私にとって、戦争の記憶は夏だ。それも、7~8月に凝縮されている。
私の生まれ育った地域は、茨城県の北部。
日立市には日立製作所の工場群があった。
さらにそれから北へ向かったところが、私の生まれ在所だ。
わが家は、どちらかと言えば海岸地帯。山のほうへ行けば、石炭の鉱山が連なっていた。
太平洋戦争が始まったのは、昭和16年(1941年)12月8日。
当時、私は国民学校(今の小学校)1年生だった。頭がよくなかったせいで、当時の記憶は薄い。何かが始まったらしいと記憶している程度だ。
戦争の記憶が生々しいのは、昭和20年(1945年)の夏からだ。
鮮やかな記憶は、7月17日の夜から始まった。国民学校5年生の夏休み期間中のことだ。
その夜は、雨が激しく降っていた。梅雨の末期だったのだろうか。
いきなりの空襲警報だったので、慌てて防空壕に飛び込んだ。
やがて、ピカッと閃光。そして腹に響くほどの炸裂音。近くの学校の窓ガラスが、ビリビリビリと鳴った。
激しい雨の中、閃光を明かりと頼って、山のトンネルへ走った。艦砲射撃を恐れたからだ。
次の朝になって知ったのだが、やはり艦砲射撃だった。海岸線にまで近寄ってきたアメリカ艦隊が、日立市に向かって砲弾を撃ったのだった。
その日から、山のトンネル暮らしが、私たちの日課となった。
しかし、翌々日の夜、町はB29爆撃機による焼夷弾爆撃を受けた。
町の多くが焼失した。
幸いわが家は焼けなかった。焼け出された知人2世帯との同居生活が始まった。
敗戦という形で戦争の終結をみたのは、8月15日の正午だった。
私の夏には、戦争のことをはじめ、両親のこと、兄弟妹のこと、学校のこと、生活が苦しかったことなどがぎっしりと詰まっている。
しかし、あれから63年。かなり昔のことだ。
記憶も薄れてきたなあ。
戦争の記憶きれぎれ草茂る 鵯 一平
艦砲射撃や焼夷弾爆撃については、いずれ書かなければならない。
夏になると、毎年のように思っている。
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幼い日の空襲体験は、いろいろなことが複合されているようですね。
カミさんの経験もそのようなもので、兄たちの話とは、少し違っております。
しかし、恐怖感だけは強烈に残っているようです。
今になっても納得できていないらしく、
時々は兄たちに糾しているようです。
集団疎開組でしたか。
それはまた、大変でしたねえ。
私は片田舎でしたが、集団疎開ではなく、幾人かの疎開組の同級生がおりました。
疎開していたので空襲にも遭わず、よかったですねえ。
親元を離れての生活、淋しかったでしょうね。
親御さんもまたご苦労されたことでしょう。
「正しく伸びよ 里に移りて」
の御製、やはり心打つものがあります。
「終戦」は「敗戦」ではないか、という疑問はよく言われます。
昭和20年8月15日の私たち庶民の印象は、「負けた」という感覚より、「あーあ、これで終わったのだなあ」という気持ちが強かった。
だから、政府をはじめ新聞やラジオも「終戦」を使ったのだと思います。
その後、戦争責任を明確にするには、「敗戦」とすべきではないかとの意見提起もありました。
しかし、あいまいのままです。
「戦争責任」は立場によって、少し違う意見もあるようですが、「戦争を起こした責任」と「負けた責任」は、論議は尽くされたと思います。
今、「終戦」と言っていることに対し、「戦争責任」をあいまいにしているのではないかとは、もはや私は思っておりません。
とにかく日本人は、「先送り」の気風が強すぎます。
「曖昧の日本」でもあります。
「終戦」と言おうと「敗戦」と言おうと、「敗戦」という形で戦争は「終戦」を迎えたのでした。
と記憶していた。 60歳過ぎてから4歳年上の兄に、その
「空襲体験」を話したら、「あれは小火出してもえていたの」
「しかし、障子がガタガタしていたでしょう」というと「あれは、
遠くの方に空襲があったから。それに別の日だよ」といわれました。
唯一の「空襲体験」は小火と他所の空襲の繋ぎ合わせの記憶でした。
幼児の勘違いに、大人の話などが混ざって、半世紀以上も
勘違いしていました。
次の世を 背負うべき身ぞ 逞しく
正しく伸びよ 里に移りて
(昭和天皇の妃)
お歌とビスケットを頂きました。
私は疑問に思います。「終戦記念日」。。微妙に、戦争責任をぼやけさせてるんじゃないですか、と言いたくなります。
何故、「敗戦記念日」と言えないのでしょうか。
引き揚げて来られたなら、ご苦労は大変だったことでしょう。
特にご両親のご苦労は、筆舌に尽くしがたいものがあったと思います。
「もう嫌です!!!」という思い、強く理解できます。
昭和9年の私ですら、記憶は薄らいでおります。
ウッシーさんがきれぎれでも覚えておられるのは立派です。
書きたいことがお有りだと思います。
ぜひ書いて頂きたい!
