
何を詠んだのか、自分でもおかしいと思っている。黄色の粒々に圧倒されてしまったのだ。それはそれでいいとしよう。しかし、まだ何かがありそうだ。
とにかく、このままでは口惜しい。
昭和ヒトケタ生まれは、良くも悪くも、「女郎」という言葉に、特別の感懐を抱いている。この花は「をみな」から「女」へ転化しただけなのだろう。しかし私は、その昔遊郭で春をひさいだ「女郎」を思ってしまうのだ。言葉に対する不純な反応かもしれない。しかしこれも、私の感じ方なのだから仕方がない。
それにしても、この花の優しさの裏には、不遇な弱者を庇う強さがありそうだ。
女郎花敗残兵を匿へり
この場合、匿うのは脱獄者ではならない。罪人は匿わない。匿うのはあくまでも不運な敗残兵でなければならないのだ。これで十分に得心できたわけではない。しかし、私の限界なのだから、これもまた仕方がない。
女郎花敗残兵を匿へり 鵯 一平
(をみなへしはいざんへいをかくまへり)
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