名城をゆく
岐阜城
濃尾平野の北端、岐阜市街地の北東部に屹立(きつりつ)
する金華山(329m)上に築かれた山城。
井ノ口城、稲葉城と呼ばれた。
南と北に木曽川、長良川という天然の堀をもち、三方
を急峻(きゅうしゅん)な断崖に守られた日本有数の要害
であった。
13世紀の鎌倉時代、二階堂行正(にかいどうゆきまさ)が
ここに初めて城を築き、室町時代には美濃の守護土岐氏
の守護代斎藤利永(さいとうとしなが)が修築して居城と
したとされるが、この城が美濃を制する軍事的、行政的
な名城に飛躍するのは、16世紀半ば、急速に台頭した戦
国の梟雄(きょうゆう)斎藤道三(さいとうどうさん)によっ
てである。山頂には見張櫓(みはりやぐら)、武器蔵などが
造られ、城下町の整備もはじめられた。
ところが道三は、稲葉山城を譲った長男の義龍(よしたつ)
に討たれ、義龍の子龍興(たつおき)が城主のとき、尾張の
織田信長(おだのぶなが)によって落城。
信長は、山上、山麓に本格的な城を築き、城下町を造って
あらたに岐阜(ぎふ)と命名した。
中国周(しゅう)の文王(ぶんおう)が岐山(ぎざん)に興(おこ)
って天下平定をなしとげたという故事に基ずく。
阜(ふ)は丘の意。
信長の岐阜城も以後8年半、その『天下布武』(てんかふぶ)
の拠点となった。
信長が安土(あづち)に移ったあと、岐阜城主は織田信忠
(のぶただ)、信孝(のぶたか)、池田元助(いけだもとすけ)
輝政(てるまさ)、羽柴秀勝(はしばひでかつ)、織田秀信
(ひでのぶ)とめまぐるしく変わったが、秀吉の没後、西軍
に味方した秀信は、関ヶ原の戦いの前哨戦(ぜんしょうせん)
で東軍に惨敗し、翌年、廃城となった。
現在は復興天守が建ち、本丸跡、二の丸跡、上格子門(あげ
こうしもん)跡、馬場(ばば)跡、信長の居館跡、御手洗池(み
たらしいけ)などが岐阜市指定跡になっている。
小学館
名城をゆく
より。転載させていただきました。