皆さんの心の中に、語りたくないものがあったと思います。
私の両親も、語らなかったことがありました。
私もまだ、そんなことには触れません。
戦争は悪です。
日本人の誇りを失わずに、平和を守り抜く覚悟を問われているのではないでしょうか。
ご両親のご苦労は大変なものがあったと思います。
わが家も、私の苦労の何倍もの苦労を、両親はしていたはずです。
その上の苦労をしていた方も多かったのです。
その上に築いた平和ですから、是非守って行きたい。
しかし、誇りは失いたくないと切に思います。
年寄りが戦争の苦労話をして、果たして受け入れてもらえるかどうか、迷いがあります。
とにかくシラケ時代です。
とは言え、語るべきは語らなければいけないのでしょうね。
私は内地にいましたし、片田舎でしたので、まだまだ恵まれていたと思います。
みーばあさんのご両親のご苦労は、たいへんなものだったと思います。
さらに苦労を重ねた方々がおりました。
その結果として得られた今の日本です。
守り通すべきです。
誇りある日本をどのように残して行くか、強く問われていると思っております。
句会や句誌の仲間との切磋琢磨は大切なのでしょうね。
私もそれなりの場で、努力中です。
私などよりも悲惨な苦労をした人が多いです。
それぞれ語り残してほしいですね。
夏になると必ず思い出す事です。
私は引揚者なので空襲は解かりません。
あの終戦を境に両親がどれだけ苦労をしたことか
私はまだ小さかったから鮮明な記憶はありませんが
衝撃的なことはところどころ甦ります。
もう嫌ですね!!!
だから、あまり詳しいことは覚えていません。
でも切れ切れですが記憶は消えません。
書いてどうなるものでもないかもしれませんが、
私も書きたいことが少しはあります。
今日の記事に感謝いたします。
是非 語り部に、そして文で残して欲しいと思います。
いくつにになっても是非お聞きしたいです。
私も争いは、良心のある人間のやる事ではありません。
世界の争いもすぐにやめるべき問題です。
真に願う一人です。
申し訳ない気がします
大変な苦労をされ
そこからの日本をつくりあげていただいたのも
その時代の方々のおかげです
私は兄弟が多くて家族の中にも戦争体験者がいます
私だけが20年8月15日以後です
歳が離れていたこともありますが・・・
父や母からいろいろ聞いて育ちました
が
あまり多くは語りませんでした
辛かったんだろうと思います
写真が物語っているような・・・・・
私の場合、戦争のことはさっぱり記憶にありません。体験した人々には、苦しい記憶でも語り継いでいってほしいですね。戦争ほど、馬鹿馬鹿しいことはありません。けれど、この地球にはまだ沢山の争いが続いています。
戦争の記憶私はまだ赤ん坊でした、なにもありません。
ひよどりさんは、大変な体験をされたんですね。
戦争体験をされた方がだんだん少なくなってきますね。
若い世代に伝えておかなければなりませんね。
私は、台湾引き揚げ者です。昨年兄弟全員で台湾の元住居地に行きました。兄の記憶と現地を良く知るガイドさんのおかげで当地を探すことができました。私には記憶もありませんが、ここで産声をあげたんだな~と感慨深いものがありました。着のみ着のままで引き揚げてきた
親達の苦労もいかばかりだったか・・・
悲惨な戦争体験をされた方がたくさん居られる中、まだ良い方だったのかもしれません。でも、多かれ少なかれ皆大変な思いをして生きてきたのですから、戦争の無益さ惨さを伝えなければと思います