昨日、孫を親元へ送って行った。
私の夏の宴は、つつがなく終焉を迎えた。
九月には私の誕生日がやってきて、馬齢をひとつ加えることとなる。
かなかなに暮れて宴のはねにけり ひよどり 一平
(かなかなにくれてうたげのはねにけり)
昨日、孫を親元へ送って行った。
私の夏の宴は、つつがなく終焉を迎えた。
九月には私の誕生日がやってきて、馬齢をひとつ加えることとなる。
かなかなに暮れて宴のはねにけり ひよどり 一平
(かなかなにくれてうたげのはねにけり)
季節の巡りは、さすがに忠実ですねえ。
秋雨が降り、にわかに秋めいてまいりました。
我が家の前の道路は、いわゆる「抜け道」的な機能があるらしく、時刻によっては車の往来が激しくなったりします。
人通りもあります。その中に、我が家の前で決まってタバコの吸い殻を捨てる人がいます。3~4人かなァ。
捨てる時間帯は夜。
100メートルほど先にパチンコ店あるので、帰る道すがらに捨てて行くのではないでしょうか。
きっと負けたのでしょうね。
いずれもフィルター付のタバコです。
よほどの愛煙家らしく、吸い口のギリギリまで吸って、ポイと捨てています。
私がそのあたりにいるときには、手前か先へ行って捨てます。一応は悪いと思っているのでしょう。
私もパチンコに嵌まっている時代がありました。20代の終わりころまでのことです。
神田からお茶の水まで、パチンコ店をハシゴしたこともありました。とても疲れたものでした。
いまのパチンコは、昔とは違って、身体にも気分にもいいらしいですね。
不器用だったのか熱意がなかったのか、儲かったことはほとんどありませんでした。馬鹿らしくなって止めてしまったのです。
麻雀のほうが面白くなったからかもしれません。
煙草は50代のころに止めました。止めた理由は健康問題でした。今は、止めてよかったなァと、しみじみと思っています。
禁煙できなかったら、いま以上に病気をしたに違いありません。持って生まれた病弱な体質だったのでしょう。情けないことです。
頑健な人にとって、煙草の害はきっと認識できないのだろうと思います。とてもとても羨ましいことです。
今朝は雨。だいぶ涼しくもなった。
孫たちも静かな朝を迎えている。
話題の傾向として、過去型と未来型があるようだ。
「小学校3年のとき、喧嘩した相手の子に怪我させちゃってねェ」
「東京オリンピックの年に、徹夜麻雀で3万円やられ、家まで歩いて帰えったっけ」
こんな話題が多い人は、どちらかち言えば過去型。
「この手術が成功したら、沖縄の海を満喫したいなァ」
「いっそのこと今のカアチャンと別れて、のんびりと一人暮らしをしようかなァ」
このような人は未来型。
きっと年齢にも関わることでしょうね。
過去の記憶に舞い戻って、ウダウダと後悔ばなしや自慢ばなしをするのは、老人に多いかもしれない。
同じ愚痴るのであれば、未来型がいいのかなァ。
いやいや、いずれにしても、愚痴が多いのは身体に悪そうですね。
過去の楽しい思い出で自分を慰めたり、ささやかな未来を夢見るほうが、健康的かもしれません。
写真は裏磐梯の一景。
八月は心が波立つ月であり、鎮魂の月でもある。
ヒロシマ、ナガサキの原爆の日であり、十五日はポツダム宣言を受諾し、敗戦を世界に宣言した日であった。
まったくひどい戦争をしたもんだ。
当時小学五年生だった私は、否も応もなく、歴とした軍国少年だった。
「しっかり勉強して、特攻隊に入るんだ!」と、イノチガケで思っていた。教育とは恐ろしいものだ。
あれから70年が経った。
瓦礫の中での食糧難時代は、空きっ腹を抱えて、親たちの背中見て育った。
「安保改定反対」の頃は、よく理解もせずに、デモ行進に参加していた。タダで貰えるお弁当に魅力があった。
東京オリンピック以降の高度成長時代は、厭も応もなく、産業戦士の一員だった。
今は一介の高齢者。
先の戦争では叔父二人が戦死した。遺骨は帰って来なかったそうだ。
その娘たち(つまり、私の従妹たち)は、孫たちに囲まれ、静かな余生を送っている。
憲法九条を堅持すれば、国を守れると思っている人たちがいる。
果たしてそうなのだろうか?
明日はまた、八月十五日がやってくる。
八月や未帰還兵に叔父ふたり ひよどり
わが輩は猫である。名前はあるが言わない。
ときどきはこのブログで、わが輩の眼に飛び込んだ人間どもの可笑しさや悲しさを書きたい。
今日の話題は、タカコさんとフミエさんのことだ。
二人とも60歳代の中ごろで、わが輩よりはかなり若い。
タカコさんは痩せぎすで、フミエさんはふっくら型。共に顔立ちが良く、元美人といったところか。
ちょっと見には親友関係なのだが、そこがなかなかややこしい。
二人のそもそもは、その昔、タカコさんがママとしてスナックを経営していた30代の頃、フミエさんはその店の従業員だった。だからかれこれ30年来の付き合いになっているはずだ。
タカコさんは最初のダンナと離婚し、二度目のダンナは3年ほど前に亡くなり、その後同居していた母親にも逝かれてしまった。
フミエさんもかなり以前に離婚し、長い間ひとりぼっちだったとか。
経済的に余裕のあるタカコさんが、お互いの寂しさを慰め合う意味合いを含め、買い物や掃除の手伝いをしてもらうため、フミエさんに週3日ほど家に来てもらっているとのこと。もちろん、相応の報酬は月給として支払われている。
ところがこの二人、なかなか気合いが合わない。タカコさんは雇用関係と思っているのだが、フミエさんは友人関係の延長のつもりのようなのだ。
フミエさんにしてみれば、雇用されている意識よりも友人の意識が強く、友人としての厚意でお手伝いをしているつもりなのではないか。
雄猫のわが輩には、女ごころの微妙なヤリトリは理解できない。
タカコさんはイライラし、そんなタカコさんに戸惑っているフミエさん。
ひょっとしたらタカコさんの心の中に、フミエ依存意識が強くなっているのかも知れない。
人間の社会では、男女を問わず、高齢者の話題は難しい。
わが輩のような猫の世界よりも、人間どもの世界は分かりにくい。
それもこれも、キレイゴトで済まそうという意識が入り込むからではないか。